詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(48)

2013-09-12 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(48)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「ふたつの幸せ」は、谷川の詩の秘密を語っているかもしれない。

心のなかで何かが爆発したみたいに
いま幸せだ!って思う
理由なんて分かんない
ただ訳もなく突然幸せになる瞬間
晴れてても曇りでも雨でも雪でも
まわりは不幸せな人でいっぱい
私だって悩みがいっぱい
でもなんだろね ほんと
あっという間に消えるんだけど
その瞬間の喜びは忘れない
そんなことってない?

老人は微笑んで少女を見つめる
爆発とはほど遠いが
いまの穏やかな幸せに包まれて

 「ふたつの幸せ」とは少女の幸せと老人の幸せのことだろう。しかし「ふたつ」と書いているけれど、私には「ひとつ」に見える。別々に感じられない。
 で、谷川の詩の秘密--というとおおげさだけれど。
 「他人の幸せ」を「自分の幸せ」として受け止める力。他人と「ひとつ」になる力だと思う。その「他人」というものを、そして、谷川は選ばない。
 この詩の場合、谷川を「老人」と仮定すれば、老人は「少女」の幸せと一体になっている。この無秩序(?)といってもかまわないような区別のなさ--それが「ありとある」につながるのだと思うけれど、その力がすごい。
 無秩序(制限がない)から、少女もそのまま老人に近づいてくる、とも言えるね。

 そして、この詩は、またその「ふたつ」の幸せ、少女と老人の幸せを見ている谷川の幸せを描いているという具合にも読むことができる。谷川は「老人」ではなく、ふたりから離れたところにいる。離れたところにいるんだけれど、ふたりと一体になっている。
 そう考えると、あるいは少女こそが谷川かもしれない。
 谷川が老人に向かって「理由なんて分かんない」幸せを語っている。そのとき谷川は「少女」になっている。
 たぶん、これが、つまり谷川=少女が、詩の本質かもしれない。少女になる、なれる、という幸せ。少女になって谷川が動く幸せ。
 それをそのまま書くのが気恥ずかしい。だから老人を登場させた、とも読むことができる。
 でも、どんなふうに書いても「幸せ」というのは、結局「ひとつ」。だから、あえて「ふたつ」書いたのかもしれない。

女に
谷川 俊太郎
集英社
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井口幻太郎『奇妙な商売』

2013-09-12 09:28:36 | 詩集
井口幻太郎『奇妙な商売』(摩耶出版社、2013年08月28日発行)

 井口幻太郎『奇妙な商売』は四つの作品群にわかれている。詩集のタイトルになっている「奇妙な商売」は日常から少しはみだした感じのことを書いているが、それがいやな感じがないのは日常を見る視線が落ち着いているからだろう。
 「訪れ」という作品。

朝の硝子窓いっぱいに
芙蓉の影が映っている
子どもの頃見た影絵のよう

澄んだ光がさわさわとその葉を揺する
薄いレースのカーテンを開けると
机の上の開いた書物の顔を撫で
子どものように戯れる

 いま、ここにある美しさを、ことばでていねいにととのえる。そういう「生き方(思想/思想)」がつたわってくる。
 ここから、幸せを引き出す。

自家には応接室がない
棟割長屋で狭いからというだけでなく
元より襟をただす正客もない

玄関から来るものはなくても
夜遅く やっと路地にたどり着き
疲れた手で狭い書斎の戸開けると
カーテンの隙間を洩れた月の光が
僕のたった一つの癒しの椅子に
座っていたりする
遥々と来て

 「遥々と来た」のは月の光だけではなく、その部屋にたどりついた井口そのものかもしれない。自分が遥々と来たから、相手も遥々と来たと感じるのである。井口自身がどこから遥々と来たかは、月の光のように簡単に「距離」であらわすことはできないのだけれど、簡単に言えないからこそ、月の光に「遥々と」を語らせる。そして、それを受け止めるのだろう。
 あえていえば、その「遥々と」は、その連の直前の3行にある。「応接室」がない。「正客」がいない。それでも「書斎」がある。本を読み、ことばを読み、井口自身のことばをととのえるという生き方。これは「他人」には見えない。井口自身にも、そのととのえ方がはっきり見えるわけではない。地球と月までの「距離」がはっきりわらかない。遠いとしかわからないのと同じだ。だけれど、月の光をみればまっすぐかどうかはわかる。そういう感じ。

 なかなか見えにくい「まっすぐ」なのだけれど、「名前」には、そのまっすぐがすっきりとあらわれたことばがある。
 なかなか息子の名前が出てこなくなった母親のことを書いたあと、兄の飼う犬のことが書いてある。痴呆症になって、名前を呼んでも反応しなくなっている。

雑種だけれど
毎晩必ず玄関に出て
一キロばかり先の交差点を車で左折する
兄の帰宅を知らせたこと
畑に現われた猪と格闘し
傷だらけになりながら
明け方 終に撃退した勇姿

僕はいつまでも
覚えているから

 最後の2行が美しい。覚えていて、そしてことばにする。そうすると、そこにいちばん生き生きとした犬があらわれる。
 この視点を、井口のまわりにいる人にそそいだのが「奇妙な商売」の詩群である。兄の犬と同じように、と書くと語弊があるかもしれないけれど、ひとはみな、自分の領分を守って生きている。領分はそれぞれに違うから、その違いが「奇妙」に見えるかもしれないが、そこには本人にしかわからない「正直」がある。
 その正直に井口は、

僕はいつまでも
覚えているから

 と寄り添うのである。


詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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