監督 是枝裕和 出演 福山雅治、尾野真千子、真木よう子、リリー・フランキー
リリー・フランキーがとてもおもしろい。なんとなくだらしないのだが、そのだらしなさは余分なものをかかえこんだ豊かさ、あたたかなものをもっている。それは福山雅治の具現化する合理主義とはまったく違っている。合理主義では、余分なものはつぎつぎに削ぎ落とされる。合理主義とつきあうには、樹木希林が福山に対してみせたような「年寄りが余分なことを言ってしまって、許してくださいね」という対応方法(表面で誤りながら、心の底で馬鹿野郎、と関係を絶つ)が一般的なのだけれど、それでは「豊か/あたたか」という印象はなくて、「したたか」になってしまう。「したたか」を超えて「豊か/あたたか」になれるのは、すべてのことを「余分」とは考えないからである。約束の時間におくれるたびに、「妻が出掛けに時間をとって」と言い訳するが、それは「方便」であって、妻が時間をかけることを「合理的判断」で「悪い」と謝罪しているわけではない。世の中には、そういう「余分」がある、その「余分」を自分は拒絶しないということを、静かに語っているのである。「余分」をひとに与える、と言ってもいいかもしれない。「余分」はときには相手にはもっと「余分」であるから(福山に対しては「余分」すぎる)、ときには激しく嫌われるが、「余分」が必要なひとがいるし、必要なときもある。
すこし補足すると。風吹ジュンに福山が電話をかけて、かこのあれこれを謝ろうとすると、風吹が「だれそれがかつらだとか、整形しているとか、そういうくだらない話をしたい」と応じる。その「くだらない」が「余分」。「余分」だけれど、それがないと「合理主義」に縛られてやっていられない。(「合理主義」のかたまりの福山の職業を建築家にしたのは、非常に理にかなっている。かないすぎているかもしれないが……。)
リリー・フランキーが非常に印象に残るのは、その「余分」を「余分」が必要なときだけではなく、不必要なときにも自然ににじみださせるからである。「余分」が「肉体」になってしまっていて、ほんとうは「余分」を出してはいけないときにまで出してしまうからである。まるで状況を把握していない――というと矛盾だけれど、そういう感じで「余分」を出すことで、「役柄」を「役」にとじこめずに「人間」にしてしまっている。こんなにうまい役者だったのかと、私は感心してしまった。
子役もうまいなあ。是枝はもともとこどもの演技を引き出すのが非常にうまいが、今回もびっくりしてしまう。リリー・フランキーのこどもを(ほんとうは福山のこども)を演じた黄升げんが福山に「なんで」とくり返すところなど、とてもいい。まるで台本を読んでいない(ストーリーを理解していな)みたいな、その場で突然芽生えた反抗心をそのまま捉えたような、とても気持ちがいいシーンだ。
周囲の演技に比較すると福山は損をしている。「合理主義」を生きてきた人間にしては美形すぎるのである。美形が冷たさではなく、どこかで「甘さ」をもっていて、その「甘さ」はリリー・フランキーの「甘ったるさ」を強調することにはなっても、「非情」を浮かび上がらせない。最後の「非情」をつきやぶるところ(その前の、息子がカメラをいらないと言った理由をさとるところ)では、なんだかセンチメンタルの方が強くなるような気がする。そこが「見せどころ」なので、うーん、悩ましいね。もっと「肉体の無機質」を具現化している役者の方がクライマックスが泣けたかなあ……。(あ、劇場では、何人もの観客が泣いていたのだけれど……。)
それとは別に。
この映画にはとても不満なところがある。音楽が多すぎる。音楽がかってに「感情」をつくりすぎる。最後の近く、福山が息子に会いにリリー・フランキーの家へ向かうシーン。その冒頭の5秒くらい(?)間は音楽がなくて、ただ車が走る。あ、ここはいいなあ、やっと音楽に頼らない映像がでてきたぞ、と思った瞬間に音楽がはじまる。せめてあと5秒、音のない映像があると、見ている方の気持ちがすーっと空白になっていい感じなんだけれどなあ。
どうしたって感情過多になってしまう映画なのだから、感情を空白にする工夫がもう少しあれば、もっと劇的になると思う。感情の空白という点では、風吹ジュンと福山の和解が「電話の声」だけというのはよかった。面と向かってあの台詞がやりとりされたら、話がまったく別になってしまう。
スピルバーグがリメイク作品を撮るという話があるが、感情の空白をどう処理するか、それが楽しみだなあ。
(2013年09月29日、天神東宝1)
リリー・フランキーがとてもおもしろい。なんとなくだらしないのだが、そのだらしなさは余分なものをかかえこんだ豊かさ、あたたかなものをもっている。それは福山雅治の具現化する合理主義とはまったく違っている。合理主義では、余分なものはつぎつぎに削ぎ落とされる。合理主義とつきあうには、樹木希林が福山に対してみせたような「年寄りが余分なことを言ってしまって、許してくださいね」という対応方法(表面で誤りながら、心の底で馬鹿野郎、と関係を絶つ)が一般的なのだけれど、それでは「豊か/あたたか」という印象はなくて、「したたか」になってしまう。「したたか」を超えて「豊か/あたたか」になれるのは、すべてのことを「余分」とは考えないからである。約束の時間におくれるたびに、「妻が出掛けに時間をとって」と言い訳するが、それは「方便」であって、妻が時間をかけることを「合理的判断」で「悪い」と謝罪しているわけではない。世の中には、そういう「余分」がある、その「余分」を自分は拒絶しないということを、静かに語っているのである。「余分」をひとに与える、と言ってもいいかもしれない。「余分」はときには相手にはもっと「余分」であるから(福山に対しては「余分」すぎる)、ときには激しく嫌われるが、「余分」が必要なひとがいるし、必要なときもある。
すこし補足すると。風吹ジュンに福山が電話をかけて、かこのあれこれを謝ろうとすると、風吹が「だれそれがかつらだとか、整形しているとか、そういうくだらない話をしたい」と応じる。その「くだらない」が「余分」。「余分」だけれど、それがないと「合理主義」に縛られてやっていられない。(「合理主義」のかたまりの福山の職業を建築家にしたのは、非常に理にかなっている。かないすぎているかもしれないが……。)
リリー・フランキーが非常に印象に残るのは、その「余分」を「余分」が必要なときだけではなく、不必要なときにも自然ににじみださせるからである。「余分」が「肉体」になってしまっていて、ほんとうは「余分」を出してはいけないときにまで出してしまうからである。まるで状況を把握していない――というと矛盾だけれど、そういう感じで「余分」を出すことで、「役柄」を「役」にとじこめずに「人間」にしてしまっている。こんなにうまい役者だったのかと、私は感心してしまった。
子役もうまいなあ。是枝はもともとこどもの演技を引き出すのが非常にうまいが、今回もびっくりしてしまう。リリー・フランキーのこどもを(ほんとうは福山のこども)を演じた黄升げんが福山に「なんで」とくり返すところなど、とてもいい。まるで台本を読んでいない(ストーリーを理解していな)みたいな、その場で突然芽生えた反抗心をそのまま捉えたような、とても気持ちがいいシーンだ。
周囲の演技に比較すると福山は損をしている。「合理主義」を生きてきた人間にしては美形すぎるのである。美形が冷たさではなく、どこかで「甘さ」をもっていて、その「甘さ」はリリー・フランキーの「甘ったるさ」を強調することにはなっても、「非情」を浮かび上がらせない。最後の「非情」をつきやぶるところ(その前の、息子がカメラをいらないと言った理由をさとるところ)では、なんだかセンチメンタルの方が強くなるような気がする。そこが「見せどころ」なので、うーん、悩ましいね。もっと「肉体の無機質」を具現化している役者の方がクライマックスが泣けたかなあ……。(あ、劇場では、何人もの観客が泣いていたのだけれど……。)
それとは別に。
この映画にはとても不満なところがある。音楽が多すぎる。音楽がかってに「感情」をつくりすぎる。最後の近く、福山が息子に会いにリリー・フランキーの家へ向かうシーン。その冒頭の5秒くらい(?)間は音楽がなくて、ただ車が走る。あ、ここはいいなあ、やっと音楽に頼らない映像がでてきたぞ、と思った瞬間に音楽がはじまる。せめてあと5秒、音のない映像があると、見ている方の気持ちがすーっと空白になっていい感じなんだけれどなあ。
どうしたって感情過多になってしまう映画なのだから、感情を空白にする工夫がもう少しあれば、もっと劇的になると思う。感情の空白という点では、風吹ジュンと福山の和解が「電話の声」だけというのはよかった。面と向かってあの台詞がやりとりされたら、話がまったく別になってしまう。
スピルバーグがリメイク作品を撮るという話があるが、感情の空白をどう処理するか、それが楽しみだなあ。
(2013年09月29日、天神東宝1)
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