小柳玲子「夢びと」ほか(「きょうは詩人」25、2013年09月07日発行)
「きょうは詩人」に集まっている女性にはどこか似たところがある。現実と虚実が入り交じる--ではなく、現実が肥大して虚実になり、その虚実を嘘と知っていて面と向かって立ち向かう。あとへ引かない。
小柳玲子「夢びと」の書き出し。
家が建っている とても黒い 私の家ではない
でも私のようなものがうようよと群れている気配
玄関が開き なにか出てくる
靴は履かず ただの足が見えている
足があるのでユウレイの類ではない
ほとほとと歩く 誰かかなり老いぼれた人の
夢から出てきたものらしい
「わたしはコヤナギ あなたはだあれ」
「あなたはコヤナギ わたしはコヤナギ
暗くてがらんとしてことが好き」
「私の家ではない」と書いているが「私」とは関係があるのだろう。その家から出てきた人は「私の夢」から出てきたとも、あるいは「その家に住んでいる(住んでいた)人の夢」から出てきたともいえる。どっちでもいい。それが見えるということは、「私(小柳)」の意識から出てきたと言えるからである。
ここから詩は先へ動いていかない。「物語」にならない。そこが、とてもおもしろい。「気配」ということばが2行目に出てくるが「気配」を少しずつ具体的にするけれど、そこから何かを語り、「意味」をつくろうとしない。「気配」を「肉体」としてしっかりとしたものにするためにだけことばは動く。
この運動のために、後ろに引かない、そこにあるものとしっかり向き合っているという印象が生まれる。
「物語」へ動いていかない、というのは、なかなかむずかしいことだ。特に「虚構(虚実)」を書きはじめると、どうしても虚構(物語/意味)になってしまいがちだ。そこでふんばってことばを動かして、虚実を「肉体」に引き寄せて、体温で匂いをつけてしまう。
これがおもしろい。
*
長嶋南子「不眠」は、いつものように「息子」と向き合っている。それは「現実」なのだが、もう「現実」にしておくのはめんどうくさい。ことばをつかって「虚実」にしてしまえ、という感じかな?
息子は引きこもりでパソコンに向き合っている。活動時期は真夜中のようだ。その後ろ姿(?)はマウス(ねずみ?)のようだ。
マウスみたいな変なものが
母親の項目を削除している
うるさい口 小さくない乳房
せっかち おせっかい そうじ下手
好きな干し芋豆大福
小心 見栄っ張り おっちょこちょい
クリックしてはゴミ箱へ
ふーん。それはほんとうに息子から見た「母親(長嶋?)」。「小さくない乳房」にちょっと自慢のようなものがみえて(見栄っ張りがみえて?)、なかなか楽しい。そうか、人間はいくつかの「アイテム(項目)」でできていて、それをクリックしてごみ箱に捨てられたら、うーん、これはいいねえ。
これは「現実」でも「虚実」でもなく、「夢」だね。「欲望」だね。
無意識に動いてしまう「本能」だね。
この無意識に動いてしまう本能というのは、絶対に間違えないからめんどうくさい。だますことができない。どこからでも、わいてきてしまう。肉体を突き破って噴出してしまう。
長嶋は、それを隠さない。隠すと、それは「虚実」にとじこめられるが、噴き出すままにしおくと「現実」になり、だれもがしかたなく(?)、それを現実として認知する。それでいい、と開き直っている。
生きているからね。
生きていればそれでいい。ほかに何がいるか。「変」なことがあったって、あんたには関係がない。私の問題--ではなく、それは私の問題でさえない。私を超えた(私を超えてつづいていってしまう)何か、「いのち(本能)」の問題である。
それは「生き長らえる」ようにできているのだ。
そういうことを「きょうは詩人」の女たちは知っているようだ。こういう女の手ごわさに出会うと、うーん、やっぱり「産む性」というのは強いなあ、と思う。男は、こんなふうにはなかなか開き直れない。
*
苅田日出美は、小柳、長嶋とはすこし立っている場所が違うかもしれない。「乗っている のせられている」の後半。
(十月の末のマジェンダ色のあのサンザシの実をつみとって)
パソコンのインクが切れるといつもきまって
西脇順三郎の詩の一行をきかされる
西脇順三郎の詩が好きというより
マジェンダという色の洒落た感じが好きなだけの家人がいる
東京スカイツリーの展望回廊から下をみると
細い路地の曲がり角でちょっとだけ待てばよいのに
衝突しそうな車がある あの白いワゴンだよ
外科眼科耳鼻咽喉科春一番 小沢信男の句に驚いて
歯科眼科循環器科脳神経外科梅雨に入る
「現実」と「虚実」の、その「虚実」のあり方が、苅田の「肉体」ではなく、「日本語の肉体(文学の肉体)」としてあらわれてくる。ちょっと男っぽい。そして、ことばが「色」ではなく「音」として動いている。
マジェンダという色の洒落た感じが好きなだけの家人がいる
は、
マジェンダという色の「音の」洒落た感じが好きなだけの家人がいる
と「音の」を補うと、小沢信男の句と苅田の短歌(?)/自由律俳句(?)へのつながりがわかりやすい。