坂多瑩子『ジャム煮えるよ』(港の人、2013年09月25日発行)
一度書いたことかあるかもしれないが「母その後」という作品がとてもすばらしい。大好きだ。
多発性脳梗塞で
何もできなくなってしまった
母は
夢のなかでも
何もできなくて
下ばかり向いていたが
あるとき死んでしまってからは
急に元気になって
長電話したり
お茶したり
いまのとこ結構楽しげにしているけど
あんまり慣れすぎても
またまた
嫌みのひとつでもいいそうで
一度死んだんだから
老いたら子に従うとか
昔の人はいいこと言ったねえぐらい
言ってほしいとこだけど
母親が死んでしまうと元気だったころの母親ばかり思い出してしまう。病気で動けなくなって死んでしまったからよけいに元気なときのことを思い出すのだろうか。
あるとき死んでしまってからは
という「さっぱり」した感じの1行がとてもいい。この1行が全体を明るくしている。明るくしている--というのは変な言い方なのかもしれないが、じめじめしていない。
私自身は病気で寝ついた両親を介護したことはないのだけれど、そしてこんなことを書くとどこかから叱る声が聞こえてくるかもしれないけれど、長い介護(看護)のあとは、「ああ、やっと死んでくれた。安心した」という気持ちがまじるものである。
そんな気持ちがあるから、「あのとき、やっと死んだと思っただろう」と嫌みをいながら、死んだ母親が生き返ってくる。肉体のなかに、肉体としてよみがえってくるということがあるのだと思う。楽しい、うれしいことだけではなく、あまり思い出したくないような「嫌み」さえ言いそうな感じで。でも、それがきっと「暮らし」というものだったのだと思う。家族だから互いに支えあうのだけれど、そういうときだって嫌みくらいは言うね。肉体を「ちくり」とさしたりするね。それが「生きている」ということなんだねえ。
でも、ときどき、そうい元気な母だけではなく、弱くなった母も思い出す。
わたしが眠ると
待ってましたとばかり
うろうろしている
あっ
ころんだ また
これは深夜徘徊と転倒のことを書いているのかもしれないけれど、ほんとうはそういうことは忘れたい。忘れたいけれど忘れられない。そのとき坂多はほんとうに母のことを心配していたのだ。面倒だなあ、とこころのなかで少しは思ったかもしれない(死んでくれてほっとした、と思ったかもしれないけれど)、そんな具合に思いながらも、ふと目がいってしまう。そこに、愛がある。
あ、また、ころんだ、だめじゃないか--というとき、その「だめ」は否定だけではないのである。愛がまったくなければ「ころんだ」ということさえ気にならない。
同じように、と書くと--ほんとうは違うのかもしれないけれど。「やっと死んでくれた」と思うときの「やっと」には何か「だめ」というときの気持ちと通いあうものがある。否定しながら、否定の裏で、それを支えるこころが先走る。だから、「だめ」と否定する。
そういう否定と肯定のいりまじって区別のつかないことばが、軽く、動く。
この軽さはどこからくるか。
「正直」からくると、私は感じている。「正直」というのは、構えていない、瞬間的なものだ。無防備に噴出してくるものだ。無防備というのは、他人からの批判に対して無防備という意味である。
「家」という作品は、この詩集ではじめて読む(と、思う)。
テラサコチョウ参拾六番地
建坪参拾四坪
大正七年九月 七坪増築
昭和七年十月二十五日附届新設便所落
成ノ件使用承認ス
指令用紙で警察署長の印鑑
九〇年前のおうちの平面図があったから
テーブルの上にひろげてみた
よれっとしている
まん中がすりきれて
小さな穴
そのとなりが押し入れ
色分けされて
炊事場
どこもかしこも四辺形で
七〇年前のおよめさんが立ち上がった
およめさんだけは
ころんとまるく
昔の建築届けは「便所落成」まで書くのか、届けるのか……。なんだかよくわからないが、あたたかく、なつかしい感じがする。このあたたかく、なつかしいというのは、生活がていねいにととのえられているということだと思う。ことばで、寸法で、はっきり意識する。
前の詩の「あるとき死んでしまってからは/急に元気になって」というのも、母の思い出し方の、その「ととのえ方」というものがあることを教えてくれる。死んでしまった人間をどんな具合に思い出すか。そういうことに決まりというものはないのだが、坂多は「元気」な姿をまず思い出すという具合に、思い出し方を「ととのえて」いる。そうして、その「ととのえたことば(思想)」によって、動きはじめたことばを制御する。だから、あたたかい。
この私の説明は、飛躍が多くて乱暴かもしれないけれど。
きっと、そういう思い出し方(ことばのととのえ方)というのは、便所をつくったら警察に届けるというくらいの感じで、昔は、だれにでも共有されていたに違いないと思う。ありきたりのことが共有されて、それが「暮らしをととのえる」という思想になる。どこに便所をつくるか。--それは個人の「知恵」ではなく、「暮らしの知恵」であり、共有されることで一種の「安定」を生み出す。
これは、もう思い出す人が少なくなったかもしれないけれど、そういう「知恵」というものは、「肉体」として昔は存在していた。
で、昔の家。押し入れ、炊事場、どこもかしこも四辺形--のなかで、そのなかを動き回る「およめさん」の位置。うーん。この「およめさん」は坂多の母のことかな? 家の図面を見ると、そのときの「およめさん(坂多の母)」の行動が見えてくる。いつも同じ動き。同じにする「知恵」、同じに「ととのえる」知恵。
その「ととのえることばの力」が坂多には引き継がれている。「肉体」として存在している。そういうことが、この二篇だけでもわかる。
「あるとき死んでしまってからは」というのは乱暴な言い方に見えるかもしれないが、それは昔の警察に届けた便所のように、しっかりと「暮らし」としてととのえられている。「死んでしまって」といわないかぎり、ととのえられないものがある。
突然飛躍するようだけれど。
私は肉親のことを、あるいはとても親しいひとのことを「死んだ」と言わずに、「亡くなった」というひとの「肉体」を信じてはいない。他人に対しては「亡くなった」というけれど、「身内」に対しては「死んだ」というのが、「肉体(思想)」のととのえ方だとは思っている。「死んだ」といわないかぎり、言うことのできない「親しさ」というものがある。「便所の新設」の届け出、その承認、のようなものだ。
何を書いているんだろう。論理がでたらめだ。--この「日記」を読んで、そう思う人がいると思う。それはそれで正しいのだけれど。つまり、私の書いていることは、でたらめなのだけれど……。私のことばではうまく説明できない(そして、この文章を読んででたらめだと感じる文体ではつかみきれない)、正直のととのえ方というものが「死んでしまった」と「便所の新設の届け出」のあいだにはあるのだ。それは、つながっているのだ。
ことばの「ととのえ方」について考えているのだけれど--今日書いたことは、だれにもつたわらないかもしれないなあ。