詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(55)

2013-09-19 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(55)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「心は」は難解な詩である。

見えてしまうものに
目をつぶる
聞こえてくるものに
耳をふさぐ

 さらりと読んでしまうが、主語は何? 「肉体」かな? つまり「私の肉体」。

見えてしまうものに
「私の肉体である」目をつぶる
聞こえてくるものに
「私の肉体である」耳をふさぐ

 うーん、変だ。何か間違っている。
 ややこしいね。もっと簡単に「私は」と言った方がいいのかな?

見えてしまうものに
「私は」目をつぶる
聞こえてくるものに
「私は」耳をふさぐ

 すっきりした。私は「肉体」にこだわりすぎているのかもしれないなあ。でも、すっきりしすぎる感じもする。何かが違うような気がする。私が最初にこのしにつまずいたときの感じからすると「私」が主語ではないような気がする。
 谷川はタイトルで「心は」と書いている。ためしに「主語」にしてみる?

見えてしまうものに
「心は」目をつぶる
聞こえてくるものに
「心は」耳をふさぐ

 あ、これが一番いい感じ。
 でも、「論理的」に考えようとすると、おかしい。
 「見えてしまうもの」。それを見たくないから、目を閉じる。そうすると、目を閉じるように命令したのは心かもしれないけれど、実際に目を閉じるのは「心」じゃないね。あくまで「肉眼である目」だね。目が目をつぶる。
 この印象があって、私は最初に「私の肉体」を主語にしてしまったのである。
 最初に戻ってしまった。

 別な視点から、ことばを動かしてみる。
 「心は」目をつぶるということは……心は「見なかった」ことにしたいのかな? 聞かなかったことにしたいのかな?
 肉体が体験したのに、それがなかったことにする、といってもそれが実際になくなるわけではない。そうすると、それは「心」の中の仕事? あるいは「頭(精神)」のなかでの仕事?
 その仕事を、でも谷川は「目」「耳」という馴染みのある「肉体」であらわしている。目や耳の動きであらわしている。
 「心」あるいは「頭(精神)」の運動を、肉体を比喩としてつかっていることになるのかな?
 ことばが堂々巡りをしてしまう。

 さらに、そのときの「仕事」は、具体的に考えると、わからなくなるなあ。

心はときに
五感を裏切り
六感を信じない
心はときに
自らを偽っていることに
気づかない

 「五感」あるいは「六感」というのは肉体のなかにある「感覚」。「心」を肉体の比喩で動かしてみると、その動きが「五感/六感」という肉体のなかにあるものを裏切ったり、信じていないことがわかる。
 そのとき「心」は何をしている。
 「心」は自分を偽っている。
 見えてしまうもの--それはほんとうは見たいもの。
 聞こえてくるもの--それは聞きたいもの。
 臭ってくるもの--それはかぎたいもの。
 あるいは見なければならない、聞かなければならない、嗅がなければならないものかもしれない。
 本能が本能の力で無意識に見て、聞いて、嗅いでしまうもの--それを遮断しようとするは、本能を裏切ること、と谷川は言っているのかもしれない。

 この「本能」ということばにたどりつくと、私はまた最初の「主語」で「私の肉体」と書いたところに戻ってしまう。

見えてしまうものに
「本能は」目をつぶる(ことはできない)
聞こえてくるものに
「本能は」耳をふさぐ(ことはできない)

 私は谷川が書いていないことばを補いながら読んでしまう。「誤読」してしまう。

心はときに
五感を裏切り
六感を信じない
心はときに
自ら「の本能」を偽っていることに
気づかない

 このとき、「心」とは何の規制も受けない、無意識の「心」、純粋な心ではなく、○○はしてはいけない、というような「流通概念になってしまっている社会的規制」で教育された心である。そういう「社会的規制」が人間の行動を抑制する。「本能」を傷つける。そういうことに「社会的教育を受けた心」は気がつかない。

 谷川が書いていないこと書きすぎているだろうか。
 でも、こんなふうに逸脱して読んでしまうのが、きっと詩なのだと思う。
 作者がどう思っているかは関係がない。詩人のことばに触発されて、どんどんことばが動いていってしまう。それが詩なのだと思う。
 「難解」で「誤読」を誘ってこそ、詩なのである。

 谷川が、その読み方は間違っていると指摘したとしても、そう読むことは私の本能の形なのだ。本能に正直になれば、どうしても作者の思いとは違うところへいってしまう。私は谷川ではないのだから。
手紙
谷川 俊太郎
集英社
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マジド・バルゼガル監督「パルヴィズ」(4)(★★★★★)

2013-09-19 10:55:35 | 映画
監督 マジド・バルゼガル 出演 レヴォン・ハフトワン


 この映画はレヴォン・ハフトワンの荒く苦しげな「はあ、はあ、はあ」という息と、彼の醜いからだからはじまる。太っている、禿げている、中年である。だぶだぶのTシャツとズボン。汚れがわからないようなダークな色合い。体型や容貌でひとを判断してはいけないのだが、現実ではないので、私は平気で差別してしまう。だらしないなあ。その彼が、窓に新聞がはってある殺風景な部屋にいる。ベッドにごろんところがる。彼は仕事を持っていない。今で言うと「ニート」である。やっぱり、ね。こんな格好していたら、仕事だってないよなあ……。
 映画は、このレヴォン・ハフトワンがなぜ殺風景なアパートにいるのか。そこで彼がどんなふうに生きていくのか、何をみつめ、何を考えるのかを、レヴォン・ハフトワンになりきってみつめていく。長まわしのカメラが、常にレヴォン・ハフトワンの側にいる。その長まわしは一般の長まわしとかなり違う。ふつうの長まわしはカメラのなかで役者が演技をする。役者の「肉体」の連続性が長まわしのカメラを突き破って存在感をもってくるまで長まわしをする。この映画では、レヴォン・ハフトワンは最初から存在感をもっていて、長まわしの必要がない。この映画の長まわしは、レヴォン・ハフトワンの存在感ではなく、彼が存在するときの「周囲」の存在感をうかひあがらせる。窓に新聞をはった室内の光、その光がつくりだすぼんやりしたくすみ、壁の剥がれかけた塗装やあれこれ。レヴォン・ハフトワンの肉体はかわらないが、この部屋だって、これから先、何も変わらない、という感じがする。家具を入れて、部屋を暮らしやすいようにととのえる、ととのえれば新しい生活がはじまるという印象はまったくない。部屋そのものが、もう改善されることを放棄したレヴォン・ハフトワンの肉体のようなのである。--これは、部屋そのものがそういう性質のものであるというより、レヴォン・ハフトワンにみつめられることによって、そうなっているのである。そのことがわかるまでには、かなり時間がかかる。観客はがまんして、このレヴォン・ハフトワンの視線どおりに動くカメラになれないといけないのだが……。
 いったん引き込まれてしまうと、これは、すごい。見ていてレヴォン・ハフトワンになってしまう。彼の息遣いそのものになってしまう。このとき、おそろしいことがひとつある。息遣いの「はあ、はあ、はあ」以外に、彼を印象づける「音」がないのだ。ふつうの映画のように、音楽が彼の心情を代弁するということがないのである。ふつうの映画では悲しい場面には悲しい音楽が流れる。何かが起りそうなときには、これから何かが起こるぞという感じをあおる音楽が流れる。そういう映画文法のなかで、観客は主人公と一体化するのだが、この映画はそういう一体化を拒絶して、「はあ、はあ、はあ」とだけ一体になるよう迫ってくるのである。視線(カメラ)の動きとともに「はあ、はあ、はあ」が重なると(その息が実際に聞こえないときにさえ、彼の息遣いは耳のなかに響く)、もうレヴォン・ハフトワンになるしかないのである。
 沈黙と、「はあ、はあ、はあ」。ときどき噴出する短い台詞。それはいつでもレヴォン・ハフトワンを傷つける。父親の「肉が生焼けだ」「塩をかければ」「塩で焼けるのか」という批判。クリーニング店長の「スーツをもっていないだろう」など。有効な反論がない。何も言えないことと、「沈黙」が重なり合う。「はあ、はあ、はあ」。そのなかに、ことばにならないことば、沈黙と拮抗する何かが生まれてくる。レヴォン・ハフトワンの味方をするものは何もない。(音楽もそうだが、背景をつくりだしている室内や調度も、彼を代弁しない。彼の精神がどう動いているかを印象づけない。)味方は「はあ、はあ、はあ」だけである。
 そういう息苦しい展開のなかで、最後だけ、映像が大きく変化する。その変化はそのままレヴォン・ハフトワンの変化でもある。レヴォン・ハフトワンがテーブルに座るとき、最初のシーンでは画面の右側。左側が父親。アパートでひとりで食べるときも右側。少年がやってきてふたりで掛けるときもレヴォン・ハフトワンは右側。左側に少年。いつも右側に座ることでレヴォン・ハフトワンが「権力」的に弱いということをこの映画は象徴しているのだが、最後は位置が逆になる。レヴォン・ハフトワンが左側。父親が右側。そして、そのとき台詞。「たばこを吸うな。ここは私の家だ(私にしたがえ)」「私は客だ」。明確に自己主張し、反論する。「肉が生焼けだ」と批判されたときのように、やりこめられるだけではない。
 食事のあと、「話をしよう」と父親をソファに腰掛けさせる。このときは父は左側、レヴォン・ハフトワンは右側になるのだが、右側ではあってもレヴォン・ハフトワンはテーブルの左側の椅子(それまで座っていた権力の椅子)をもってきて、向き合う。この動きを、例の長まわしのカメラがずるーーーっという感じでとらえる。切り返しの方が映像がきれいだと思うが(椅子が明確になると思うが)、あくまでレヴォン・ハフトワンの視線の動きにこだわるのである。そのずるーーーっと動くカメラのなかで最後にレヴォン・ハフトワンの顔がアップで映ると、あ、もう、私は完全にレヴォン・ハフトワンそのもの。その後起きることはこの映画では描かれていない。観客の想像力に任されているのだが、それまでの策略で夜警の主任を追い出したり、赤ん坊を誘拐し放置したり、小犬をごみといっしょに捨てたり、クリーニング店長を殴り殺したりするのを見たあとでは、何が起きるか簡単に想像できる。--想像できるというのは、私がレヴォン・ハフトワンになってしまっている証拠で、それがこわくてどきどきするのだが、なんだかわくわくもするのである。これですべて片がついた。片をつけてやるぞ、と思ってしまうのである。

 この映画の狙いは、人間を孤立させる社会が、孤立した人間をどんなふうに暴力的にしてしまうか、誰もが暴力的になる危険をもっているということを明確にすることにあるのかもしれないが、そういう社会メッセージを抜きにして、私はレヴォン・ハフトワンになってしまうことに溺れてしまった。
 そういう魔力をもっている。映画そのものの情報量を極端に少なくする演出理念、独自のカメラの動き、音楽の処理--どれもこれも、きわめて新しい。絶対に見逃してはいけない映画なのだけれど、一般公開の予定はまだ立っていないようである。ぜひ、日本でも一般公開してほしい作品である。
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中島真悠子『錦繍植物園』

2013-09-19 09:25:18 | 詩集
中島真悠子『錦繍植物園』(土曜美術出版販売、2013年09月20日発行)

 「台所」という作品の書き出しに引き込まれる。

包丁の角をつきたてて
ぐるりとねじこみ えぐる
台所の隅に置かれてあったじゃがいもは
いつのまにか芽を伸ばしていた
毒を含むそこ

 放置されているもののなかにも「いのち」があり、それは芽吹く。そして、その芽吹きは「毒を含む」というのは--最近見たマジド・バゼル監督「パルヴィズ」の主人公を思い出させる。(私はこの映画のショックからまだ立ち直れないのだが……新しすぎて、その映画の魅力を書き表すことばがまだ見つからないのだが……)
 その毒を、「包丁の角をつきたてて/ぐるりとねじこみ えぐる」と動詞を三つ重ねて追い込んでいくときの動きがとてもいい。中島真悠子に私は会ったことがないのだが、こういう肉体の動きを読むと、会ったような気がしてしまう。私の「肉体」がおぼえていることが、中島の書く動詞といっしょに動き、私の「肉体」と中島の「肉体」が、「ことばの肉体」をとおして重なり合う。その重なりに、違和感を感じない。しっくりと、感じる。あ、そこ、という感じ。--こういう感じを私は「ことばの肉体でセックスする」というのだけれど。
 じゃがいもの芽をえぐる--ということは、簡単に「じゃがいもの芽をえぐる」、あるいは「取り除く」で十分なのだけれど。言い換えると、料理本のマニュアルにはたぶんじゃがいもの芽は最初に「取り除いて」くらいの表現ですませているのだろうけれど。それを「包丁の角をつきたてて」から書きはじめると、読みながら「肉体」が動くでしょ? そして、いっしょに「肉体」を動かしながら、その動きが甦る。ここには本当のことが書いてある、ということを自分の「肉体」の記憶として思い出す。中島は自分の体験を書いているのだけれど、具体的で、ていねいで、正直なので(省略も、嘘もないので)、それが迫ってくる。
 そして、これは中島が書いていないのだけれど。
 「包丁の角をつきたてて/ぐるりとねじこみ えぐる」という具合に、しつこい感じ(?)が何か、ほら、自分のなかで「悪意」があるときの気持ちの発散の仕方を感じさせるでしょ? 何かを痛めつけている感じがするでしょ? 「取り除く」では、この、何かを痛めつけるときの、「肉体」の力の入り方が出てこない。(感じられない)。
 うーん。
 中島はじゃがいもの芽が「毒を含む」と書いているのだけれど、それだけではないね。その芽を見て、毒を感じるとき、中島のなかにも無意識の毒が含まれている。だから「取り除く」ではなく「包丁の角をつきたてて/ぐるりとねじこみ えぐる」と動くのだ。じゃがいもの毒と同時に中島は中島の中の無意識の毒を発見している。

新しい生 は
朝の台所で
儀式のように
正しく切り取られていく

 毒は「新しい生」でもある。中島の「肉体」のなかから生まれて、まだ「肉体」になりきれない「いのち」である。そう気づくからこそ、ここで中島のことばはいったんにぶる。「儀式のように/正しく切り取られていく」。暴力や憎しみはなく、それを「儀式」をとおしてととのえるという無意識が働く。
 ここはあまりおもしろくないが、その「儀式」によって「いのち」が傷ついた感じ(感傷的になった感じ?)が、次の連でそのままことばになるのを読むと、あ、中島は揺れ動いているということがよくわかる。

ざらつく表皮
歪みくぼんだ塊
内からあふれだした芽
そのように
私という塊にも

 なかなか「毒」を「これが私の毒です」と、目を背けたくなるような形、えぐりとってしまえ、という残酷な気持ちを引き出す具合に表現するのはむずかしいね。自分に(自分とつながる人間に)遠慮している。だから、

姉の腕が
母の舌が
出てくる出てくる
目が髪が歯が
背から肩から頬から
歳月をかけて
かすかに毒を含んで

 「毒」が毒のままではなく「かすかに」と弱められてしまう。これは残念だなあ。弱まった毒は、もう毒ではなくて、「薬」だ。「肉体」を(暮らしを、思想を)、ことばでととのえようとしている。この無意識は詩の大敵である。
 これをどうするか。詩の大敵である無意識の「良識」、毒を「かすか」なものにおさえて他人の批判をかわす動きをどうするか--後半の詩を読むと、その操作を中島は「フィクション(物語)という形で処理するのだが、うーん、これは中島の選んだ方法だとしたら、ちょっと残念。
 物語のなかで「概念」の動きをつかまえる。「意味」を描くというのは、詩の仕事ではないのである。概念を書かないと(この詩でいえば「歳月をかけて/かすかに毒を含んで」のなかに暮らしの意味、概念がある)、ことばは成立しないという心配があるのかもしれないけれど、「もの」と「肉体の動き」を描けば、「意味/概念」は読者の肉体のなかで勝手にできあがるのである。そこで「ことばの肉体」のセックスが可能なのである。「概念」を持ち込むと、せっかくの「ことばの肉体セックス」が「頭のセックス」におわってしまう。「現実」が「妄想」になってしまう。

 この詩は、途中でかなり寄り道をするが、最後はなんとか「肉体」を復活させている。どこかしぶといところがある。

私は待っている
掘り起こしてくれるやさしい手
するすると皮を剥けばこんなにも
おいしく肥えた内実だと
子宮のようにたっぷりと水を張ったボールに
ごろりと沈めれば
静かにぬくい朝の明るい台所

 生まれ変わった「いのち」が「待っている」女性に限定されているのが少しくやしいけれど。そのととのえ方が「毒」となって、社会に広がっていくよ、と私は言っておきたい。こんな形の「女性詩」を突き破る毒になってほしい。書き出しにはその力がこもっているのだから。



文芸雑誌「狼」21号
古山正己,加藤思何理,岡田ユアン,石川厚志,颯木あやこ,広田修,木下奏,中村梨々,中島真悠子,三浦志郎,小山健,光冨郁埜,服部剛,坂多瑩子,洸本ユリナ,高岡力,今鹿仙,坂井信夫
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