詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(40)

2013-09-04 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(39)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 詩は「意味」が変わる瞬間に生まれる。視線の向きがかわり、いままでなかったものが「あたらしい意味」になって動く瞬間に生まれる。
 「出口」は、そういう作品。

自分で作った迷路に迷って
出口を探してうろうろしている

 たしかに、こころの迷路は自分で作ったものだろう。そうであるなら、

いっそ出口はないと得心して
他でもないここに出口ならぬ
新しい入り口を作ってはどうか

 「出口」を「入り口」へ転換する。「出る」のではなく「新しい世界に入る」と思えば、どこにでもその「入り口」はできる。
 これはレトリックというものだね。
 でも、現実はそんな具合にレトリック通りに自分にははねかえってこないね。レトリックは現実には反映されないね。

 「意味」というレトリックでおわる詩は、すこし味気ない。
ともだち
谷川 俊太郎
玉川大学出版部
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小柳玲子「夢びと」ほか

2013-09-04 11:54:44 | 詩(雑誌・同人誌)
小柳玲子「夢びと」ほか(「きょうは詩人」25、2013年09月07日発行)

 「きょうは詩人」に集まっている女性にはどこか似たところがある。現実と虚実が入り交じる--ではなく、現実が肥大して虚実になり、その虚実を嘘と知っていて面と向かって立ち向かう。あとへ引かない。
 小柳玲子「夢びと」の書き出し。

家が建っている とても黒い 私の家ではない
でも私のようなものがうようよと群れている気配
玄関が開き なにか出てくる
靴は履かず ただの足が見えている
足があるのでユウレイの類ではない
ほとほとと歩く 誰かかなり老いぼれた人の
夢から出てきたものらしい
「わたしはコヤナギ あなたはだあれ」
「あなたはコヤナギ わたしはコヤナギ
暗くてがらんとしてことが好き」

 「私の家ではない」と書いているが「私」とは関係があるのだろう。その家から出てきた人は「私の夢」から出てきたとも、あるいは「その家に住んでいる(住んでいた)人の夢」から出てきたともいえる。どっちでもいい。それが見えるということは、「私(小柳)」の意識から出てきたと言えるからである。
 ここから詩は先へ動いていかない。「物語」にならない。そこが、とてもおもしろい。「気配」ということばが2行目に出てくるが「気配」を少しずつ具体的にするけれど、そこから何かを語り、「意味」をつくろうとしない。「気配」を「肉体」としてしっかりとしたものにするためにだけことばは動く。
 この運動のために、後ろに引かない、そこにあるものとしっかり向き合っているという印象が生まれる。
 「物語」へ動いていかない、というのは、なかなかむずかしいことだ。特に「虚構(虚実)」を書きはじめると、どうしても虚構(物語/意味)になってしまいがちだ。そこでふんばってことばを動かして、虚実を「肉体」に引き寄せて、体温で匂いをつけてしまう。
 これがおもしろい。



 長嶋南子「不眠」は、いつものように「息子」と向き合っている。それは「現実」なのだが、もう「現実」にしておくのはめんどうくさい。ことばをつかって「虚実」にしてしまえ、という感じかな?
 息子は引きこもりでパソコンに向き合っている。活動時期は真夜中のようだ。その後ろ姿(?)はマウス(ねずみ?)のようだ。

マウスみたいな変なものが
母親の項目を削除している
 うるさい口 小さくない乳房
 せっかち おせっかい そうじ下手
 好きな干し芋豆大福
 小心 見栄っ張り おっちょこちょい
クリックしてはゴミ箱へ

 ふーん。それはほんとうに息子から見た「母親(長嶋?)」。「小さくない乳房」にちょっと自慢のようなものがみえて(見栄っ張りがみえて?)、なかなか楽しい。そうか、人間はいくつかの「アイテム(項目)」でできていて、それをクリックしてごみ箱に捨てられたら、うーん、これはいいねえ。
 これは「現実」でも「虚実」でもなく、「夢」だね。「欲望」だね。
 無意識に動いてしまう「本能」だね。
 この無意識に動いてしまう本能というのは、絶対に間違えないからめんどうくさい。だますことができない。どこからでも、わいてきてしまう。肉体を突き破って噴出してしまう。
 長嶋は、それを隠さない。隠すと、それは「虚実」にとじこめられるが、噴き出すままにしおくと「現実」になり、だれもがしかたなく(?)、それを現実として認知する。それでいい、と開き直っている。
 生きているからね。
 生きていればそれでいい。ほかに何がいるか。「変」なことがあったって、あんたには関係がない。私の問題--ではなく、それは私の問題でさえない。私を超えた(私を超えてつづいていってしまう)何か、「いのち(本能)」の問題である。
 それは「生き長らえる」ようにできているのだ。
 そういうことを「きょうは詩人」の女たちは知っているようだ。こういう女の手ごわさに出会うと、うーん、やっぱり「産む性」というのは強いなあ、と思う。男は、こんなふうにはなかなか開き直れない。



 苅田日出美は、小柳、長嶋とはすこし立っている場所が違うかもしれない。「乗っている のせられている」の後半。

(十月の末のマジェンダ色のあのサンザシの実をつみとって)
パソコンのインクが切れるといつもきまって
西脇順三郎の詩の一行をきかされる
西脇順三郎の詩が好きというより
マジェンダという色の洒落た感じが好きなだけの家人がいる

東京スカイツリーの展望回廊から下をみると
細い路地の曲がり角でちょっとだけ待てばよいのに
衝突しそうな車がある あの白いワゴンだよ

外科眼科耳鼻咽喉科春一番 小沢信男の句に驚いて
歯科眼科循環器科脳神経外科梅雨に入る

 「現実」と「虚実」の、その「虚実」のあり方が、苅田の「肉体」ではなく、「日本語の肉体(文学の肉体)」としてあらわれてくる。ちょっと男っぽい。そして、ことばが「色」ではなく「音」として動いている。

マジェンダという色の洒落た感じが好きなだけの家人がいる

 は、

マジェンダという色の「音の」洒落た感じが好きなだけの家人がいる

 と「音の」を補うと、小沢信男の句と苅田の短歌(?)/自由律俳句(?)へのつながりがわかりやすい。


サンチョ・パンサの行方―私の愛した詩人たちの思い出
小柳 玲子
詩学社
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私があなたを見たのは、

2013-09-04 00:36:21 | 
私があなたを見たのは、

私があなたを見たのは街の皮膚が奇妙な仕方で剥がされたときだった。
コロシアムに降っていた雨が去ってしまうとまっすぐな光がアスファルトを覆い、
すべての影を破壊し、払いのけるようにして、
つややかな内部が完璧すぎるシンメトリーとなって輝きだした。

私があなたを見たのは起きたことのない何かについての嘘のなかだった。
たとえば廃墟の墟という文字は嘘に似ているという論理をとおるときの
直前のめまいのなかで巨大な時間がもういちど石の形にもどるのを確かめると、
あなたの視線は失ったものを無関心に変換しながら四方に飛び散った。

私があなたを見たのは裏切りたいという気持ちを思い出したときだった。
あるいは裏切られるときのせつない愉悦が甦ったときだった。
さかさまの虚像の鏡像はまっすぐな実像であり、
垂直に立つ実像の下ではさかさまの虚像が反重力の視線で対極の空を見下ろす。

私があなたを見たのは私があなたを見なかったときだ。

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