詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大家正志「不実」ほか

2013-09-25 09:37:11 | 詩(雑誌・同人誌)
大家正志「不実」ほか(「space」1106、2013年06月20日発行)

 大家正志「不実」は書き出しが非常におもしろい。

その女はそのむかし手続きだった
丹念に詠み込まれ
手垢と唾と猜疑と丁重さで愛撫され
肉体が磨耗してからは
薄っぺらな皮膚ひとつで手続きというあってなきがごとくの労働をはたしていたが
肉体が削がれて
薄っぺらな皮膚一枚になったときようやく気づくことがあった

 「手続き」とは何か。まあ、手続きなんだねえ。目的があって(結果があって)、そのためにする何事か。それはつまらないことかもしれないけれど、丹念に(ていねいに)やらないとうまくいかない。そして、ややこしいことに、それは「手続き」であって、結果ではないので、だれも注目はしないね。
 そういうような、結果に飲み込まれて見えなくなるような、女。
 それをどうやって「具体的」にことばにするか。大家がやっているのは、具体性を排除し、具体性のまわりにあるものを「抽象」でつかみとる。「手続き」は繰り返されると見えなくなるのだから、見えるように書いてもしようがない。「見えないもの」は見えないまま、抽象的に書くしかない。抽象にまで高まったとき、「手続き」が完成するのかもしれないけれど--ただし、その「完成」はあくまで「結果」を重視する人間にとって、という意味。機械論で言えば「手続き」は正確な歯車になったとき完成するのだが、歯車は「結果」にとって存在しない。
 いま、私は「歯車」という比喩をつかったが--手続きは、まあ、そういう「比喩」のような、抽象的なものである。「抽象」化すると、なんでも「頭」には「わかった」ような気持ちになるからね。
 脱線したかな? この詩に戻って言えば、「丹念」「手垢」「猜疑」「丁重」そういうことばが抽象するなにごとか、抽象されることで欠落するものと残るもの--そのせめぎ合いのなかに「手続き」がある。せめぎ合いとして、「手続き」が肉体にせまってくる。「丹念」も「手垢」も「猜疑」も「丁重」も具体的なことは言っていないが、そのことばはいっしょに「つまらない手続き」のためにつかった「肉体」がふと思い出されてくる。
 ここがおもしろい。
 「結果」ではなく、「手続き」の抽象的な内容ではなく、そのときの「肉体」そのものの感じが、抽象をいやがってあらわれてくる。抽象で描かれるのだが、抽象はいやだよ、と抵抗するようにして「肉体」がうごめく感じがする。「磨耗」ということばが出てくるが、抽象によって「肉体」が「磨耗」する感じ。--その感じさえも「磨耗」という抽象で描かなければならないという矛盾。
 ここがおもしろい。 

 詩のつづき。

手続きそのものを疑うことは
薄っぺらな皮膚一枚になった事情そのものも疑わなければならないことで
女は
つい
薄っぺらな皮膚も削ぎ落としたのだが そのとき
ふかくにも
足もとの石の
そんなところにそんなものがあるなんておもいもかけない
足もとの石の空洞にはまりこんでしまった

 「石」に「空洞」があるというのは、矛盾であり、そこにまた別の詩があるのだけれど、(矛盾のあるところには必ずことば以前の、詩がある/思想があるのだけれど)、これからあとはしかし、あまり私にはおもしろくなかった。
 詩が「物語」へと動き、「肉体」と「抽象」のせめぎ合いのなかに「手続き」が消えながらあらわれるという感じが、なんだか薄められてしまう。「物語」は「結論」のための「手続き」のようなものだからかもしれない。
 「石」と「肉体」を出会わせてしまったのが、たぶん、ことばを希薄にさせたのだと思う。石に出会わずに、「肉体」とだけに世界が限定されると、きっと傑作になったのに、と残念でならない。



 草野早苗「カフェ」は駅の近くのカフェからみた風景。

のぼりの電車が左から
住宅街を引っ張ったまま
庭のアネモネを屋根に載せて走り去り
下りの電車が右から
工業地帯を引きずり
水蒸気を吐く煙突までぶら下げて走り去る

 「水蒸気を吐く煙突」まで書いてしまうと、「現実」が「真実」ではなく「ファンタジー」になびいてしまうが、風景を引っ張って列車が走り去るというのは、「肉体」と「下界」の関係を浮かび上がらせておもしろい。それぞれの列車が風景を引っ張って動くなら、草野の「肉体」もまた街のカフェやどこかの店のウインドーの商品を引っ張って動くのである。「目と喉と子宮」を検査して、その検査したという感じを肉体がおぼえているなら、なおさらである。

 丁海玉「路線図」は電車で見かけた女のことを書いている。だれだか思い出せない。女は文字もわからないまま「路線図」を見ている。その様子をながめながら、

柱の角にからだをひっこめたまま
記憶をたどる
もしかして目が合えば
どこの誰だったか
思い出すかもしれない

 「目が合う」は「肉体」が出会うということだろう。「肉体」は、わけのわからないことをすべてつなぎとめる。
 「肉体」が「肉体」と向き合い、「肉体」がおぼえていることを、ことばにするとき、そこに思想(詩)があらわれるということだ。



詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
コメント
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