詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(49)

2013-09-13 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(49)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「こころ」シリーズは毎月一回(たしか第一月曜日)に朝日新聞の夕刊に連載されたものだけれど、こうやって一冊になって読んでみると、ときどき毎月書いたというより、一回に何作かつづけて書いたのではと思うことがある。
 「ふたつの幸せ」と「一心」は「ふたつ」「一」と違うし、一方が「幸せ」なのに他方は苦悩のようなものを描いているから、まったく違うと言えるのだけれど。でも、その違うこと「ふたつ」と「一」、「幸せ」と「苦悩」の関係が「呼応」のように思える。一方を書いた瞬間、その奥からふっと沸き上がってくる「反論(?)」のようなものに見える。
 その「一心」。

生きのびるために
生きているのではない
死を避けるために
生きているのではない

そよ風の快さに和む心と
竜巻の禍々しさに怯える心は
別々の心ではない
同じひとつの私の心

 正反対とさえいえるものまで「ひとつ」のこころ。こころが、そんなふうにどこまでいっても「ひとつ」なら、「肉体」はどうなんだろう。
 たとえばきのう読んだ詩の「少女」と「老人」。彼らの「幸せなこころ」はひとつ。ひとつになっている。そうであるなら「肉体」は? 別々? 別々だとしたら、いったい「どこで」ひとつになっているのだろう。

 こんなことは、ややこしく考えない方がいいに決まっている。そよ風に和むこころと竜巻に怯えるこころが「ひとつ」になるところで「ひとつ」になっている。矛盾したものが、矛盾しているからこそ、それが「ひとつ」である場所があるのだ。
 で、どこ?

 「ありとある」ところ。「ありとある」時間。「ありとある」という無数が「ひとつ」。
 だから、最後に美しい哲学が。

死すべきからだのうちに
生き生きと生きる心がひそむ
悲喜こもごもの
生々流転の

 谷川にとって「生々流転」するのは「肉体」ではなく「こころ」。「ひとつ」のこころが、いくつもの時代、いくつもの「肉体」を流転する。流転することが「生きる」こと。「生きる」とき、そこが「ひとつ」の場所であり、時であり、肉体。

 あ、「意味」にならない「感想」を書きたいのに、どうしてもこんなことを書いてしまう。困ったなあ。


新装版 谷川俊太郎の問う言葉答える言葉
谷川俊太郎
イースト・プレス
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西岡寿美子『すゞれる』

2013-09-13 09:54:30 | 詩集
西岡寿美子『すゞれる』(高知新聞総合印刷、2013年09月26日発行)

 西岡寿美子『すゞれる』は「限界集落」と呼ばれる地区のひとびと、その暮らしを描いている。西岡の暮らしを描いている。その暮らしを描いているといっても、もうそこには暮らしはほとんどなく、立ち去ることしかできないのだが、そこにあったはずの暮らし、覚えていることを書いていると言った方がいいかもしれない。
 「二〇〇三リポート Ⅱ」は、 200年からみて四十年ほど前の、「その人」のことを書いている。その人は、畑を転用して田を「造り出す」。その作業を見ている。

それはほぼ次の手順だったと思う
畑土を総ざらえした跡へ
水漏れ留めの拵えとして
赤土(粘土)を運び入れて大きな皿型に叩き重ね
周囲に土手を積み
最後に畑土を戻し入れる

 この完結で正確な描写に西岡のたしかな視力がある。そして、その視力は単に見ているのではなく、見るときに西岡の「肉体」に働きかけている。肉体が覚えている。西岡の肉体が、田を造り出すという仕事を覚えているのだ。だから「手順」という。「手」という肉体を含んだことばがつかわれる。よく似たことばに「順序」があるが、「順序」と「手順」は違うのだ。「肉体」が覚えていることを「手順」と言うのである。
 ことばにしてしまうと、あまりにも短くて簡単に田圃ができそうだが、そうではない。これは大変な労働なのである。

わずか三十坪ばかりの一区画を
早朝から日没まで
照ろうが吹こうが雪が積もうが
農閑期の晩秋からのふた冬
昨日も今日も
寸毫も進むとも見えぬ位置に人形(ひとがた)のように張り付き
他を頼まず独力で掘り運び叩き捏ね均し
つまり三年がかりで小新田を造り出したのではなかったか

 西岡も三年かかって、その労働を自分の「肉体」のものにしたのだ。

まだ覚えている
石で詰め土に喰われ変形したあの人の黒紫色の指爪を

 自分の肉体の変化のように、西岡はしっかりと「その人」の肉体の変化を自分に刻み込む。「手順」を肉体に刻み込んだから、「手(指、爪)」の変化がそのまま肉体に乗り移る。その変化が刻み込まれるまでの時間と労働が、西岡の肉体のなかで覚えていることを思い出させる。
 その人の働くところをみたひとは、みな、覚えているに違いない。それは、自分にはできないことだからである。同じ「肉体」をもっていても、そういうことをできる人とできないひとがいる。そのことが、同時に、それぞれの「肉体」に刻印される。
 だから、あんなに土地持ちなのに、なぜ新田が必要か。一俵や二表にもならない。「物持ちほど欲持ちだ」というような陰口を聞かれたりもする。そういうことばが西岡の記憶に残るのは(覚えてしまうのは)、西岡にもそういう気持ちがどこかで動いたからかならなのだが……。
 だが、そういう妬みのようなものは、実際に肉体に刻み込まれた労働の跡にぶつかると無言になる。対抗できない。そういう肉体に驚き、そして肉体が共感する。そこまでやれる肉体というのは、ものすごい。自分をはるかに超えている。

口を引き結んで
見る側の肌が粟立つ重労働を止めはしなかった
欲心などと嘲笑う口を噤ませる恐ろしい執心
それ以上に痛ましいとも惨いとも
言うに言えない根を詰めた老体の精励で
あの人が造り出した新田に
初めて種籾が下ろされ
苗が薄青んだのを見てわたしの目には涙が噴いた

 肉体は精神の迷い、感情の乱れ、一種の妬みのようなものを、その人の労働と、それにこたえる新しい苗が吹き払っていく。何が起きたのか。

 畦を一寸でも広げるのが百姓魂であるなら
 この人は誤っていない

 西岡は「誤りのなさ」を見つけ出したのだ。ひとは「正しい」ことはなかなかできない。けれど「誤りのないこと」なら、自分の「肉体」を正しく動かしさえすればできるのである。「手順」を誤らないかぎり、何かがそれにこたえてくれる。
 自然も「肉体」でこたえてくれる。
 田圃をつくるには、土を掘り返し、粘土を入れて固めて、そのうえに土を戻す。粘土をまぜるだけではだめ。しっかり「皿」をつくって、それから土を戻す。それが「間違いのない」手順である。もっとほかに簡単な方法があるかもしれないが、それを探して実行するのではなく、「覚えている」間違いのないことを繰り返す。--それは、その積み重ねで、ひとは山を切り開き、土地を耕し、暮らしをしてきたひとの暮らしをそのまま引き継ぐことだ。引き継ぎながら育てることだ。
 このとき自然は同じ「手順」で造り替えられ(ととのえられ)、その「手順」のなかで生きる自然が甦る。人間にDNAがあるように、自然そのものにも何かいのちをうみだすDNAがあって、その自然のDNAが「その人」の「手順」に誘われるように、自然そのものの「手順」を思い出すようにして自然が自然の「肉体」になる。「自然の肉体」ができてくるのである。
 「人間の肉体」と「自然の肉体」が呼応し、それに「西岡のことばの肉体」がよりそうとき、そのことばはマニュアル(手順書)ではなく、
 詩
 になる。
 いやあ、美しい。

 「その人(あの人)」の労働には、春が来たら植物が芽吹く、そうしてまたいのちが繰り返されるという自然の、人間の力を圧倒する美しさ(自然の肉体の美しさ)と向き合う力がある。早苗のみどり。それを美しくするのは、「誤っていない」ことを繰り返すことができる力なのである。

わたしは
集落の棚田総数二百余枚
造田に要したであろう始祖と代々の祖たちの
背骨が歪むまでの労働で成った集落遺産の
金銭に換えられない厳かさを教えられた

 「厳か」。それは「誤っていない」ことのなかに必ずある。「誤らない」という意思の力、その意思がととのえる形のなかにある。それはかつての集落を支えていた。「自然」と「人間」が「肉体」としていっしょに育ってきた美しさが、そこにはあったのだ。

 それが、いま、日本各地で、否定されている。拒絶されている。「誤っていない」ことを繰り返すのではなく「誤っていないというだけではだめ」という感じで、ある暮らしが否定されてる。「厳か」とは無縁の「美」が席巻している。「肉体」とかけはなれた、「欲望の肉体」が「欲望の肉体」を刺戟しつづけることで疾走する美がのさばっている。
 これは、やはりおかしい。

 少し脱線するが。
 この夏、宮崎駿の「風たちぬ」という映画があった。宮崎駿が表現したかったのは、「ものづくり」の「厳かさ」というものであったかもしれない。ただし、それは実現されていなかった。「厳か」に、悲恋という「はかない美」を並列させたために、どっちつかずになってしまった。というよりも、「厳か」な力、その美を復活させないといけない危険な時代に、それを田を造り出すようにして造り出せず、横道にそれてしまったという「罪」が宮崎駿には残されたかもしれない。「手順」を描くことをおろそかにした結果である。「引退宣言」などしなくても、宮崎駿の「アニメーターの肉体」はそのとき滅んでいる。その事実を納得できない宮崎駿の「精神」が「引退宣言」という未練となって噴出したのである。「精神」が「肉体」を破って出てくるとき、それは「精神」の勝利ではなく、「肉体」が「精神」にそっぽを向いた反動にすぎない。
 宮崎駿がこの詩を読んだら、どう思うだろうか。

 「誤っていない」ということば似た表現が、この詩集ではもう一度出てくる。「水に送る」。「限界集落」を通り越して「廃集落」になった村。家の石臼を「あなた」は人に売らず、また人に盗まれることも避けるように、川辺に置くことで自然に返した。川べりで石臼をみたとき、西岡はそのことに気づき、次のように書く。

あなたの選んだこの上ない臼のあましどころと
生の日の心のありどころの相違(くるい)なさを

 「くるいなさ」。
 西岡は、「あやまっていない」「くるいがない」ということを、「肉体(思想)」の基底においている。「あやまっていない」「くるいがない」だけでは、つまらないか。ものたりないか。--だが、あやまらない、くるわない、という「肉体」は自足ができるのだ。自足から「厳か」が生まれてくる。
 西岡は「あやまった」ことばをつかわない。「くるいのある」ことばをつかわない。そうすることで「厳か」へ到達する。この「厳か」の前で、私に何ができるだろうか。
 余分なことは言わず、西岡が田を造り出したひとを見たと書いたように、ただ、「あやまったことはかかない」ということを守り通して西岡が書いた詩を読んだ、と書くだけでよかったのだろう。
 どの詩にも「正直」が動いている。ぜひ、読んでください。



 アマゾンにはまだ登録されていません。発行所の住所、電話番号は
 高知市葛島1-10-70
 088-882-5521
 西岡に直接注文したい人には、メールで住所をお知らせします。
 yachisyuso@gmail.com

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土佐の手技師
西岡 寿美子
風濤社
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あなたはいて、

2013-09-13 09:48:52 | 
あなたはいて、

午前あなたはいて、
あなたがいなくなった午後、
屋上から見る街は
あなたと見たビルと
あなたなしで見るビルとに分割された。
あるいは分離していく。

秋の午後、あなたなしで街を見るとビルの影は直線だ。
あなたがいたとき見たビルが隠している道路が
あなたがいないときビルが隠している道路と直角に交わる。

あなたなしでビルを見るとあなたの連想が消えてビルがものになる。
ハイブリッドの車がメルセデスを追い抜いていく音がする。
十七歳のとき、ひとりで見た海を思い出す。
私は海を見るように遠い音を揺する街を見た。

私は待った。
私のなかにある海の連想が消えるのを。
私は待った。
あなたなしの街が太陽が傾くときに、
影と光に分かれて、形が色になってしまうのを。
それから動いていく。
引き潮のように。

私は否定する。
ことばが不適切に思い出にからみつくのを。
私は否定する。
あなたがいないことを。

あなたは行った。
私は待っている。
私の連想がすべて崩壊するのを。
崩壊しなければならないものを。




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