谷川俊太郎『こころ』(39)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)
「遠くへ」にも東日本大震災の影響が感じられる。どうしても、そこに書かれていることを東日本大震災の被災者と結びつけて感じてしまう。被災者の「こころ」を谷川がことばにしていると感じてしまう。
「希望よりも遠く/絶望をはるかに超えた/遠くへ」というのは「論理的」に考えると、奇妙である。「希望」と「絶望」は対極にある。その「対極」の、どっちへ行けば「遠い」のか。「希望」の遠くに「絶望」があり、「絶望」の遠くに「希望」があるのではないのか……というのは「論理」の「屁理屈」だね。
「論理」というのは、いつでもそういう「間違い(屁理屈)」にまみれてしまう。
「希望」とか「絶望」とか、そんなことばであらわすことのできないはるかな遠く、まだことばになっていない遠くへ行きたいのだ。そういうことばにならないことは、矛盾した形のことばでしか言い表すことができない。
矛盾だけが「真実」に触れる。その「触れ方」が詩、である。
ああ、けれど、不思議でしようがない。
「私」は「心」に対して、遠くへ連れて行ってと言う。そのとき「心」って何? どこにある? 自分以外のだれかに対して、遠くへ連れて行って、と私は言っているのではない。
だから、これも「流通論理」で考えると、奇妙なことになる。実現不可能なことのように思える。
でも、「流通論理」を捨てさえすれば、すぐに、それが「わかる」。谷川の書いていることばの「切実さ」が「わかる」。「意味」ではなく、つまり、ほかのことばに言い換えることのできる何かではなく、言い換えることのできない、「矛盾」のなかにある「気持ち」が「わかる」。
谷川は、どんな気持ちにも「なる」ことができる詩人なのだ。谷川は、たとえば少女、たとえば若い女性の気持ちを代弁するのではない。東日本大震災の被災者の気持ちを代弁するのではない。そのひとの気持ちに「なる」。そのひとに「なる」。そのひとの「肉体」に「なる」。
その「他人になる」力に、私は、詩を読むたびに触れる。「なる」ときの、ことばにならない不思議な動きが「肉体」に直接つたわってくるのを感じる。
「遠くへ」にも東日本大震災の影響が感じられる。どうしても、そこに書かれていることを東日本大震災の被災者と結びつけて感じてしまう。被災者の「こころ」を谷川がことばにしていると感じてしまう。
心よ 私を連れて行っておくれ
遠くへ
水平線よりも遠く
星々よりももっと遠く
死者たちと
微笑みかわすことができるところ
生まれてくる胎児たちの
あえかな心音の聞こえるところ
私たちの浅はかな考えの及ばぬほど
遠いところへ 心よ
連れて行っておくれ
希望よりも遠く
絶望をはるかに超えた
遠くへ
「希望よりも遠く/絶望をはるかに超えた/遠くへ」というのは「論理的」に考えると、奇妙である。「希望」と「絶望」は対極にある。その「対極」の、どっちへ行けば「遠い」のか。「希望」の遠くに「絶望」があり、「絶望」の遠くに「希望」があるのではないのか……というのは「論理」の「屁理屈」だね。
「論理」というのは、いつでもそういう「間違い(屁理屈)」にまみれてしまう。
「希望」とか「絶望」とか、そんなことばであらわすことのできないはるかな遠く、まだことばになっていない遠くへ行きたいのだ。そういうことばにならないことは、矛盾した形のことばでしか言い表すことができない。
矛盾だけが「真実」に触れる。その「触れ方」が詩、である。
ああ、けれど、不思議でしようがない。
「私」は「心」に対して、遠くへ連れて行ってと言う。そのとき「心」って何? どこにある? 自分以外のだれかに対して、遠くへ連れて行って、と私は言っているのではない。
だから、これも「流通論理」で考えると、奇妙なことになる。実現不可能なことのように思える。
でも、「流通論理」を捨てさえすれば、すぐに、それが「わかる」。谷川の書いていることばの「切実さ」が「わかる」。「意味」ではなく、つまり、ほかのことばに言い換えることのできる何かではなく、言い換えることのできない、「矛盾」のなかにある「気持ち」が「わかる」。
谷川は、どんな気持ちにも「なる」ことができる詩人なのだ。谷川は、たとえば少女、たとえば若い女性の気持ちを代弁するのではない。東日本大震災の被災者の気持ちを代弁するのではない。そのひとの気持ちに「なる」。そのひとに「なる」。そのひとの「肉体」に「なる」。
その「他人になる」力に、私は、詩を読むたびに触れる。「なる」ときの、ことばにならない不思議な動きが「肉体」に直接つたわってくるのを感じる。
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