詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(39)

2013-09-03 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(39)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「遠くへ」にも東日本大震災の影響が感じられる。どうしても、そこに書かれていることを東日本大震災の被災者と結びつけて感じてしまう。被災者の「こころ」を谷川がことばにしていると感じてしまう。

心よ 私を連れて行っておくれ
遠くへ
水平線よりも遠く
星々よりももっと遠く
死者たちと
微笑みかわすことができるところ
生まれてくる胎児たちの
あえかな心音の聞こえるところ
私たちの浅はかな考えの及ばぬほど
遠いところへ 心よ
連れて行っておくれ
希望よりも遠く
絶望をはるかに超えた
遠くへ

 「希望よりも遠く/絶望をはるかに超えた/遠くへ」というのは「論理的」に考えると、奇妙である。「希望」と「絶望」は対極にある。その「対極」の、どっちへ行けば「遠い」のか。「希望」の遠くに「絶望」があり、「絶望」の遠くに「希望」があるのではないのか……というのは「論理」の「屁理屈」だね。
 「論理」というのは、いつでもそういう「間違い(屁理屈)」にまみれてしまう。
 「希望」とか「絶望」とか、そんなことばであらわすことのできないはるかな遠く、まだことばになっていない遠くへ行きたいのだ。そういうことばにならないことは、矛盾した形のことばでしか言い表すことができない。
 矛盾だけが「真実」に触れる。その「触れ方」が詩、である。

 ああ、けれど、不思議でしようがない。
 「私」は「心」に対して、遠くへ連れて行ってと言う。そのとき「心」って何? どこにある? 自分以外のだれかに対して、遠くへ連れて行って、と私は言っているのではない。
 だから、これも「流通論理」で考えると、奇妙なことになる。実現不可能なことのように思える。
 でも、「流通論理」を捨てさえすれば、すぐに、それが「わかる」。谷川の書いていることばの「切実さ」が「わかる」。「意味」ではなく、つまり、ほかのことばに言い換えることのできる何かではなく、言い換えることのできない、「矛盾」のなかにある「気持ち」が「わかる」。

 谷川は、どんな気持ちにも「なる」ことができる詩人なのだ。谷川は、たとえば少女、たとえば若い女性の気持ちを代弁するのではない。東日本大震災の被災者の気持ちを代弁するのではない。そのひとの気持ちに「なる」。そのひとに「なる」。そのひとの「肉体」に「なる」。
 その「他人になる」力に、私は、詩を読むたびに触れる。「なる」ときの、ことばにならない不思議な動きが「肉体」に直接つたわってくるのを感じる。




谷川俊太郎詩集 (ハルキ文庫)
谷川 俊太郎,中島 みゆき
角川春樹事務所
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船越素子『半島論あるいはとりつく島について』

2013-09-03 11:28:48 | 詩集
船越素子『半島論あるいはとりつく島について』(思潮社、2013年07月20日発行)

 船越素子『半島論あるいはとりつく島について』は途中まで何が書いてあるかわからなかった。ことばがとても遠いところにある。
 「歩行するブロッコリー」まで読んで、その書き出しが気に入った。

私は その三丁目のちょうど左角で
みずみずしい緑色の
うっとりするくらいハンサムな
ブロッコリイに出会った

 「ハンサムな/ブロッコリイ」。これはいいなあ。健康な食欲がある。

ブロッコリイは塩茹でにする
お鍋がないので 草枕
旅にしあれば椎の葉か
冷蔵饂飩のアルミの器をつかう

 ここもいいなあ。どんなことがあっても食べるぞ、という力がある。
 で、そのあと、また何が書いてあるかわからない詩がつづく。「日本語」のようだけれど、まるで読むことができない。
 そして、「弘前 night  あるいは雪の塑性」のなかほど。

缶ビールやワインや日本酒がとびかい
もつ煮込みや握り飯やチーズが投げ込まれ
いまや胃袋の中は
格闘技の様相を呈し
それでも許そうとはしない
私の孤独なのだった

 ここは、わかるなあ、と思って、あ、私は船越の胃袋(食欲)とならつながることができるのか、とわかった。船越の詩で私にわかるのは「食べる」(胃袋)なのだ。
 食欲といっしょに孤独がある、食欲によって肉体の存在を感じている、という感覚が、不思議になつかしい感じで肉体を揺さぶるのである。「食べる」ことをかいた部分のことばはスピードがあって、「肉体」から噴き出してくる感じがする。

(僕の孤独を食べて欲しい)

 というのは「傷痕の犬たち」という作品の1行だが、こういう抽象的なことばさえ美しく迫ってくる。「わかる」と思ってしまう。

ランチタイムぎりぎりの昼食をとった
安物のワインを口に含んだとたん
私の脳髄が
ヨーグルトのように ぷるぷる震えた
私の海馬にロバがいる
いや、海馬がロバだ つぶらな瞳から大粒の涙

 これは「鳥肌日和り」のなかほどの行。食欲(胃袋)と脳髄がつながって、「脳」が「頭」ではなく「肉体」になる。そこに「健康」がある。「思想」がある。
と書くと抽象的だが……。
 圧巻は、「ヒロシマ、わたしの恋人」。これはデュラスの映画とつながっているのだが、どんなふうに「肉体」でつながるかというと、

西の岩国 東の呉に挟まれたヒロシマの
ヤクザも暴走族も出没する駅前で
痩せた鳩が噴水の水をあび いっとき身を休める様を眺めている
指紋押捺闘争を闘った親爺さんが焼く広島焼きを
昨夜 頬張った口蓋の感触を思い出し

 「ヒロシマ」は「ヒロシマ、わたしの恋人/二十四時間の情事」から遠く、「広島焼き(お好み焼き?)」となって船越の「肉体」になる。
 これはいいなあ。
 食べて食べて食べて、そこにいる人とつながる。食べ物があるとき、そこにはそれをつくった人がいる。ブロッコリイを買うとき、それをつくっている人は直接は見えないけれど、かならずそれをつくった人がいる。つくる「時間」があり、つくる「土地」がある。そして、そこに「暮らし(肉体の思想/思想の肉体)」がある。それと向き合うかぎり、「思想」は妙な具合には浮つかない。暴走しない。

こんな半島にまで
いつのまにかショッピングモールが誕生した
田圃のなかの人工都市
誰も来ないよ
などと侮っていた自分を いまでは 大いに羞じている
マクドナルドもギョーザの王様も
何だってあるんだ
安くて美味しい餃子をふーふー食べる
安くて美味しい坦々麺をつるつる啜る
休日には わたしも
恋人と手をつなぎ出かける
                   (「半島論あるいはとりつく島について」)
 
 この「食欲/幸福」から反撃するとき、3月11日に立ち向かう「思想(肉体)」がたしかなものになる。
 その詩を書きつづけてもらいたい。


半島論あるいはとりつく島について
船越 素子
思潮社
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九月の雨に、

2013-09-03 00:30:23 | 
九月の雨に、

昨夜の名残のようにこまかな雨が降っている。
フクロウの森の梢から風が吹くと
群がる集まる雨と吹き飛ばされてしまう雨があって、
朝の光の陰影を刺戟するので何か輝きだすものがあるような感じだ。

犬が歩くところには桜の古い落葉があって、
いつから積み重なっているかわからないが、幾重にも重なって、
茶色と紫と黒をまぜたような色にぬれている。
私の知らないうちに数えきれない日々が
葉っぱたちのなかに静かに静かにつづいていたのだ。

その時間の上に、九月の雨にぬれて
あたらしい桜の葉が二枚、三枚、散らばるように落ちている。
かすかに黄色を帯びた葉は
暗い夜をわたってきた舟のように見えた。
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