徳弘康代「これから先の人生のなかで、今が一番きれい」ほか(「Down Beat」3、2013年09月10日発行)
野村喜和夫『(芭(塔(把(波』(左右社、08月30日発行)のことばに酔ったあとは、ちょっと冷たいすっきりした水を飲むような感じで……。
徳弘康代「これから先の人生のなかで、今が一番きれい」は、タイトルからすぐに連想できるように茨木のり子の詩を踏まえて書かれている。茨木の詩そのものも「意味」がつよいけれど、徳弘の作品も「意味」でぶつかっていく。
徳弘に茨木批判の気持ちがあるかどうかわからないけれど、「あすが一番きれい」じゃないところがいいなあ。「あす」だと茨木の詩のように説教されている気持ちになる。「今が一番きれい」って、「うぬぼれ」を超えるものがある。「これから先」なんていいながら、そんなものを見ていない。拒絶している。「おばさん」から「おばあさん」にことばは変わっていっているが、いやあ、そんなの口先だけ。徳弘は自画像を「おばさん」とは捉えていないし、したがって「おばあさん」になるはずがないのだ。そういう「心意気」がきれいだ。他人に説教しない、というところが、とてもいい。
引用した部分のことばをそのまま暮らしのなかで口にすれば、まわりのひとはバカにしたように笑うかもしれない。その他人をバカにしたようにして笑う、その笑いのなかに「きれい」がある。笑いながら、みんな「今が一番きれい」を自分のことと思うのだ。「あんたがきれいなら、わたしはもっときれいよ」と周りのひとは思って笑うのである。そこに「正直」がある。きれいな正直がある。
*
金井雄二は「坂上」「坂下」の2篇を書いている。「坂下」の方が、私は好きである。「坂上」が茨木のり子だとすれば、「坂下」は徳弘康子である。
へええ、家のなかから話し声が聞こえてきて、そのとき「どこにでも人はいるのだな」と思うのか。私はびっくりした。私はそんなふうに思ったことがなかった。
それは、あえて言えば、徳弘が「これから先の人生のなかで/今が一番きれい」と思うのに似ている。そんなこと、いちいち思わない。めんどうくさいから、そういう意識がことばにならないようにして暮らしているといえばいいのかな? その、無意識に除外(排除)しているものを取り出して、ことばにしている。その動きに刺戟される。
これは詩を読んでいる私だけの変化ではない。刺戟を受けるのは私だけではない。そう書いた金井自身も、自分のことばに刺戟を受けている。その刺戟の結果が、後半に出てくる。
「欅はしゃべらない」なら、ほかの木もしゃべらないはずであるけれど。
家のなかに人がいるなら、樹木のなかに人がいてもいい。その人というのは、もちろん比喩だけれど。そして、そのとき木の「話し声」というのは家のなかから聞こえてくる声と同じで、よーく聞けば「意味」がとれるかもしれないけれど、「意味」なんかとらなくても「声」だけで「人がいる」の証拠になるね。
だから。
木の枝は、「カッ/カッ/ガァ/ガァ」で十分。木のなかに「人」でなければ「いのち」があって、それがしゃべっている。「家のなか」から聞こえてきたのも、「人の声」ではなく「いのちの声」なのだ。「いのち」をあいだに挿入すると「人の声」と「樹の声」が重なって動く。
こういうことは、すべて「いま」という時間に起きる。そして、その「いま」が永遠になる。つまり、そういうことは「過去」にもあった。そして「これから先」にも起きる。だから、「今が一番」と思って生きればそれでいいのだ。
野村喜和夫『(芭(塔(把(波』(左右社、08月30日発行)のことばに酔ったあとは、ちょっと冷たいすっきりした水を飲むような感じで……。
徳弘康代「これから先の人生のなかで、今が一番きれい」は、タイトルからすぐに連想できるように茨木のり子の詩を踏まえて書かれている。茨木の詩そのものも「意味」がつよいけれど、徳弘の作品も「意味」でぶつかっていく。
こんな幸運なわたしでも
一番きれいだったのは いつだったのかと
キレイじゃなくなり続けると思いながら
このさき生きていくには
平均寿命は延びすぎていて
そこでわたしは
こう思ってみることにしました
これから先の人生のなかで
今が一番きれい
これから先の人生のなかで
今が一番旬
そう思って毎日暮らして
キレイなしあわせなおばさんになって
やがて
キレイなしあわせなおばあさんになる
徳弘に茨木批判の気持ちがあるかどうかわからないけれど、「あすが一番きれい」じゃないところがいいなあ。「あす」だと茨木の詩のように説教されている気持ちになる。「今が一番きれい」って、「うぬぼれ」を超えるものがある。「これから先」なんていいながら、そんなものを見ていない。拒絶している。「おばさん」から「おばあさん」にことばは変わっていっているが、いやあ、そんなの口先だけ。徳弘は自画像を「おばさん」とは捉えていないし、したがって「おばあさん」になるはずがないのだ。そういう「心意気」がきれいだ。他人に説教しない、というところが、とてもいい。
引用した部分のことばをそのまま暮らしのなかで口にすれば、まわりのひとはバカにしたように笑うかもしれない。その他人をバカにしたようにして笑う、その笑いのなかに「きれい」がある。笑いながら、みんな「今が一番きれい」を自分のことと思うのだ。「あんたがきれいなら、わたしはもっときれいよ」と周りのひとは思って笑うのである。そこに「正直」がある。きれいな正直がある。
*
金井雄二は「坂上」「坂下」の2篇を書いている。「坂下」の方が、私は好きである。「坂上」が茨木のり子だとすれば、「坂下」は徳弘康子である。
坂を下りきると
小さな十字路になっていた
そこを右に曲がった
細い道だった
民家があった
中で誰かが話しているのが聞こえた
どこにでも人はいるのだな、と思った
へええ、家のなかから話し声が聞こえてきて、そのとき「どこにでも人はいるのだな」と思うのか。私はびっくりした。私はそんなふうに思ったことがなかった。
それは、あえて言えば、徳弘が「これから先の人生のなかで/今が一番きれい」と思うのに似ている。そんなこと、いちいち思わない。めんどうくさいから、そういう意識がことばにならないようにして暮らしているといえばいいのかな? その、無意識に除外(排除)しているものを取り出して、ことばにしている。その動きに刺戟される。
これは詩を読んでいる私だけの変化ではない。刺戟を受けるのは私だけではない。そう書いた金井自身も、自分のことばに刺戟を受けている。その刺戟の結果が、後半に出てくる。
両脇には樹がしげっていた
大きな欅もあった
欅はしゃべらない
ぼくは饒舌だった
詩のことをいっぱいしゃべった
高いところ
風が舞っていた
大きな樹の枝と枝が
ぶつかっていた
カッ
カッ
ガァ
ガァ
と言っていた
「欅はしゃべらない」なら、ほかの木もしゃべらないはずであるけれど。
家のなかに人がいるなら、樹木のなかに人がいてもいい。その人というのは、もちろん比喩だけれど。そして、そのとき木の「話し声」というのは家のなかから聞こえてくる声と同じで、よーく聞けば「意味」がとれるかもしれないけれど、「意味」なんかとらなくても「声」だけで「人がいる」の証拠になるね。
だから。
木の枝は、「カッ/カッ/ガァ/ガァ」で十分。木のなかに「人」でなければ「いのち」があって、それがしゃべっている。「家のなか」から聞こえてきたのも、「人の声」ではなく「いのちの声」なのだ。「いのち」をあいだに挿入すると「人の声」と「樹の声」が重なって動く。
こういうことは、すべて「いま」という時間に起きる。そして、その「いま」が永遠になる。つまり、そういうことは「過去」にもあった。そして「これから先」にも起きる。だから、「今が一番」と思って生きればそれでいいのだ。
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