詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(44)

2013-09-08 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(44)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「おのれのヘドロ」という作品。「ヘドロ」は汚いものという「比喩」として定着してしまっているかもしれない。だから、一見すると、「流通言語」で書かれた「流通概念」という感じが少しするのだけれど……。

こころの浅瀬で
もがいていてもしようがない
こころの深みに潜らなければ
おのれのヘドロは見えてこない

偽善
迎合
無知
貪欲

 「こころの浅瀬」と「こころの深み」という対比も定型であるのだけれど。うーん、なぜ浅瀬にいてはいけない? なぜ「こころの深み」に潜らないといけない? 自分でわざわざ「ヘドロ」を見つけ出さないといけない?
 そんなに真剣に自己反省しないといけないのかなあ。

自分は違うと思っていても
気づかぬうちに堆積している
捨てたつもりで溜まるもの
いつまでたっても減らぬもの

 あ、「ヘドロ」はたしかに気づかぬうちに溜まるものだろうけれど、最後の一行。「減らぬもの」。「溜まりつづけるもの」は、あたりまえのことだけれど「減らない」。けれど「減らない」ということを私たちは(私だけ?)、なかなか気がつかない。それはもしかすると絶対に減らないもの、絶対に捨てきれないものかもしれない。
 じゃあ、どうすればいい?
 と質問し、答えを探していけば、うーん、うるさい「倫理の教科書」みたいになるから、谷川は書かない。

 谷川はどこかとても「論理的」なところがあって、その論理で生活をととのえ、ことばをととのえる。最後の2行(3行、かもしれない)には「堆積する」「溜まる」を「減らぬ」ということばで説明し直している。「論理の経済学」から言うと、この言い直しは無駄、饒舌である。過剰である。
 でも、それが過剰だからこそ、そこに詩が生まれる。
 「減らぬもの」と言いなおされたとき、はっと、肉体の奥で動くものがある。「堆積する」「溜まる」と「減らぬ」は違うのだ。「減らぬ」ではなく、「減らせない」のである。「捨てたつもり」ということばもあるが、「捨てる」をつかえば、この「減らぬ」は「捨てられない」でもある。
 「こころのヘドロ」は捨てられない、減らせないものなのである。
 谷川は「事実」を念押ししている。その、繰り返しのなかに、念押しするということばの動きのなかに、谷川の「生き方(思想/肉体)」がある。
 ふと、どんなことでも念押しし、くりかえし、ことばにして確かめている谷川の姿が浮かんできた。



地球へのピクニック (ジュニアポエムシリーズ 14)
谷川俊太郎
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スティーブン・ソダーバーグ監督「サイド・エフェクト」(★★★)

2013-09-08 19:27:37 | 映画
監督 スティーブン・ソダーバーグ 出演 ジュード・ロウ、ルーニー・マーラ、キャサリン・ゼタ・ジョーンズ、チャニング・テイタム



 この映画の色調、それから映像のソフトフォーカスの感じが絶妙である。鬱病患者の「頭の中に毒ガスの霧がかかったみたい」という台詞が出てくるが、そういう感じ。はっきりしない。私は目が悪いせいもあって、あ、検診にいかなければ……と思うくらいである。音楽もだらだらとあいまいで、すっきりしない。
 そういう映像のなかで、売れっ子のチャニング・テイタム(「ホワイトハウス・ダウン」「マジック・マイキー」の主役)が出てきたと思ったらすぐ殺されてしまう。それも包丁で。あ、これってヒチコックの「サイコ」そのまま。そうなんですねえ。「サイコ」をある意味でパクっている。別な言い方をするとヒチコックに敬意をはらっている。
 で、この段階で、この映画の殺人者(ルーニー・マーラ)が二重人格であること、つまり鬱病がほんものではなく、偽りのもの(嘘)であって、ほんとうの彼女は別にいるということが暗示されるのだけれど。
 いやあ、うまいなあ。ソダバーグは。
 最初に指摘した「色調」のせいで、ついつい彼女が鬱病なのだと思い込んでしまう。鬱病になると、世界が明確な輪郭をなくし、色もくすんで、世界と向き合っているのが重苦しいと感じてしまう。つまり鬱病の女性の視点で世界を見ている気持ちになる。
 すこし注意深く映像を見ていると、彼女が鬱病っぽい行動を起こす前に、必ず彼女が目撃されていることを彼女が確認していることがわかる。駐車場で自殺(?)しようとするときなど、わざわざバッグから小物を落として管理人(?)の注意を引いている。彼女は変だ――ということを目撃させている。地下鉄でも駅の監視人(?)とわざと目をあわさせている。手が込んでいるねえ。必要な「情報」をきちんと映像にしている。映像がていねいだねえ。
 さらにおもしろいのが、罠にかけられる精神科医にジュード・ロウという色男をもってきたことだねえ。男でも女でもいいのだけれど、美形が追い詰められ、苦しみ表情というのは魅力的である。もっといじめてみたい。もっと苦悩する顔をみてみたい。そういう気持ちをそそられるでしょ? バーグマンはそういう意味では、私にとっては永遠の美女だなあ。きっと苦悩する顔というのはセックスでエクスタシーを迎える寸前の顔に似てるんだね。なんだか興奮するでしょ? 脱線したかな?
 そして敵役(?)に、美女は美女なんだけれど、美女が嘘っぽい(?)感じのキャサリン・ゼタ・ジョーンズをもってきたのが絶妙だなあ。どこか美女を売り物にしているあやしさがあるでしょ? 悪役向きだよなあ。
 ここまで書いてしまうと、これはもうネタバレというものなんだろうけれど、映画はストーリーではないからね。ストーリーがわかっていた方がたっぷり映像をじっくりと見ることができるからね。私は実はサービスでネタバレを書いているんですよ。
 味付けがインサイダー取り引きというのが「現代風」ではあるのだけれど、これもね、よくよく考えれば「サイコ」のパクリ。「サイコ」の犠牲者(女)は、ふと目にした大金をくすねて逃走する途中で殺された。チャニング・テイタムがころされるきっかけになったのは、労働とは言えない労働(インサイダー取引)で手にした金と、その金で築いた生活が崩れてしまったことが事件の始まり。
 これは巧みにつくられた「サイコ2」だね。
(2013年09月08日、天神東宝1)

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山本泰生『祝福』

2013-09-08 09:25:19 | 詩集
山本泰生『祝福』(歩行社、2013年10月02日発行)

 山本泰生『祝福』のなかに連れ合いのことを書いた詩がある。重病のようである。そのことによって、ふたりとも生き方が変わってきている。どう変わってきたか、もとのことは書いてはないのだが、変わったのだなあとわかる。そこに詩がある。
 「ゼラニウム」の2、3連。

思い治療ののち退院してきた相棒が
やっと世話をする玄関の六鉢のゼラニウム
花は少し色鮮やかになったよう
ちらっと蕾も増えている

私は手伝うともなく
枯れた花を摘む蒼白い指や
首筋のかすかな震えをみる
相棒はゼラニウムにふと
何か話しかけている
すると花びらが仄かに光り
何か答えているらしい

 山本が連れ合いの「肉体」となって、ゼラニウムを見ている。山本の目が、連れ合いの「肉眼」になって、連れ合いの見ているものを自分の肉体のなかに引き込む。ゼラニウムの花は、連れ合いの肉体のなかで仄かに光り、同時に山本の肉体のなかで仄かに光る。ゼラニウムをとおして、ふたつの肉体が一つになる。
 この「一体になる肉体」が、いつもは聞き漏らしていた「声」を聞き取る。「つばめ」は体調の変化で音に敏感になった連れ合いのことを書いているが、音に敏感になったと感じるのは、どうじに山本自身もかすかな音を聞き取れるようになったから感じることである。連れ合いだけが音に敏感になり、山本にその音が聞こえないのだとしたら、そのときつれあいの様子は異様に見えるだろう。連れ合いが耳で聞いている音が山本にも聞こえる。そしてそれは、逆の言い方をすると、山本の聞いているものを連れ合いが聞いているということでもある。
 で、子育て中のつばめを見る。

四羽の雛がくちばしを大きく開けて餌を待っている
賑やかな鳴き声をはりあげ
親つばめは虫を捕らえ雛に運ぶ
また休まず飛び立っていく
飛びながら餌の虫を捕ってはすぐさま戻る

(若い時でもこれは大変だ、とても真似できないな。)
私が悲鳴をあげる前に
相棒はふっと独りごと
(子育てぐらい楽しい歓びはないと思う。いきようね
と言われているみたいで。どんなに大変でも。)

 連れ合いには山本が肉体の奥でふとつぶやいた「声」が聞こえたのだ。だから、その「声」にこたえるように「子育てぐらい……」ということばが漏れたのだ。しかし、それはほんとうに漏れたのかどうか。私には疑問だ。たぶん、連れ合いも何も言わなかった。言わなかったけれど、その「声」が聞こえた。二人は「ひとつ」の肉体になっているから、「声」にしなくても、その舌やのどが動き、肉体のなかで「声」をつくる。「声」を出す必要がないのだ。
 だからこそ、次の最終連。

わたしは声に出さずに伝える
(つばめよ、相棒の願うとおり、しっかり子育てして
力強く巣立ってほしい。それまで存分に騒ぐといい。)

 「声に出さずに」だれに伝えるか。「つばめよ。」と呼び掛けられているから、文法上はつばめに伝えていることになるけれど、そんな気持ちにならないでしょ? 連れ合いに伝えているように聞こえるでしょ?
 そうだね、子育ては夢中になったね。忙しかったけれど、楽しかったね。うれしかったね。おぼえているよ。
 ふたりの「肉体」のなかで、その「おぼえていること」が生き生きと動いているが感じられる。どんなに大変でも「生きようね」と、そのおぼえていることが励ましてくれる。その「声」をふたりで共有している。



山本泰生詩集 声
山本 泰生
コールサック社
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