谷川俊太郎『こころ』(55)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)
「心は」は難解な詩である。
さらりと読んでしまうが、主語は何? 「肉体」かな? つまり「私の肉体」。
うーん、変だ。何か間違っている。
ややこしいね。もっと簡単に「私は」と言った方がいいのかな?
すっきりした。私は「肉体」にこだわりすぎているのかもしれないなあ。でも、すっきりしすぎる感じもする。何かが違うような気がする。私が最初にこのしにつまずいたときの感じからすると「私」が主語ではないような気がする。
谷川はタイトルで「心は」と書いている。ためしに「主語」にしてみる?
あ、これが一番いい感じ。
でも、「論理的」に考えようとすると、おかしい。
「見えてしまうもの」。それを見たくないから、目を閉じる。そうすると、目を閉じるように命令したのは心かもしれないけれど、実際に目を閉じるのは「心」じゃないね。あくまで「肉眼である目」だね。目が目をつぶる。
この印象があって、私は最初に「私の肉体」を主語にしてしまったのである。
最初に戻ってしまった。
別な視点から、ことばを動かしてみる。
「心は」目をつぶるということは……心は「見なかった」ことにしたいのかな? 聞かなかったことにしたいのかな?
肉体が体験したのに、それがなかったことにする、といってもそれが実際になくなるわけではない。そうすると、それは「心」の中の仕事? あるいは「頭(精神)」のなかでの仕事?
その仕事を、でも谷川は「目」「耳」という馴染みのある「肉体」であらわしている。目や耳の動きであらわしている。
「心」あるいは「頭(精神)」の運動を、肉体を比喩としてつかっていることになるのかな?
ことばが堂々巡りをしてしまう。
さらに、そのときの「仕事」は、具体的に考えると、わからなくなるなあ。
「五感」あるいは「六感」というのは肉体のなかにある「感覚」。「心」を肉体の比喩で動かしてみると、その動きが「五感/六感」という肉体のなかにあるものを裏切ったり、信じていないことがわかる。
そのとき「心」は何をしている。
「心」は自分を偽っている。
見えてしまうもの--それはほんとうは見たいもの。
聞こえてくるもの--それは聞きたいもの。
臭ってくるもの--それはかぎたいもの。
あるいは見なければならない、聞かなければならない、嗅がなければならないものかもしれない。
本能が本能の力で無意識に見て、聞いて、嗅いでしまうもの--それを遮断しようとするは、本能を裏切ること、と谷川は言っているのかもしれない。
この「本能」ということばにたどりつくと、私はまた最初の「主語」で「私の肉体」と書いたところに戻ってしまう。
私は谷川が書いていないことばを補いながら読んでしまう。「誤読」してしまう。
このとき、「心」とは何の規制も受けない、無意識の「心」、純粋な心ではなく、○○はしてはいけない、というような「流通概念になってしまっている社会的規制」で教育された心である。そういう「社会的規制」が人間の行動を抑制する。「本能」を傷つける。そういうことに「社会的教育を受けた心」は気がつかない。
谷川が書いていないこと書きすぎているだろうか。
でも、こんなふうに逸脱して読んでしまうのが、きっと詩なのだと思う。
作者がどう思っているかは関係がない。詩人のことばに触発されて、どんどんことばが動いていってしまう。それが詩なのだと思う。
「難解」で「誤読」を誘ってこそ、詩なのである。
谷川が、その読み方は間違っていると指摘したとしても、そう読むことは私の本能の形なのだ。本能に正直になれば、どうしても作者の思いとは違うところへいってしまう。私は谷川ではないのだから。
「心は」は難解な詩である。
見えてしまうものに
目をつぶる
聞こえてくるものに
耳をふさぐ
さらりと読んでしまうが、主語は何? 「肉体」かな? つまり「私の肉体」。
見えてしまうものに
「私の肉体である」目をつぶる
聞こえてくるものに
「私の肉体である」耳をふさぐ
うーん、変だ。何か間違っている。
ややこしいね。もっと簡単に「私は」と言った方がいいのかな?
見えてしまうものに
「私は」目をつぶる
聞こえてくるものに
「私は」耳をふさぐ
すっきりした。私は「肉体」にこだわりすぎているのかもしれないなあ。でも、すっきりしすぎる感じもする。何かが違うような気がする。私が最初にこのしにつまずいたときの感じからすると「私」が主語ではないような気がする。
谷川はタイトルで「心は」と書いている。ためしに「主語」にしてみる?
見えてしまうものに
「心は」目をつぶる
聞こえてくるものに
「心は」耳をふさぐ
あ、これが一番いい感じ。
でも、「論理的」に考えようとすると、おかしい。
「見えてしまうもの」。それを見たくないから、目を閉じる。そうすると、目を閉じるように命令したのは心かもしれないけれど、実際に目を閉じるのは「心」じゃないね。あくまで「肉眼である目」だね。目が目をつぶる。
この印象があって、私は最初に「私の肉体」を主語にしてしまったのである。
最初に戻ってしまった。
別な視点から、ことばを動かしてみる。
「心は」目をつぶるということは……心は「見なかった」ことにしたいのかな? 聞かなかったことにしたいのかな?
肉体が体験したのに、それがなかったことにする、といってもそれが実際になくなるわけではない。そうすると、それは「心」の中の仕事? あるいは「頭(精神)」のなかでの仕事?
その仕事を、でも谷川は「目」「耳」という馴染みのある「肉体」であらわしている。目や耳の動きであらわしている。
「心」あるいは「頭(精神)」の運動を、肉体を比喩としてつかっていることになるのかな?
ことばが堂々巡りをしてしまう。
さらに、そのときの「仕事」は、具体的に考えると、わからなくなるなあ。
心はときに
五感を裏切り
六感を信じない
心はときに
自らを偽っていることに
気づかない
「五感」あるいは「六感」というのは肉体のなかにある「感覚」。「心」を肉体の比喩で動かしてみると、その動きが「五感/六感」という肉体のなかにあるものを裏切ったり、信じていないことがわかる。
そのとき「心」は何をしている。
「心」は自分を偽っている。
見えてしまうもの--それはほんとうは見たいもの。
聞こえてくるもの--それは聞きたいもの。
臭ってくるもの--それはかぎたいもの。
あるいは見なければならない、聞かなければならない、嗅がなければならないものかもしれない。
本能が本能の力で無意識に見て、聞いて、嗅いでしまうもの--それを遮断しようとするは、本能を裏切ること、と谷川は言っているのかもしれない。
この「本能」ということばにたどりつくと、私はまた最初の「主語」で「私の肉体」と書いたところに戻ってしまう。
見えてしまうものに
「本能は」目をつぶる(ことはできない)
聞こえてくるものに
「本能は」耳をふさぐ(ことはできない)
私は谷川が書いていないことばを補いながら読んでしまう。「誤読」してしまう。
心はときに
五感を裏切り
六感を信じない
心はときに
自ら「の本能」を偽っていることに
気づかない
このとき、「心」とは何の規制も受けない、無意識の「心」、純粋な心ではなく、○○はしてはいけない、というような「流通概念になってしまっている社会的規制」で教育された心である。そういう「社会的規制」が人間の行動を抑制する。「本能」を傷つける。そういうことに「社会的教育を受けた心」は気がつかない。
谷川が書いていないこと書きすぎているだろうか。
でも、こんなふうに逸脱して読んでしまうのが、きっと詩なのだと思う。
作者がどう思っているかは関係がない。詩人のことばに触発されて、どんどんことばが動いていってしまう。それが詩なのだと思う。
「難解」で「誤読」を誘ってこそ、詩なのである。
谷川が、その読み方は間違っていると指摘したとしても、そう読むことは私の本能の形なのだ。本能に正直になれば、どうしても作者の思いとは違うところへいってしまう。私は谷川ではないのだから。
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