詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(54)

2013-09-18 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(54)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「腑に落ちる」は変な詩である。何が変化というと「論理」的ではない。--というのは、言い方がよくないが。論理を超えるのが詩なのだから、詩が論理的手あるはずはないのだが。でも、谷川の詩は論理を踏まえながら、論理を超える、論理を突き破るところにひとを驚かす要素があって、あ、そうなのか、そういうふうにことばになるのか、という驚きがあって、それが特徴となっている。
 「腑に落ちる」には、その論理を突き破る論理、という特徴から少しずれている。そのために、何か奇妙な感じになる。でも、その奇妙な感じが、いいなあとも思うのだが。

 1連目は「腑に落ちる」ということばをつかって、「腑」って、どこ?と問いかける。「下腹あたり」を指さしながら、質問されたひとは「どこかこのあたり」と答えている。それに対する2連目。

そこには頭も心もないから
落ちてきたのは言葉じゃない
それじゃいったい何なんだ
分かりませんと当人は
さっき泣きじゃくったせいか
つき物が落ちたみたいに涼しい顔

 「言葉」を受け止めるのは「頭」か「心」かのどちらかであるという前提で、谷川は「腑に落ちた」のは「言葉」ではない、と主張している。そして、それでは「腑に落ちる」というとき、何が腑に落ちるのか、というようなことをさらに問いかけるのだけれど、
 うーん、
 禅問答みたいでわからない。
 谷川の「論理」は「禅問答」とは遠い世界だと思っていたが、ここでは「論理」が何かを超越している感じ。
 で、「わからない」と言ったひとは、「涼しい顔」。
 この「超越」の仕方が、かなり変わっている。

 いつか、ここに書かれていることが、ぱっとわかるときが来るかもしれないけれど、どうにも「論理」がつかみきれない。どんな具合に「論理」を破って、そこに詩が出現するのか、その「構造」のようなものが見えない。
 だからこそ、この詩が気にかかる、気にかかって、それがいい感じなのである。「肉体」を刺戟してくる感じが妙なのである。
 「腑に落ちる」の「腑」が肉体だから?
 かもしれない。
 「腑」と「涼しい顔」が向き合っている。「腑」と「顔」が向き合って、その向き合った部分に、顔は「涼しい」という感覚をねじ込む。そこがおもしろい。でも、そのことをこれ以上は書けない。どう書いていいかわからない。

 というよりも、というか……。
 書きながら、私には気になって仕方のないことがひとつある。
 最後から2行目--これが、私の「記憶」と違っている。私は記憶力はよくないし、詩を暗唱するということもないのだが、引用しながら、あれっ、

さっき泣きじゃくった「くせに」

 じゃなかったのか。そう思ったのだ。
 この詩が朝日新聞に載ったとき、その感想を書いたはずだから、そのときの引用と比較してみればわかることかもしれないが。
 どうして、そう思ったのかなあ。
 「……せいか」だと、順接というのだろうか、論理がまっすぐに進んでいく。「……くせに」だと逆接になる。あることがらが「反対」の方向に向かうとき、「……くせに」になる。
 たぶん私は、谷川の詩は「論理を否定する論理」の形として生まれると思い込んでいて、そのために「……せいか」という「逆接」の運動を無意識のうちに持ち込んでいたのである。

 で、そのことを考えると。
 そうか、この詩を変だなあとどこかで感じたのは、この詩が逆接による論理の破壊ではないからだな、ということがわかる。
 順接によって、論理を超越していくのだ。破壊ではなく、論理を土台にして、別の次元へ飛んでしまう。それこそ、泣いていたのに、泣いていたことなどなかったかのように、涼しい顔をしている。そんなこと、あったっけ、という顔をしている。
 逆接による論理の破壊(論理の否定)よりも、順接による論理の超越(無意味への飛躍)の方が、なにか「絶対的」なものを感じさせるね。強いね。
 その「強さ」を私は受け止められなくて、変だなあ、と感じたのだろう。



 私の、この谷川俊太郎「心」再読の感想は、論理をととのえないことを自分に課しながら書いている。読み返さない。書き直さない。思いつくまま、という「ライブ」の感覚。とはいえ、今回の感想は、あまりにも飛躍が多いかな。支離滅裂かな?
 でも、ふらふらしながら「順接による論理の超越=詩」というところへ、突然、たどりつけたのはなんとなく気持ちがいい。
 多くの抒情詩は「逆接の抒情詩」(敗北の抒情詩)である。どういうことかというと、ほんとうはこれこれのことがしたいという青春の夢があるが、それは実現することなく破れた、そして精神が哀しみを発見した、という感じ。青春が敗北するということが、「逆接」なのだ。
 谷川の、この詩の「抒情」というか「感情」の動きは、夢が破れた(?)けれど、そんなことは気にしない。「敗北」に美なんか探し出さない。「負けちゃった、泣いちゃった」と、さっさと切り上げて、別なことをしはじめる。
 なんといえばいいのかなあ。(と書きながら、私は考えるのである。時間かせぎだね。)
 それはきっと、「無意味の抒情詩」なのである。
 多くの抒情詩が「逆接の抒情詩」「敗北の抒情詩」であるのに対し、たの「腑に落ちる」は「超越/無意味の抒情詩」である。「超越」が「無意味」であるのは、「超越」したとき、それまでの「意味」が「意味」でなくなるからだ。(と、論理を偽装しておく。)
 この「無意味の抒情詩」が「腑」という「肉体」を露骨に表現することばといっしょに動いているところが、とてもおもしろい。




手紙
谷川 俊太郎
集英社
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マジド・バルゼガル監督「パルウィズ」(3)(★★★★★)

2013-09-18 14:09:22 | 映画
マジド・バルゼガル監督

 マジド・バルゼガル監督が20日まで福岡に滞在しているという情報を聞き、なんとか感想を伝えられないだろうかと思っていたら、面会を取り持ってくれるひとがいた。で、会ってきた。
一番印象的だったのがラストシーンだたったので、そのことを伝えたかった。いままで2回ブログに感想を書いたが、なかなかそのことをことばにできなかった。作品が新しすぎて、そこで起きていることはもちろん、自分の感想さえ、なかなかことばにならないのである。

 私がノートに書いた絵を見せながら話したのだが、話す前に監督がスマートフォンで私のへたくそな絵を写真に撮っていた。(あ、証拠写真?として、その姿を撮るべきだったかなあ。「パルヴィスがとても似ている。私も絵コンテを描く。こんなに上手くはない」というのはお世辞だろうけれど、この絵が気にいったみたい。)



 で、その絵を中心に話したことは、以下のようなこと。(――は私の言ったこと。)
――主人公が最初の食事のシーンでは右側、父親が左側に座っていた。アパートでひとりで食べるときも右側だった。ところが、最後のシーンではパルヴィズが左、父親が右に座っている。父親と主人公の力関係が逆転したことを象徴している。
監督「質疑応答のときだれもそのことを言わなかった。質問してほしかった。だれも気づかなかったのかと思っていた。あした来て、質問してください。アパートで少年と向き合うときも少年は左側。少年の方が権力があるのだ。描きたかったことが、そこに集約されている」
――気づいていたけれど、それがなかなかことばにならない。衝撃が強すぎて、ことばになるまで時間がかかる。そして、食事のあと話し合いをするとき、父親が妻とならんでソファに座る。それが左側。主人公が右側になるが、そのときカメラが切り返しではなく、ずるっとひきずるように動くのがとても印象的だ。
監督「主人公は、テーブルから椅子をもってきて座る。椅子が権力の象徴なのだ」
――椅子をもってくるのも印象に残っているが、ことばにできなかった。ブログに書いたけれど、ほんとうに新しすぎて、そのことにことばがついていけない。ただ衝撃だけが残っている。
 で、この映画のテーマのようなものが、そのラストに象徴されていることを踏まえた上で、私はもう一度、最後のカメラの長まわしにこだわって、
――カメラの長まわしにひきずられるように、自分が主人公になってしまったような気持ちになる。私は主人公のように太ってもいないし禿でもないのだが、まるで主人公になってしまう。話をしようといったあと、主人公が父親に何をしたか、この映画は描いていないのだけれど、何をするかが自分のなかでわかって、それがどきどきするし、またわくわくもする。変な気持ちだが、主人公と一体になってしまって、何か、打ちのめされたような感じで椅子から立ち上がれなかった。隣の女性二人が映画が終わるとすぎに立ち上がって出て行ったのでびっくりした。
監督「この映画では、カメラは第三者の位置に立っていない。常にパルヴィズの視線に添っている。パルヴィズの視線の右を向けば右、ふりかえればふりかえるという具合。エレベーターの段差をみつめるシーンでは、うえから」
――室内のときは、ふつうのひとの視線の高さと似ているので、そこまでは気がつかなかったけれど、ゴミといっしょに捨てた犬を少年が探しているのを上から見下ろしているシーンは、そういうパルヴィズの視線をはっきりと感じさせる。あのシーンも印象に残っているが、印象に残っているのはそのためだと思う。
監督「カメラがパルヴィズであるようにするために、レンズも変えていない。ひとつのレンズで映画を撮っている」
――その効果なのだと思う。最初は何かよくわからなかったが、だんだんパルヴィズそのものになってくる。主人公を見ているというより、主人公になってしまって世界を見はじめる。最後は、不思議だけれど、ほんとうにどきどき、わくわくしてしまう。
監督「最初が長いという指摘はあるが、長くする必要があった」
――長くはないと思う。前半があるから、後半のパルヴィズと一体化したカメラが、そのままパルヴィズになるのがよくわかる。映画を見ているとパルヴィズになってしまう。

――これまでのイラン映画だと、日常を描いていても、そこにファンタジーのようなものがある。この映画では夢は夢でも「悪夢」がある。その悪夢に気づかされるような衝撃、パルヴィズにひきずりこまれ、パルヴィズになってしまうこわさがある。
監督「これまでのイラン映画では貧しいひとの暮らしか、上流階級の暮らしを描いていた。貧しいひとの暮らしのなかにはストーリーがいっぱいある。ストーリーだらけである。そういうストーリーではなく、団地にすむ中流のひとのことを描いてみたかった。団地にすむひとを描いたイラン映画はまだない」
――時代は上流と下流に二極分化が進んでいる。そのなかで中流が引き裂かれ、上流に行けないひとが暴力を振るいはじめる。その不気味な動きは、まだまだ顕在化していないけれど、10年後には、この映画が描いていたものがはっきりわかるようになると思う。私自身にしても、たとえばパルヴィズのように中年で太っていて仕事をもっていないひとがいれば無意識的に避けてしまう。それはやはり一種の差別で、そういうものが暴力を育てるということをはっきり描いている。で、それが告発の形であらわれるのではなくて、パルヴィズそのものに私がなってしまうという形で表現されているのが、こわい。打ちのめされる。まったく新しい。(そのとき語らなかったことも、補足して書いています。)

――この映画は台詞が非常に少ない。しかし、それがとも効果的に動いていると思う。最初のパルヴィズと父親との食事のときの対話、「肉が焼けていない」「塩をふれば」「塩をふれば焼けるのか」や、クリーニング店長の「スーツをもっていないだろう」という指摘が、パルヴィズにぐさりとささる。
監督「沈黙を描きたかった。沈黙が長すぎるという指摘もあったが、饒舌ではことばでの説明になる。ことばではなく、映像で、視線で映画を撮りたかった。この映画では余分なものは全部排除した。映画を撮る前にスタッフに話した。音楽があれば、音楽がそのときの気持ちを過剰におしつける。ふつうのシーンでも音楽で悲しくなる。部屋にあるもの、壁の色やなかにでも、主人公の気持ちを過剰に感じさせる。演出してしまう。そういうもの排除し、主人公の視線をそのまま描くことで一本の映画にする。小説には一人称のスタイルがある。(この一人称というのは、通訳のひともちょっとあいまいだったので、私が「一人称」と言い添えたのだけれど、「私小説」ということばでもいいかもしれない)映画はふつう三人称だけれど(客観的な第三者の視点から撮影する)、この映画ではあくまで「一人称」、パルヴィズの視点だけで世界を描きたかった。台詞ではなく主人公の荒い息遣いで、そこにあることを表現する」
――沈黙と拮抗することば。ことばが短いほど沈黙があふれる。単に長くなるというのではなく、沈黙の存在がくっきりする。主人公の息遣いも、ずっーと耳に残る。それも私とパルヴィスを一体化する。カメラの視線と、息遣いとで、映画を見ているとまるでパルヴィズとひとつになってしまう。そして、どきどきする。一体化してしまったことに、不思議な興奮を感じる。
(監督夫人が、こういうやりとりの前後にあらわれた。美術監督をしているという。)
――アパートの室内の、ものがない感じがとてもよかった。
美術監督「ありがとう」

 ほかにもいろいろ話したと思うけれど、強く覚えていること、私が映画から感じたことはこれだったんだなあと思うことだけを思い出して書いてみた。
 映像の力で人間の、いままで私たちが見逃していた「悪夢(悪意?)」のようなものを浮かび上がらせる力はすごい。まったく新しいと思う。私の感じだ主人公との一体化というのは――なんというか、ほんとうは一体化してはいけないのだけれど、自分のなかにそういう要素があるという発見として、どきりとするのである。そういう人間を産む社会の告発というのが、監督の狙いかもしれないが、私はそれを通り越してしまって、パルヴィズそのものの「悪夢」のようなものに引きつけられるのである。
 会話していたときにでてきたことと関連させると、こういう「悪夢」を肉体のうちにかかえた人間は「中流階級」が二極分離するとき、そこからこぼれ落ちるとき、パルヴィズの暴力がそのまま噴出するように感じられる。それは10年後の世界にはあふれかえっているような気がする。そういう暴走を阻止するためにどうすればいいのか、というのは別問題で、映画(芸術)は、その人間をリアルに具体化すればそれでいいのだと思う。
 映画というよりも、人間観察、人間造形をやっている。「哲学」を映像で試みているのだと思う。現代の問題を描く「社会派」というよりも、「現代人」の内面をどこまで掘り下げて描くか(探るか)を真剣に、正直に、根気よくやっている。

 監督と話すことができて、自分がこの映画から感じたものをやっとことばにすることができた。この映画は何度も書くように新しすぎる。新しすぎて、それを私のことばにするには時間がかかる。監督との話を含めて、私の場合3日かかった。3日かかっても、まだ全部をことばにできているとは言えないのだけれど、なんとなく、こころが落ち着いた。
 このあと、少し映画を離れて(あるいは別の映画に関連づけて)
――イラン人には髭をはやしたひとが多いが、監督が髭をはやしていないのは?
監督「数日前、福岡に台風が来た。その台風に吹き飛ばされてしまった」
 あ、ユーモアのある人だ。
――先日見た「沈黙の夜」では主人公が髭を剃ることが、因習から脱却する象徴として描かれていた。監督は古い世界から脱却している、という「証拠」として髭をそっているのかと思った。
監督「来年福岡に来るときは巨大な髭をはやしてくるよ」
通訳のひとの補足「あれはトルコ映画。トルコとイランは違う。イラン人は半分くらいが髭をはやしていない。キアロスタミもはやしていない。トルコでは髭が男の象徴のように思われている」
――アラビア語とイラン語はだいぶ違うんですか?
通訳のひと「日本語と中国語くらい違います。アフガニスタンでもペルシャ語を話します」
その髭のない監督との写真。
(3人写真の右端が監督夫人、中央は通訳のひと。通訳つきの贅沢な対談だった。)




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