詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(37)

2013-09-01 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(37)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「言葉」を読むと、ああ、東日本大震災のあとの衝撃から、ことばがやっとことばとして動くことができるようになったのだ、という感じがする。「出来事」ではなく、ことばは遅れてあらわれる、のである。

何もかも失って
言葉まで失ったが
言葉は壊れなかった
流されなかった
ひとりひとりの心の底で

 ひとはことばを失う。どう語っていいか、わからない。ことばが出てこない。でも、そういうときも、ことばは「壊れた」のではなかった。
 「壊れなかった」という「出来事」が「言葉」といっしょに遅れて、いま、あらわれたのである。ことばが動いて、「言葉は壊れなかった」という「事実」を「出来事」として、いま、ここに、「あらわす」。そのことばのなかから「言葉は壊れなかった」という事実が出来事としてあらわれる。
 そういうことは、すぐには起きない。どうしても「遅れて」やってくるしかない。
 でも、遅れてやってくるからこそ、それは「ああ、そうだったのだ」という感じで、ころろの奥底をつかむ。

言葉は発芽する
瓦礫の下の大地から
昔ながらの訛り
走り書きの文字
途切れがちな意味

言い古された言葉が
苦しみゆえに甦る
哀しみゆえに深まる
新たな意味へと
沈黙に裏打ちされて

 ここには、不思議な「矛盾」のようなものが満ちている。「発芽する」ことばは、新しいことばではない。それは「昔ながらの訛り」「言い古された言葉」である。つまり、私たちが「覚えている」ことば。それが、いま「肉体」の奥から「発芽」してくる。新しい種がまかれて、それが発芽するのではなく、私たちの「肉体」のなかに生き残っていたことば、壊れなかったことばが、もう一度、生きはじめる。
 「発芽する」は「甦る」なのである。そして「発芽する」は単に大地から生まれることではなく、その大地の内部へ「深く」根を張ることでもある。「発芽する」は天に手を伸ばすと同時に、地の奥に深く根をのばす。
 そうやって、ことばは「新たな意味」になる。
 「意味」が大事なのではなく、きっと「新たな」が大事なのだ。

 きのう読んだ詩では「シヴァ神」が「新たな意味」になりきれていなかった。「破壊と創造」ということばといっしょに書かれていたが、そのときは「破壊」の「意味」しか動いていない。「破壊」の衝撃が強すぎて、「創造」の「意味」がどんなふうに動いているわからない。
 それが、いまでは、わかる。
 「苦しみ」「哀しみ」とより合わさって、ことばが動きだすとき、そこには、まだことばになりきれない愛だろうか、喜びだろうか、なんと名づけていいのかわからないものが動きはじめる。「苦しみ」をやわらげ、「哀しみ」をなぐさめる何かかもしれないけれど、正確にはどう呼んでいいか、わからない。
 なぜなら、それは
 「新たな」
 何かだからである。「新たな(意味)」には、まだ、「名前」はない。その「名前」は発芽したことばが花を咲かせ、実を結んだときに、やっとわかる。「新たな意味(名前)」は、やはり「遅れてあらわれる」しかない。

 でも、私たちはわかっている。どんなに「遅れて」あらわれても、それは必ずあらわれる、ということを。

生きる
谷川 俊太郎,松本 美枝子
ナナロク社
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野獣派の雨、

2013-09-01 23:16:55 | 
そのページに書かれていた目は激しく降り始めた雨を見ていた。
並木のある通りは暗くなり、いつもは見える駅のビルも灰色にかすんでいる。
降ってくる雨粒同士がぶつかり空中に飛び散っている。
そう描写したあと、目は少し迷った。
アスファルトに溜まりはじめた水を車がはねあげる。
しぶきがケヤキの下の低い植え込みにかかる。
その瞬間、はね上げた水の白さのせいで植え込みが瞬間的に藍色に見える。
目の記憶は、しかし、そのことをページに残すことをやめた。
かわりにアイシャドウの青を少し薄くした。
指の腹をつかってゆっくりとひきのばした。
すると遠くの信号の黄色が窓にぶつかって崩れる大きな雨粒のところまでやってきて、
黄色い絵の具のようにべったりと流れた。
野獣派の絵のように。





下記のサイトで詩を書いています。
https://www.facebook.com/pages/%E8%B1%A1%E5%BD%A2%E6%96%87%E5%AD%97%E7%B7%A8%E9%9B%86%E5%AE%A4/118161841615735
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スティーブン・ソダーバーグ監督「マジック・マイク」(★★★)

2013-09-01 22:03:06 | 映画
監督 スティーブン・ソダーバーグ 出演 チャニング・テイタム、アレックス・ペティファー、マシュー・マコノヒー


    
 チャニング・テイタムの自伝(?)的な映画だそうである。
 で、ダンスが上手い。彼のダンスを見るだけのために見にいってもいいけれど、もうひとつの見どころは、マシュー・マコノヒーの挑発的なすけべな感じ--これが、いいなあ。だいたいマシュー・マコノヒーの声がすけべだね。ひとを見下しながら、その見下した感じを「甘さ」でつつんで隠す。「甘さ」は誘いでもあるんだけれどね。
 ちょっとおかしい(?)が、チャニング・テイタムの体験をもとにしながら、実際に彼が演じるのは若い時代のチャニング・テイタムではなくて、若い時代はアレックス・ペティファーが演じるということ。女を引きつける、女心をくすぐる魅力があることを、プロのストリッパー(チャニング・テイタム)に見抜かれ、その業界に誘われ、思わぬ実力を発揮する。チャニング・テイタムが誘い込まれる青年ではなく、誘い込む方を演じている。
 で。
 そうなると、チャニング・テイタムはチャニング・テイタムとして魅力的でないといけないのだけれど、アレックス・ペティファーにも魅力がないといけない。そして実際にアレックス・ペティファーには初な魅力があって、それがなかなかいいのだけれど。
 あ、
 映画が分裂してしまうね。
 チャニング・テイタムは、ストリッパーの過去をもつけれど、その世界から脱皮してきてスターになっている。だから「汚れ役」ではまずい。きちんと(?)描かないと、いまのチャニング・テイタムを否定することになるからね。
 かといって、節操のある(?)ストリッパーというだけでは、とてもうさんくさい。どうしたって、自堕落(といっていいのかな?)な面を描かないと、ストリッパーの世界がほんものに見えない。--まあ、自堕落でないとほんものではないというのは偏見かもしれないけれどね。
 で、その自堕落をアレックス・ペティファーが演じるのだけれど、さて、どこまで自堕落に、なおかつ魅力的に描くか。
 スティーブン・ソダーバーグもチャニング・テイタムも、ちょっと踏ん切りが悪い。主役にしてしまえばいいのに、あくまでスティーブン・ソダーバーグを主役にしているので、なんだかなまなましさが半減する。清く、明るいストリッパーという感じ。生活感覚がない。ドラッグとセックスだけでは、生活の「味」が滲み出ない。
 まあ、そこでマシュー・マコノヒーの出番がある。得な役といえば得な役なんだけれど、ちゃんと得しているところが偉いなあ。ストリップも披露しているし。歌も歌っているし……。
 3人に見どころを与えてしまったために、魅力が三分の一になった、という感じ。1+1+1=3、という算数は、映画ではむずかしい。
 これは余談なのだけれど……こういう映画は日本ではつくれない。日本では男のストリッパーはむずかしい。なぜかというと、日本には百円札がない。アメリカには1ドル札があるので、ふんだんに(?)1ドル札をつかって男の体に触れる。日本だといちばん小さい札でも千円。チップにはつかえないねえ。毎日かよって遊べるのは、よほどの金持ちだけに限られる。そうすると、どうしたって、不健康になるなあ。……ということで、これはある意味、1ドル札の楽しいつかい方を教えてくれる映画でもあるのだけれど。(こんなことは、きっとだれも書かないだろうなあ。ソダーバーグが読めばびっくりするだろうなあ。)
           (2013年09月01日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ8)
 






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駱英『第九夜』

2013-09-01 11:46:15 | 詩集
 駱英『第九夜』は「馬篇」と「猫篇」から構成されている。私は猫が苦手である。そのせいもあるかもしれないが、「馬」の方が圧倒的におもしろかった。最初に「馬」を読んだ、ということも関係しているかもしれない。主語が「馬」は「オレ」、「猫」は「ワシ」と書かれていることも関係しているかもしれない。「ワシ」という主語が私には耳障りだった。そのために文体が違って聞こえる、ということも影響しているかもしれない。「かもしれない」ことはわきにおいておいて……。

 「馬篇」は、

 オレは、ついに認めざるを得なくなった。オレは実は馬の変種或いは異形なのだ。

 と始まる。人間ではなく馬、人間と馬のまじったもの、か。そのオレの性(セックス)が語られるのだが、うーん、

 だから、もはや自分ではなくなったということによって、オレは自然に性欲の快感や絶頂感を賞味するに至り、さらに、その故に大いに感激し、誇りを感じた。
 さらに同様に、その故にオレは、一切のヒトたる権利や自尊を、酔生夢死、肉欲至上における最高水準に達するために、自らを放棄することができた。

 という具合に、なにやら七面倒くさい感じで、抽象的なことがかたられるばかりで、半馬半人(半人半馬)のセックスがどんなふうにして行われるかとか、どんな新しい快感を体験したのかとか、エロチックなことは書かれていない。
 では、それがおもしろくないかというと、いやあ、逆。おもしろいなあ。興奮しながら(セックスしながら、どきどきするように)、一気に読んだ。
 セックスというものは、新しい快感へ向けて先へ先へと進んで行く、欲望が膨張していくようだが、意外とそうではなくて、「過去」をひきずる。「半馬半人」になったからといって、「馬」の欲望へ突っ走るわけではなくて、ヒトをひきずる。ヒトの「過去」をひきずることで、馬の新しさも際立つという具合なのだが、その「過去」とは何かなあ、と思うとき、先に引用した4行が、おもしろい。そこにキーワードがある。

その故に

 これが2回登場する。
 この「その故に」って、何? 「わかる」けれど、ちょっとほかのことばで(自分のことばで)言いなおすのがむずかしい。「理由(原因?)」として、「そのこと(これも具体的に指し示そうとすると七面倒くさい)」とつながっているのだが、そのつながりは厳密な「論理」ではない。厳密ではないから、つまり科学的な(論理学的な)つながりとして説明が必要なものではないから、--論理として定式化されていないから、説明が七面倒くさいということになるのだが、それは、いわば「感覚」として納得する(受け入れる)しかないものなのである。
 逆に言うと。
 「その故に」とあたかも「論理」を装っているけれど、そこには「論理」はないのである。では、何があるかと言うと、「半馬半人」(と駱英は書いてはいないのだけれど)のような、「変種/異形」がある。
 つながっているけれど、そのつながりは普通ではない。論理的ではない、ということがある。「変」とか「異」という印象は、つながっているけれど、そのつながりが自然ではないときに感じる印象である。自分の知っているつながり方(接続の仕方/過去の論理の定型)と違うから、変だなあ、異なっているなあ、と感じるのである。

 では、駱英の、「つながり方(つなげ方)」は、どうなっているのか。26ページに「オレ或いはオレ達」という表現が出てくるが、これは「半馬半人」が単数であると同時に、馬とヒトの複数であることを語ったものだと思う。その単数であり、複数でもある存在と言うのは、どこかで「肉体」がうまく融合してつながっているようだけれど、ほんとうに融合していないために「意識」が分裂して、「オレ或いはオレ達」なるのだと思うが、その「オレ(馬)」と「もうひとりのオレ(ヒト)」は並列の関係かな? 並列することで複雑になっているのかな? 融合しているけれど、ときどき分裂するのかな?
 というようなことは、考えていてもわからないので、先を読む。

 特徴的な文体がいくつも出てくるが、繰り返される文体がある。

 雄性とは、生殖器官の巨大無比であること。
 野蛮とは、如何なるセックス衝動も抑制しないこと。
 高雅とは、有史以来の如何なる文明や哲学も用いることができること。
 聡明とは、最初の一時間でもう乱倫の機会とルールとを掌握すること。
 迅速とは、転落の過程に些かの躊躇いもないこと。
 無恥とは、時を選ばず白日の下でも発情してくること。
 エコとは、コンドームの使用は永久にあってはならないということ。
                                 (51ページ)

 オレは、財産を盗み、しかも処女と密通した。
 オレは、権力を盗み、しかも同性や異性と密通した。
 オレは、栄誉を盗み、しかも時代と密通した。
 オレは、変種を盗み、しかも異形と密通した。
 オレは、コーヒーを盗み、しかも乳房と密通した。
 オレは、詩句を盗み、しかも子宮と密通した。
 オレは、未来を盗み、しかも星空と密通した。
                                (106 ページ)

 この行は「並列」ではない。「融合」でもない。「共存」でもない。あえて言えば、

競存

 である。すべてが競い合っている。そして、その競い合いは実は「その故に」でつながっている。駱英のことばに、「その故に」補う、あるいはあることばを「その故に」に書き直してみるとわかる。

 雄性とは、生殖器官の巨大無比であること。
 「その故に」野蛮とは、如何なるセックス衝動も抑制しないこと。
 「その故に」高雅とは、有史以来の如何なる文明や哲学も用いることができること。
 「その故に」聡明とは、最初の一時間でもう乱倫の機会とルールとを掌握すること。
 「その故に」迅速とは、転落の過程に些かの躊躇いもないこと。
 「その故に」無恥とは、時を選ばず白日の下でも発情してくること。
 「その故に」エコとは、コンドームの使用は永久にあってはならないということ。

 オレは、財産を盗み、「その故に」処女と密通した。
 オレは、権力を盗み、「その故に」同性や異性と密通した。
 オレは、栄誉を盗み、「その故に」時代と密通した。
 オレは、変種を盗み、「その故に」異形と密通した。
 オレは、コーヒーを盗み、「その故に」乳房と密通した。
 オレは、詩句を盗み、「その故に」子宮と密通した。
 オレは、未来を盗み、「その故に」星空と密通した。

 この感想の最初に引用した文に、非常に似てくる。あることを「過去」として、それを接続しながら、突き破り、動いていく。「その故に」という「感覚」がことばを動かしていく。なんにでも「理由」をつけて、踏みつけて、突き破る。そうやって競う、競うことでともに「存在」を証明する。
 なぜ、競うのか。
 競うことが資本主義だからである。競うことで新しい欲望を具体化する、まだ存在しない欲望を産み出しながら「いま」を消費していくのが資本主義だからである。駱英は中国人だが、中国の資本主義はここまで来たのである。(資本主義の要素が中国に導入されなかったら、たぶん駱英は違った詩を書いていた。)
 駱英のことばにエロチシズムがあるとすれば、それは焼尽としてのエロチシズムである。セックスである。けっして閉ざさない、「その故に」と過去を「いま」に引っ張りだして、そのうえでそれを焼尽させる。その焼尽をさらに「その故に」と「過去」にたたき落とし、たたき落とすことで「いま」に引っ張りあげて、燃焼させる。
 その結果、何が残るか。
 高潔が残る。清らかさが残る。
 スピードと明晰と軽さ。
 それを支える強引な論理「その故に」。
 
 これは、私の考えでは性(セックス)とは少し違う。セックスとはじらすものである。反語的な言い方になるがセックスとは想像していた頂上に到達しないようにじらすことである。じらしてじらしてじらして、突然、想像していなかったあたらしい頂点を突き破ってしまうことである。
 でも、そういうふうにことばにして、駱英の詩は、セックスの詩とは違うと書いてしまうと、書いた瞬間に、あ、やっぱり新しいセックスだったのかとも気がつく。
 駱英はじらすかわりに、駆り立てて駆り立てて駆り立てて、私の知っている頂点を飛び越える。まるで思春期の熱い熱い精液のようにことばが無尽蔵に、ながながと、果てしなく飛び出す。
 うーん、
 私は、その若い力に嫉妬して、「その故に」、だらしない間延びした感想を書いているのかなあ。書いてしまったのかなあ。

第九夜
駱 英
思潮社
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