詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(41)

2013-09-05 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(40)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 女になって詩を書く--ということを谷川はしばしば行っている。「五時」も、そういう一篇。

誰かは知らない
でも誰かを待っている
そう思いながら座っている
西日がまぶしい
生まれたときから待っている
そんな気がする
恋人には言わなかった
夫にも言っていない
待っていたのはこの人
と思ったことが一度だけあった
(たぶん早とちり)

 この女は、若くはない。「夫」が登場する。しかし、新婚ではないだろう。子どもが詩に登場しないのは、子どもがいても独立していっしょに住んでいないからだろう。そういうことを想像させる。
 「待っている」に、どう接近していけばいいだろうか。
 つまり、
 なぜ「探している(探していた)」ではないのか。
 いまを生きている女たちは「待っている」ということばに自分を重ねるか、「探している」ということばに自分を重ねるか。--どちらを、いまを生きている女とみるか。

あ もう五時
スイッチを入れなきゃ

 何のスイッチを入れるのか。「待っている」という動詞を生きてきた女なら炊飯器のスイッチを入れることになるのだろうか。
 読みながら、想像力が「流通概念」としての女のなかを動いているのを感じる。
 きのう読んだ詩に「新しい入り口」ということばがあったが、この最後の2行は「新しい入り口」になるだろうか。
 「新しい入り口」だけが詩ではない、と言えば、まあそうだが。

 なじんだ場所へ帰っていくためのことば、なじんだ時間へ帰っていくための詩というものだろうか。



夜のミッキー・マウス
谷川俊太郎
新潮社
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陶山エリ「欲望の数え方」ほか

2013-09-05 08:48:00 | 現代詩講座
陶山エリ「欲望の数え方」ほか(現代詩講座@リードカフェ、2013年08月28日)

 陶山エリ「欲望の数え方」が相互評で大変好評だった。

欲望の数え方    陶山エリ

その太ももに張りつく黒アゲハは妙にリアルで今にも飛び立ちそうだから今にも飛びつきそうだぼくは落ち着こう
蝶の数え方は一頭、なんだね

キスして
ひとくちでいいから
彼女の口もとから香料の桃が零れるとぼくは迷わず空耳をしてしまう
寄付の数え方は一口、だったね
ぼくは恥ずかしい犠牲者だ気づいてしまおう二匹のふたりは助け合おう
ひとくち五千円からはじまるせかいのヘタすれば愛のせかいは1DK だったり鏡張りだったり
だったりかよ
欲望の数え方がわからないまま息を吐くうっすら有機的なひと部屋をタカハシに貸した二千円のきのうが覗き込んでいるさんきゅー

脈打つ太もものややうちがわへと吸い寄せられる手のひらの中でようこそ一頭の企みが羽をばたつかせる
それは彼女のつけまつげの二まい重ねの瞬きに似てくすぐったいあまいいちまいの手のひらひとひらほら、あとは迷わず押し倒すだけ
あまいやわらかいひとかたまりの一体に溺れるだけ

充血する静けさの中の助数詞が暴れまくっているのはきみのせいではなく香料の桃のせいその口もとから漏れてくる妙にリアルな桃の精

 「連想が連想を呼ぶ」「ことば遊びもあって楽しい。蝶の数え方、寄付の数え方、欲望の数え方、ということばの変化がおしゃれで楽しい」「エロチックで、体温がつたわってくる。生きている感じ」「2連目の最後の方の、欲望の数え方が……の1行がすごい」「具体的な映像が浮かぶ」「挑発的で、勝手に自分がわかってしまう」「以前とかわっている。そのまま書いている」「タイトルがいい」というような声が出た。
 詩そのものからは離れるかもしれないが、

勝手に自分がわかってしまう

 という声に私は大変興味を持った。この作品以上に興味を持った。
 作者が何を書こうとしているか、ということが「正解」がすれば、勝手にわかってしまうというのは「正解」かどうかわからないけれど、作者の思いとは別に、自分の想像力が勝手に動いていくということだろう。
 「意味」がわかる。「感情」がわかる。--というより、この詩の場合、受講生のひとりがいったように「映像が浮かぶ」、状況がわかる、ということだろう。女がいて、男がいて、女のももには黒アゲハのタトゥーがしてある。そのタトゥーに若い男がどぎまぎしながら、それでも欲望の世界へ入っていこうとしている。男の方がウブで、女に押され気味という感じだろう。
 この「わかる」は、私のことばでいえば、「肉体」が「わかる」ということ。「頭」とか「こころ」とかではなく、ことばにならないような部分で「わかる」。それは「肉体」がおぼえていることなのだ。「勝手にわかる」と言った受講生が実際にここに書かれている通りの体験をしたわけではないだろうけれど、自分の肉体でしてきたことと重なる部分があって、その肉体の重なりから、おぼえていることが動きだして、想像が始まる。
 これは「誤解」かもしれない。
 でも、「誤解」が楽しい。「誤解」をとおして、私たちはだれかを「勝手にわかる」。その「勝手」というのは読者の「本能」による運動だが、それは「本能」にしたがっているから、どんなに間違っていても、間違いとはいえない。「誤解」したことを、読者は自分の「肉体」で繰り返すからである。繰り返すことができるからである。繰り返さない形では、人間は「誤読」しない。
 相互評では「状況」を「映像」として「わかる」という意見が多かったのだが、私は実は「映像」としての「状況」には動かされなかった。受講生は女性が多く、私は、えっ、女性ってこういうとき「映像」で状況を把握するのか、と少し驚いた。
 私は、むしろ「肉体のリズム」が男と女の関係、男の「状況」を克明に伝えているようでおもしろいと感じた。
 1連目は、「学校文法」にしたがえば、

その太ももに張りつく黒アゲハは妙にリアルで、今にも飛び立ちそうだから、今にも飛びつきそうだ。
ぼくは落ち着こう
蝶の数え方は一頭、なんだね

 になると思う。でも、陶山は、そういう具合に整理していない。「文法」よりも、「肉体」のリズムを重視してことばを書いている。
 「今にも飛び立ちそうだから今にも飛びつきそうだ」と「今にも……そうだ」が繰り返されるのは、どぎまぎしていて、思考の整理ができないというリズムをあらわしている。そのどぎまぎに対して「ぼくは落ち着こう」と言い聞かせているのだが、これも前の「肉体のリズム」につつかれて、あわてて噴出してきたものである。ぴったりくっついている。切れ目がない。「映像」というよりも、「音楽」が私には聞こえる。
 で、「落ち着いた」結果というか、落ち着いているふりをして「蝶の数え方は一頭、なんだね」と言う。このときの「一頭」のあとの読点「、」の呼吸と、その前の1行の呼吸が入り込む余地のない肉体のリズム、この「音楽」に私は「いま/ここ」を感じる。
 「ぼくは恥ずかしい犠牲者だ気づいてしまおう二匹のふたりは助け合おう」の読点「、」句点「。」のないつながりも、肉体のリズムを正確に伝えている。多くの受講生に好評だった「欲望の数え方が……」の行は、その「肉体のリズム」に「過去(きのう)」や「他人」まで紛れ込み、「肉体」が有機体であることの不思議さを伝える。
 で、何が「わかる」かというと、私は「勝手に」、そこに書かれている「肉体のリズム」がわかる。「肉体の音楽」がわかる、と言うのである。
 書かれている状況がエロチックであるという声も出たが、人間ができるエロチックなことというのは限られていて、エロチックな行為そのものには詩はないだろうなあ、と私は思ったりする。行為の「リズム」には、それぞれの違いがあって、それは刺激的だなあとは思うのだが。
 ちょっと脱線したか……。
 男と女の詩の読み方の違いかもしれないが、そんなことを感じた。

 私は実は最後の連(最後の2行)がいらないと思うのだが、そのことを話そうとした瞬間に、「桃の精、がおしゃれ」「オレンジだと違うものになる」という声が出で、
 「えっ、オレンジだと違う?」
 「桃ってエロチックの象徴ですよ」
 うーん、桃がエロスの象徴につかわれることは知っているけれど、もうつかわれすぎているので私は不感症になってしまっていて、そういうことばだけの部分には何も感じない。「太もも」が「桃(もも)」と「音」のなかで「ひとつ」になるのも、「流通言語」的でおもしろくないなあ、と思う。
 それよりも、

それは彼女のつけまつげの二まい重ねの瞬きに似てくすぐったいあまいいちまいの手のひらひとひらほら、

 この行の「つけまつげの二まい重ねの瞬きに似てくすぐったい」の触覚の言語化に、あ、おもしろいなあ。ここが女だな、と思って引きつけられる。男はどうしても触覚よりも視覚が強くて「つけまつげの二まい重ねの瞬き」は、「うるさい動き(目がチカチカする)」くらいになってしまうなあ、と思う。



ベルリン 村上淳

ふたたび地続きの海へ
ガーゼで手当てした記憶に
不満はあっても
曲げてはならない信念と
存在感あふれる苦笑いで
強靭であればあるだけ
脆弱である
脆弱であればあるだけ
強靭である
はぐれながら走り出す
うつろな景色
あの日は失せて
天使と魔女が入れ替わる
追悼
ゆがんだ地平は
鏡に映らない
溶け合うことができない
いつまでもいつまでも
風とおしのいい町はない
時には荒波だって
豆腐一丁とは言わなくても
どこもかしこも
似合わなくなって
いのちが
不定形になっていくのを
塔から眺めるだけだ
位置関係はいいのだが
こだわりが強くて
屈託のない声で
舟は炎上し
薄くきしみながら
砂浜はひび割れて
最終形は決められず
ただ今宵の雨に紛れ込む

 この作品に対しては「どこがベルリンなのかわからない。どこにきみはいるのか。机上論と思った」「気取りすぎ」「ガーゼで手当てした記憶など、表現がおもしろい。ことばが上手」という声がでた。
 で、逆に「どこがベルリンだと思う?」という質問をしてみたところ、「追悼以後がベルリンっぽい」「天使は、ベルリン天使の詩という映画を思い出させる。天使がベルリンっぽい」「いのちが/不定形になっていくのを/塔から眺めるだけだ、の3行がベルリン」「豆腐一丁、はしかしベルリンじゃない」。
 その後「一行一行理解できないことばはないのだが、意味がわからない」という意見もでた。
 この「わからない」は、陶山の詩に対する「わかる」とどう違うのだろうか。
 時間がなくて、あまり語り合うことができなかったのだが、簡単に言えば「肉体」に迫ってこないということだろうと思う。ベルリンの「肉体」も作者の「肉体」も感じない。でも、ほんとうに全部が「わからない」かというと、そうでもない。
 「強靭であればあるだけ/脆弱である/脆弱であればあるだけ/強靭である、の4行は男性っぽい。男性が書いたのだとわかる」「ゆがんだ地平は/鏡に映らない、はとてもいい」「どこもかしこも/似合わなくなって、は新しい」
 何かが「わかっている」。「勝手にわかっている」。「肉体」が「おぼえている」ことが「思い出されている」。最初に出た感想の「気取りすぎ」というのも「肉体」がおぼえている「気取る」ということが、ことばをとおして「思い出され」ている。言い換えると、「気取っている」ということが、「勝手にわかっている」。
 本人は「気取った」のかどうかは問題ではない。読者が「気取っている」と感じたのである。「誤読」したのである。

 で、作者の言い分。
 「タイトルと内容をくっつけすぎない。はぐらかす。飛躍させる、ということを試みている。雨に濡れた街の情景がベルリンというつもり」

詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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くちびる、

2013-09-05 00:09:20 | 
くちびる、

くちびる--ということばに出会ったとき、くちびるは指でなぞられていた。窓の外には雨の音がしていた。くちびるの端から中央へ、ガラスをつたう雨のように、指はくちびるを離れまいとしていた。机の上には読みかけの本があった。雨に濡れた窓のまだらな光と影がページに落ちていた。そのページをめくるように、指の腹がくちびるを押しながら動くと、くちびるがたわみ、声にならない息がもれた。体温に染まった湿り気が、ことばに見られているのを意識しながら、つまりことばにその動きが見えるように、指に絡みついた。ことばに見られていると気づいた指は少しもどろうとするが、くちびるの奥からは舌先があらわれて指紋に触れるだ。本のページが、はやく、と指を誘うように。コーヒーカップがあった。そんなはずはない。指は、指がくちびるの上をすべる。あふれてくる唾液がひかる。そんなはずがない。コーヒーカップの縁を指でなぞって、くちびるの女が復讐しているのはくちびるのつややかさか、指のじれったさか。窓の桟にたまった雨がカーテンを重くしている。まだ五時だ。ことばは秒針よりもゆっくりと、くちびると指ということばになりたいと欲望する。
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