谷川俊太郎『こころ』(47)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)
「私の昔」は「自画像」のつづき。--であるかどうかは、まあ、わからない。私が「自画像」のつづきとして読んでしまうということ。「自画像」というのは、「いま/ここ」にあらわれた「過去(昔)」のこと。昔があって、いまがある。
でも、谷川は、そんなふうに簡単に「時間」を「いま-昔」ととらえない。「自画像」を見ようとすると、「自画像」なんだろうけれど、「顔」ではないものが見えてくる。「時間」というものが。「時間」をどう考えるか--という「哲学」がいっしょに動いていることに気がつく。「ちんこい目」「シミ」ではないものが見えてくる。
うーん。「昔」とはいつか、たしかにわからないね。きのうも去年も子ども時代も、「思い出す」という動詞のなかでは「距離」の違いがない。「時間」は一直線の線状に1分とか1時間とか1年とか--時計や暦のようにはならんでいない。
それはいいんだけれど。それはわかるんだけれど。
あ、ここで「歴史」ということばが動くのか。私は「歴史」というものを自分が生まれる前のこと、と思い込んでいるので、びっくりしてしまう。
谷川にとって「未来-現在-過去」という線状の時間の配列が「歴史」。その時間の区分が時計で測れるとおりになっているというのが「歴史」なんだね。
ちょっとびっくりする。
この「歴史」の対極にあるのが「昔」ということになる。
「時間」には2種類ある。「歴史/暦」のように、計測され配列された時間。時計がいっしょにある。もうひとつは「心」が引き寄せたり遠ざけたりする時間。自在に伸び縮みする。これは「心の時間」、「心」が「時間」なのだ。時計ではなく。
ここに書かれているのは「時間に対する哲学」というの名の「自画像」。
その最後は、やっぱり谷川にしか書けない不思議な飛躍を含んでいる。
「私の昔」は「私が誕生してから」としか私は考えたことがないが、谷川はそういう「流通概念(流通哲学?)」を簡単にたたき壊す。谷川が生まれる前も含めて「昔」。なぜなら、生まれる前のことも「心」は思い描くことができるからね。
で、どこまで「心」は思い描けるか。引き寄せることができるか。いいかえると、どこまで行ってしまえるか。
「ビッグバン」は宇宙のはじまり。谷川のすぐそばにはいつでも「宇宙」がある。それも見上げる宇宙、観測する宇宙ではない。いっしょに生きている宇宙。
宇宙ということばをつかうとき、谷川は宇宙を思い描いているのではなく、宇宙に「なっている」。谷川はいつでも「宇宙」に「なる」詩人なのだ。「宇宙」とは「ありとある」生き物の動く世界である。
「私の昔」は「自画像」のつづき。--であるかどうかは、まあ、わからない。私が「自画像」のつづきとして読んでしまうということ。「自画像」というのは、「いま/ここ」にあらわれた「過去(昔)」のこと。昔があって、いまがある。
でも、谷川は、そんなふうに簡単に「時間」を「いま-昔」ととらえない。「自画像」を見ようとすると、「自画像」なんだろうけれど、「顔」ではないものが見えてくる。「時間」というものが。「時間」をどう考えるか--という「哲学」がいっしょに動いていることに気がつく。「ちんこい目」「シミ」ではないものが見えてくる。
私の昔はいつなんだろう
去年がまるで昨日のようで
子ども時代もまだ生々しくて
生まれた日から今日までが
ちっとも歴史になってくれない
うーん。「昔」とはいつか、たしかにわからないね。きのうも去年も子ども時代も、「思い出す」という動詞のなかでは「距離」の違いがない。「時間」は一直線の線状に1分とか1時間とか1年とか--時計や暦のようにはならんでいない。
それはいいんだけれど。それはわかるんだけれど。
ちっとも歴史になってくれない
あ、ここで「歴史」ということばが動くのか。私は「歴史」というものを自分が生まれる前のこと、と思い込んでいるので、びっくりしてしまう。
谷川にとって「未来-現在-過去」という線状の時間の配列が「歴史」。その時間の区分が時計で測れるとおりになっているというのが「歴史」なんだね。
ちょっとびっくりする。
この「歴史」の対極にあるのが「昔」ということになる。
還暦古希から喜寿傘寿
すぎればめでたい二度童子
時間は心で伸びて縮んで
暦とは似ても似つかない
「時間」には2種類ある。「歴史/暦」のように、計測され配列された時間。時計がいっしょにある。もうひとつは「心」が引き寄せたり遠ざけたりする時間。自在に伸び縮みする。これは「心の時間」、「心」が「時間」なのだ。時計ではなく。
ここに書かれているのは「時間に対する哲学」というの名の「自画像」。
その最後は、やっぱり谷川にしか書けない不思議な飛躍を含んでいる。
私の昔はいつなんだろう
誕生以前を遡り
ビッグバンまで伸びているか
「私の昔」は「私が誕生してから」としか私は考えたことがないが、谷川はそういう「流通概念(流通哲学?)」を簡単にたたき壊す。谷川が生まれる前も含めて「昔」。なぜなら、生まれる前のことも「心」は思い描くことができるからね。
で、どこまで「心」は思い描けるか。引き寄せることができるか。いいかえると、どこまで行ってしまえるか。
ビッグバンまで
「ビッグバン」は宇宙のはじまり。谷川のすぐそばにはいつでも「宇宙」がある。それも見上げる宇宙、観測する宇宙ではない。いっしょに生きている宇宙。
宇宙ということばをつかうとき、谷川は宇宙を思い描いているのではなく、宇宙に「なっている」。谷川はいつでも「宇宙」に「なる」詩人なのだ。「宇宙」とは「ありとある」生き物の動く世界である。
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