詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(42)

2013-09-06 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(42)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「白髪」も「意味」が前面に出た作品。

嘘じゃない
でも本当かと問われると怯む
隠してるんじゃない
言葉を探しあぐねて
堂々巡りしてしまうんだ
せめぎあう気持ちは
一言では言えない
言えば嘘になる
だから歯切れが悪いんだ
言葉ってしんどいな
静寂が欲しい
ちょっと休戦しよう

 たしかにあらゆることは「一言では言えない/言えば嘘になる」。でも、たくさん言っても嘘になるかもしれない。余分なことを言ってしまえば。
 ほんとうのことは「せめぎあう」ところにある。矛盾したところにある。だから一言では言えない……かな?
 ちょっと不思議なのが、「静寂が欲しい」。ことば、発言の反対は静寂? 私は、ふと静寂ではなく、沈黙かなと思ったのだが、そうじゃないね。やっぱり静寂だね。
 沈黙はひとりですること。
 静寂はひとりではない。最低、ふたり。ふたりが黙るとき静寂がやってくる。
 ということは。
 この詩のなかには「ふたり」がいる。
 対話しているのだ。
 だれかに「弁明」しているのではなく、谷川が谷川と対話している。書きながら、これでいいのか、これがほんとうか、と自問している。書いたことばを読み直して、対話している。自問という対話はだれかが注文をつけるわけではないのだけれど、だからこそ終わるのがむずかしいかもしれない。
 自問の休戦--それが静寂だね。

 ひとりではなく、ふたりだから、最後の1行。2連目の独立した1行は

きみも白髪が増えたね

 と、唐突に「きみ」という二人称が出てくることになる。
 と「意味」はつながっているのだけれど。
 「意味」はつながりながら、それまでの「自問」で問題にしていたことが、ふっと消える。そして、そこに「問題(抽象的なことがら)」ではなく、「肉体」がふっとあらわれる。
 その瞬間、何か、軽くなるね。息が抜けるね。あ、ほんとうに「休戦」だ。この呼吸が詩だ。

こころ
谷川俊太郎
朝日新聞出版
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金子鉄夫「死んじゃえって、さっきから何度つぶやいた?」ほか

2013-09-06 09:46:42 | 詩(雑誌・同人誌)
金子鉄夫「死んじゃえって、さっきから何度つぶやいた?」ほか(「ココア共和国」13、2013年08月01日発行)

 金子鉄夫「死んじゃえって、さっきから何度つぶやいた?」を読んだころ、私は右腕の肘の骨折、右手首の捻挫で右手がつかえなくなった。左手だけでカタカタとアルファベット入力のワープロに向かうと、いつもとことばの動きが違ってくる。uioを含む文字からaを含む文字へ指がもどりきれない。aを叩いたつもりがsになる。(片手でもブラインドタッチで書きたいのだ。)で、書きたいことがあったのだけれど、書かないままにしておいた。いま読み返して、何を書こうとしたのか思い出そうとしたが思い出せない。そのときの肉体の感じといまでは違っていて、ことばが同じように響いてこない。私は気分屋なのだ。

 でも何か書きたいなあ、何を書こうとしていたのかなあ。読み返してみると、

おまえらの凝固スキームは公衆便所で使用済みコンドームと腐っている

 という1行に傍線が引いてある。そして、空白にはメモ。

ぼくらからぼくをとったら
           ら
           ら
           ら



軽くなって地上に勃起を挿入できずに広がる射精
軽くなって空に落ちていく夢精
ごめんフラットが三つくらいつくとかっこいいと思っていた

 なんだろうなあ。金子のことばに刺戟されて、書こうとした何かがあるんだろうなあ。なんだろう。

ヘドロするヘドロするヘドロするヘドロする、ことのぼくらのアジェンダ

 という行があり、その「ぼくら」と「おまえら」のあいだで、私の肉体の何かが動いたのだろう。でも、思い出せない。
 思い出せないことはしようがないので、違うことを考えよう。

 もう一度読み返したが、やはり「おまえらの凝固スキームは公衆便所で使用済みコンドームと腐っている」という1行が美しい。
 なぜ美しいか。
 「スキーム」というのは15年ほど前に急につかわれるようになったことばである。予算がらみで大蔵省(いまは財務省?)の官僚あたりがつかいはじめた。新聞に頻繁に登場しはじめた。官僚がつかう新しいことばというのは何かを説明するためというよりは、何かを隠すための方法である。ことばにはいろんな意味がある。その一部だけを取り出してきて人に見せ、ほんとうに活用したい部分は隠しておく。あとになって、同じ「スキーム」ということばで隠している部分を見せ、抗議を受けると、「ちゃんとスキームと言っていた」と開き直る。とっても汚い。
 で、その汚いものがなぜ美しいか。やっと詩にもつかわれるようになった。その「やっと」という感覚をひきおこす何かが美しい。そして、「公衆便所」の落書きにつかわれているところが美しい。あ、「スキーム」はついにこんな具合に消化され、消費されるようになったのだという一種の感慨かもしれない。
 「公衆便所」という古いことばに私はびっくりしてしまうが、「公衆便所」にはうんこ、まんこを初め汚いことば(?)だけが輝く。「きみの瞳は星と輝く……」なんてことばは笑いだしてしまって、しているうんこも止まってしまう。うんうんうなりながら、肛門を通り抜けていくうんこの刺戟を、まんこやEカップや顔射ということば快感にかえて、ちょっとトリップする。いや、どこまで書けば他人がオナニーするかな?と考え、夢中になる。他人を勃起させたいのか、自分で勃起したいのか、わからなくなる。そういう「次元」に「スキーム」を混在させる消化力と夢想力が健康なのだ。強い胃腸だなあ。へこたれない脳味噌だなあ。なんでもうんこにしてしまえる胃と腸、なんでも射精にかえる性器と直結した脳なんだなあ、と私は感動する。
 でもね、「公衆便所」もそうだけれど「使用済みコンドーム」なんて、ことばが「文語」していない? 口語でも「使用済みコンドーム」っていう? なんだか、何かのマニュアルにでもでてきそうなことば。
 まあ、落書きだから、口に出して言わなくてもいいのか。あくまで書いたものであって、舌に乗せるときは違うことばになるということかな?

 あ、私は脱線しているのかな?
 いや、脱線していない。
 私は私に引き返しているのだ。

 私は金子のことばがおもしろいと感じると同時に、ついていけないと感じる。どこについていけないかというと「口語」風なのに、実は「文語」だからだと思う。書いてあることばは「目で読めば」わかる。「目でわかる」ことばは、「漢字」そのものの硬さで脳を固定し、そのあとで破壊する。そのとき飛び散るのは現代の硬いコンクリートか、高層建築の鉄筋、良質なガラス。いや「わいせつ」という定義かな? 「ことばの暴走」という「流通哲学」かな? うーん、「肉体」がはみださない。「内臓」が千切れない。
 それなのに、金子は、それを「不定形」のものにしたいと欲望している。何か矛盾している。その矛盾に詩の可能性があるというなら、それはそうなんだけれど。

 唐突に思うのだが、「スキーム」の1行は、

おまえらの凝固スキームはパルコのトイレで使用済みコンドームと干からびている

 だったら、どうなのかなあ。



 私は詩を朗読しない。他人の作品も黙読しかしない。秋亜綺羅は詩は朗読してこそ詩であるという詩人だが、「羊のきみへのラブレター」。その書き出し。

芋羊かんを羊羊かんと書いてしまった羊がまるごとあまい
眠れぬ羊が数えるものは自分が一匹自分が二匹四匹の自分はどこか似ている
想像力が権力を奪うなんてかっこいいけど奪いたいほどかわいいのは羊のきみ
これって短歌にならないかなあ

 これって「朗読」でつたわる? 文字で読むと「羊羊かん」がおかしいし、「二匹四匹」とつながるときの「匹」と「四」がとっても似ているのはわかるけれど、耳で聞いてわかるのかなあ。それでも秋亜綺羅は、詩は朗読してこそ詩であるというのだけれど。

羊のきみはすぐハローワークで死にそう
俗世なんか悟っちゃってから家出しようなんて

ハローワークじゃなくてオーバーワークね
家出じゃなくて出家ね
 
 「ハローワーク」と「オーバーワーク」は耳でつかまえることができるけれど、「家出」と「出家」は耳だけでは無理だね。どうしても「文字」を必要とする。文字を必要とするのに、それを「朗読」で乗り切るって、
 うーん、
 変。
 と言いながら。
 私は秋亜綺羅の詩は朗読に向いていると思う。「文字」が必要なのだけれど、リズムは口語だから。これは年代的なものかもしれないけれど、私は秋亜綺羅のことばの動かし方に口語を感じる。文語を感じない。
 でもね、とつけくわえておこう。
 秋亜綺羅の口語は、口やのどの口語(肉体の口語)ではなくて、実は「脳(頭)の口語」。

明るいっていう字は日と月がいっしょだけれど
いっしょなことってあまりないよね、羊のきみ

 「頭」が「日」と「月」を網膜のなかで結合しているでしょ? いつでも何かと何かを「頭」のなかで結合する。その結合の「瞬間」が秋亜綺羅にとっての詩。そして、それを「瞬間」に限定するために、消えていくことば、口語という時間が必要なのかもしれない。文字にしてしまうと(文字に限定してしまうと)、一回生という感じがなくなり、窮屈になる。「あ、そうか」と何度も思うことができない。口語だから何時聞いても「あ、そうか」なのだ。そして、「あ、これをまねして言ってみよう」なのだ。つまり、「流行歌」ね。「明日という字は明るい日と書くのね……」のノリ。
 「匹」と「四」が似ている--というところに、ずーっととどまっていては、秋亜綺羅は困ってしまう。瞬間的にノッて、瞬間的に忘れる。瞬間という短い「錯覚」が秋亜綺羅にとっては詩なのだ。
 --という視点から、もういちど金子の詩へ引き返していきたいのだけれど。
 そうすると秋亜綺羅の見ている金子と私の見ている金子の共通部分、違っている部分が浮き彫りになりおもしろいかなあ、と思うけれど。
 もしかすると、金子のことばは「口語」を装っているが、リズムが口語になりきれていないと感じるのは、最近のイントネーションの変化ともは関係しているかもしれない。金子のリズムはフラットなイントネーションがつくりだした新しいリズムなのかな? とも思う。朗読を聞いたことがないので勝手な想像だけれど。
 秋亜綺羅は寺山修司みたいに、わざと訛るときがあるけれど、基本的に昔風の(私たちの世代の)イントネーションとリズム。 


ちちこわし
金子 鉄夫
思潮社

透明海岸から鳥の島まで
秋 亜綺羅
思潮社
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ある本のなかで、

2013-09-06 00:14:05 | 
ある本のなかで、

ある本のなかで、
「互いに何マイル隔てて眠っているだろうか」という行に出会った。
闇は発光する黒の透明。

そのとき、
ことばは海へ流れる川になって月を浮かべた。
そのとき、
ことばは公園のブランコが砂場に影を落としていた、
という描写になって動いていくのがわかった。

マイル、という距離がわからない。
わからないものはみんな美しい。

わからないからことばはわかっているもので埋めていく。
遠い距離をつないでゆく。
だれかが窓のカーテンを閉めた。
そのときその部屋では枯れかけた花が最後の輝きを思い出している。
あるいは、そのことばは消していく細い鉛筆の線。
見せ消ち、といういたずら。

そのときことばは、
書きかけの青いインク、
クレーの絵のなかには青がないけれど。
そのときことばは、
オフィーリアの組んだ両手。

眠る互いのあいだに、
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