詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(56)

2013-09-20 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(56)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「絶望」という詩。この詩でも私は「本能」ということばをつかいながら読んでしまう。

絶望していると君は言う
だが君は生きている
絶望が終点ではないと
君のいのちは知っているから

 この「君」を私は、途中から「本能」と読んでしまう。

絶望していると君は言う
だが「本能」は生きている
絶望が終点ではないと
「本能」は知っているから

 引用した最終行では「本能」は「君のいのち」と入れ替わる。「いのち」が「本能」なのだ。あらゆる規制から無垢な「いのち」が「本能」なのだ。
 「絶望」は「本能」の近くにまでおしよせてくる何かである。
 それは「本能の肉体(いのち)」を傷つける前に、「こころ」を傷つける。「こころ」が傷ついて「絶望」する。その絶望に対して、「本能のいのち」は「本能の肉体」はまだ生きていると主張する。「本能のいのち」は「本能」に「肉体」があることに気がついている。知っている。

絶望からしか
本当の現実は見えない
本当の希望は生まれない
君はいま出発点に立っている

 この4行を、私の「本能」は次のように「誤読」する。

こころの絶望からしか
「本能」の現実(本能の肉体)は見えない
「本能のいのち」は生まれない
君の「本能」は出発点に立っている

 「本能のいのち」を生み出そうとしている。君の肉体のなかに、まだいのちになる前の「本能のいのち」がうごめいて、生まれようとしている。無垢で純粋な力が生まれようとしている。
 「絶望」は陣痛なのである。


地球へのピクニック (ジュニアポエムシリーズ)
谷川俊太郎
銀の鈴社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バフマン・ゴバディ監督「サイの季節」(★★★)

2013-09-20 13:06:52 | 映画
監督 バフマン・ゴバディ

 映画だけにかぎらないだろうけれど、どんなものでも鑑賞の順序というのは重要だ。直前に見た作品とどうしても比較してしまう。もし「パルヴィズ」を先に見ていなかったら、この作品に強い衝撃を受けたと思う。反政府的な詩を書いたという理由で投獄された詩人が主人公。妻も投獄される。妻は投獄中に強姦され、こどもを産む。妻は出所後、詩人は死んだと告げられる。けれど詩人は生きていて、彼が妻とこどもに会う。さらには妻を強姦した知人(秘書? 運転手?)とも会って……というストーリーなのだが、そういう過酷な人生を生きたひとの目に、世界がこんなふうに見えるのか、見えていいのか、という疑問がつきまとうのである。歪んだ現実が、飛躍した想像力となって暴走する。それをあくまでスペクタクルとして描くという方法はわからないわけではない。いや、やっぱり、わからない、というべきか。
 イマジネーションの飛躍は詩人自身の作品からヒントを得ている。詩に登場する亀やサイがそのまま現実に映像としてあらわれる。それはいいのだが、たとえば雨の日の車のなかからみる風景、ワイパーが雨粒をぬぐっていくときの滲んだ街の風景、雪の降る墓地の色合い、自殺(?)しようとして車を海に突っ込もうとしたときの波しぶき--そういったものが「絵」になりすぎていて、「もの」として迫ってこない。「もの」の迫力がない。「もの」の現実感がない。詩は、どんなに「幻想的」に見えたとしても、それは「幻想」ではなく、「リアル」が現実を突き破ってあらわれたもの。現実を美しくゆがめたもの、ゆがみをととのえて、そこに精神の揺らぎを反映させて見せるというものではないだろうと思う。
 タイトルになっている「サイの夢」(サイについての夢? サイが出てくる夢?)のサイのシーンなど、イランにサイがいるの?と思ってしまって、どうにもなじめない。詩を朗読しているのが女性の声というのも、映像を弱くしているように思える。感情を排除して、力のかぎり朗読する--声そのものを聞かせるくらいの方が、違和感があっていいのではないかと思った。
 おもしろいと感じたのは、空からカメがたくさん降ってくるシーン。雨のかわりにカメが降ってくるのである。(雨も降っているが。)これが非常に美しい。美しくないから、美しい。最初は、あの石みたいなものは何? 石が降ってきた? と思っていたら、カメ。そのとき何か衝撃が走る。それを主人公が手のひらでうけとめる。
 そこから詩がはじまる。ひっくり返されたカメ。逆さまの家に住むことになったカメはどうするのか。どう生きればいいのか。主人公は牢獄で一匹のカメを日繰り返す。そして息を大きく吸い込み、そして止める。息を止めてカメがどうするかを見ている。カメは最初は動かない。けれど、首と(頭と)手足をつかって、バネのようになって自分をひっくり返す。それに合わせて、息を吐き出し、再び息をする。主人公はカメに賭けたのだ。何を賭けたか--それは説明されないが、カメが裏返しから自分の力でもとに戻るなら生きてやると思ったのかもしれない。こういうことは、ことばで説明しなくても「肉体」が感じる。何かがかわるまで、息を止めて我慢比べをする--そういうときの、自分の「肉体(いのち)」の力が自分にどれだけあるか、試してみたことがあるでしょ? そういう肉体がおぼえていることが、意味を超えて(主人公が何を考えてそうしたかを超えて)、自分の肉体に甦る。その瞬間、スクリーンの中の役者の肉体と、そこで演じられている人間の肉体、そして見ている観客(私)の肉体が重なり合って動く。
 こういう瞬間だね。どきどきするのは。わくわくするのは。
 こういう感じを強く打ち出すには(そういう映像で観客を強くひっぱるには)、映像に余分な演出があってはだめなのだ。そぎ落とさないといけないのだ。「パルヴィズ」のように。映像だけではない。音楽もそうである。「サイの夢」には音が多すぎる。音が感情をかってに作り上げすぎる。さきに書いた詩の朗読も、噴出してくる肉声というよりも、映像を飾る音楽になってしまっている。音楽に堕落させられている。

 やっぱりマジド・バルゼガルの方が新しい。なによりも人間を描くことに集中している。人間を描くために、何を除外するかということを真剣に考えている。着飾って人間を見せるのもひとつの方法だが、裸にして、その裸をさらに皮をひん剥いて、血の滲んでいる筋肉や骨まで動かして見せる方がはるかに迫力がある。
                     (2013年09月20日、キャナルシティ5)
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石倉宙矢『ときはかきはのふたり』

2013-09-20 07:59:45 | 詩集
石倉宙矢『ときはかきはのふたり』(報光社、2013年08月20日発行)

 石倉宙矢『ときはかきはのふたり』は「恋愛詩」なのだが、ときめくような感じではなく、とても落ち着いている。たぶん若い時代の「ときめく詩」というのは、自分が自分ではなくなってしまうという「期待」のようなものが出発点であるのに対し、石倉の書いているものが、自分から出て行かなくてもいい「暮らし」の詩なのである。ふたりの間には何もない(若いときの恋愛)ではなく、もう「暮らし」がある。ふたりの時間がある。それが落ち着きを与えている。
 「早春」がとても印象的だ。

風が背戸のあわいを吹きぬける
樋や羽目板をならして
どこかで憎しみや裏切りが
ひらめいてくだけた

つめたいのに、皮膚は温もっている今日
あたたかいくせに、面差しの冷えている明日

あなたがわたしになり
わたしがあなたになれる
そんな風が吹きとおってゆく
今の今
そこのそこ

 3連目の「そこのそこ」。わかります? わからないよね。そこがどれか。でも「そこ」でわかるひとがいる。「それ」でわかるひとがいる。「あれ」でわかるひとがいる。よくあるでしょ? 「あれとって」「あれね」。
 「暮らし」があると、そのなかで蓄積されるものがある。その「暮らし」の外にいるひとにはわからないけれど、「暮らし」のなかにいるひとには、「そこ(それ)」と言ったひとの場所と、「そこ(それ)」の距離から、「そこ(それ)」がわかる。「そこ(それ)」なら、言ったひとからは離れているが聞いているひとの近くだろう。「あれ(あこ)」なら、言ったひとからも聞いているひとからも離れているだろう。その「距離感」が浮かび上がらせるものが「そこ(それ)」「あこ(あれ)」である。「そこ(それ)「あこ(あれ)」で通じてしまうのは、指し示されたもの(こと、場所、時間)をふたりが知っているからである。共有されたものがあるのだ。
 だから、

ねえ、うそはいけないよ
ええ、ほんとはもっといけない

 というとき、ひとりが言っている「うそ」、もうひとりが言っている「ほんと」も何のことかふたりにはわかる。
 この詩を読むと「そこ」も「うそ(ほんと)」も具体的には何を指し示しているのかわからないけれど、私にはわからないものをふたりがわかっているということがわかる。これは、知らない男女のふたりをみて、あ、夫婦だ、あ、親子だ、不倫関係だとわかるのににている。
 けんかや、相手をなだめる感じ、いさめる感じ、軽口のたたき方--要約してしまうと区別がなくなるけれど、要約できない「口調(肉体のリズム)」、ふたりの「肉体」の距離感、眼差しの動き方のようなものが、ふたりの「関係」を「感じさせる」。
 それは「意味」ではない。だから「頭」で要約するわけにはいかないのだが、「肉体」が感じる。「肉体」が「おぼえていること」が「意味」を超えた、手触りにふれる。
 嘘はいけない。けれど本当のことを明らかにして相手を傷つけてもいけない。嘘と本当は、背戸を吹き抜ける風のように吹き抜けさせなければならない。今、早春の風が吹いて言ったね。いままでよりも温かいね。そうね、けれどちょっと寒い感じも残っているね。相反するものを同時に感じるとき、そこに、何かがある。

あなたがわたしになり
わたしがあなたになれる

 というのは嘘でもあるし、本当でもある。相反するのではなく、それはとけあっている。区別がない。そういう「区別のない」ところにまで恋愛がたどりつくと、それは恋愛ではないのかもしれない。ときめかない。けれど、もし「ふたり」が「ひとり」になると、猛烈にさびしくなる。
 「そこ」だけではなく、「そこのそこ」という微妙なことは、「暮らし」があってはじめて生まれることばである。「そこ」だけならひとは指し示すことはできるが、「そこのそこ」をひとは指し示すことはできない。指し示しえない「そこのそこ」を「わかる」のは「暮らし(思想/肉体)」だけなのである。
 この詩集は、そういう「場」で書かれている。

父を着て―石倉宙矢詩集 (エリア・ポエジア叢書)
石倉 宙矢
土曜美術社出版販売
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする