詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

是枝裕和監督「そして父になる」(★★★★)

2013-09-29 17:07:53 | 映画
監督 是枝裕和 出演 福山雅治、尾野真千子、真木よう子、リリー・フランキー

 リリー・フランキーがとてもおもしろい。なんとなくだらしないのだが、そのだらしなさは余分なものをかかえこんだ豊かさ、あたたかなものをもっている。それは福山雅治の具現化する合理主義とはまったく違っている。合理主義では、余分なものはつぎつぎに削ぎ落とされる。合理主義とつきあうには、樹木希林が福山に対してみせたような「年寄りが余分なことを言ってしまって、許してくださいね」という対応方法(表面で誤りながら、心の底で馬鹿野郎、と関係を絶つ)が一般的なのだけれど、それでは「豊か/あたたか」という印象はなくて、「したたか」になってしまう。「したたか」を超えて「豊か/あたたか」になれるのは、すべてのことを「余分」とは考えないからである。約束の時間におくれるたびに、「妻が出掛けに時間をとって」と言い訳するが、それは「方便」であって、妻が時間をかけることを「合理的判断」で「悪い」と謝罪しているわけではない。世の中には、そういう「余分」がある、その「余分」を自分は拒絶しないということを、静かに語っているのである。「余分」をひとに与える、と言ってもいいかもしれない。「余分」はときには相手にはもっと「余分」であるから(福山に対しては「余分」すぎる)、ときには激しく嫌われるが、「余分」が必要なひとがいるし、必要なときもある。
 すこし補足すると。風吹ジュンに福山が電話をかけて、かこのあれこれを謝ろうとすると、風吹が「だれそれがかつらだとか、整形しているとか、そういうくだらない話をしたい」と応じる。その「くだらない」が「余分」。「余分」だけれど、それがないと「合理主義」に縛られてやっていられない。(「合理主義」のかたまりの福山の職業を建築家にしたのは、非常に理にかなっている。かないすぎているかもしれないが……。)
 リリー・フランキーが非常に印象に残るのは、その「余分」を「余分」が必要なときだけではなく、不必要なときにも自然ににじみださせるからである。「余分」が「肉体」になってしまっていて、ほんとうは「余分」を出してはいけないときにまで出してしまうからである。まるで状況を把握していない――というと矛盾だけれど、そういう感じで「余分」を出すことで、「役柄」を「役」にとじこめずに「人間」にしてしまっている。こんなにうまい役者だったのかと、私は感心してしまった。
 子役もうまいなあ。是枝はもともとこどもの演技を引き出すのが非常にうまいが、今回もびっくりしてしまう。リリー・フランキーのこどもを(ほんとうは福山のこども)を演じた黄升げんが福山に「なんで」とくり返すところなど、とてもいい。まるで台本を読んでいない(ストーリーを理解していな)みたいな、その場で突然芽生えた反抗心をそのまま捉えたような、とても気持ちがいいシーンだ。
 周囲の演技に比較すると福山は損をしている。「合理主義」を生きてきた人間にしては美形すぎるのである。美形が冷たさではなく、どこかで「甘さ」をもっていて、その「甘さ」はリリー・フランキーの「甘ったるさ」を強調することにはなっても、「非情」を浮かび上がらせない。最後の「非情」をつきやぶるところ(その前の、息子がカメラをいらないと言った理由をさとるところ)では、なんだかセンチメンタルの方が強くなるような気がする。そこが「見せどころ」なので、うーん、悩ましいね。もっと「肉体の無機質」を具現化している役者の方がクライマックスが泣けたかなあ……。(あ、劇場では、何人もの観客が泣いていたのだけれど……。)

 それとは別に。
 この映画にはとても不満なところがある。音楽が多すぎる。音楽がかってに「感情」をつくりすぎる。最後の近く、福山が息子に会いにリリー・フランキーの家へ向かうシーン。その冒頭の5秒くらい(?)間は音楽がなくて、ただ車が走る。あ、ここはいいなあ、やっと音楽に頼らない映像がでてきたぞ、と思った瞬間に音楽がはじまる。せめてあと5秒、音のない映像があると、見ている方の気持ちがすーっと空白になっていい感じなんだけれどなあ。
 どうしたって感情過多になってしまう映画なのだから、感情を空白にする工夫がもう少しあれば、もっと劇的になると思う。感情の空白という点では、風吹ジュンと福山の和解が「電話の声」だけというのはよかった。面と向かってあの台詞がやりとりされたら、話がまったく別になってしまう。
 スピルバーグがリメイク作品を撮るという話があるが、感情の空白をどう処理するか、それが楽しみだなあ。
 (2013年09月29日、天神東宝1)
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北川朱実『ラムネの瓶、錆びた炭酸ガスのばくはつ』

2013-09-29 10:59:06 | 詩集
北川朱実『ラムネの瓶、錆びた炭酸ガスのばくはつ』(思潮社、2013年09月20日発行)

 北川朱実は人と会ったときにこころが正直に動く。『死んでなお生きる詩人』は彼女の正直がとてもはっきりと打ち出された評論集だった。『ラムネの瓶、……』でも、他人と出会ったときのこころの動きがいい。
 「字が書けそうだった」は直接他人と会うわけではないけれど、やはり他人と出会う詩である。

道を歩いていると
とつぜん家と家との間にさら地があらわれた

 「とつぜん」の「さら地」に、人はいないが、人がいないことによって、人がいる。そこに「人がいたのだ」という意識の目覚めがあり、その瞬間に北川は他人に出会う。他人に出会うから、ことばが動く。
 すぐに、「ことば」が出てくる。

そこに何があったか
言葉は降ったのか
何一つ思い出せなかった

 この「言葉」は少しめんどうくさいものを含んでいる。言い換えると、多様な「意味」を含んでいて、すぐにはそれを特定できない。特定できないのだけれど、そういう多様な意味をもっているということは、「肉体」がぱっとつかんでしまう。「肉体」が納得してしまう。「言葉は降ったのか」の「意味」もわからないが、あ、このさら地に誰かがいて、そのときのことばが形のないまま気配として感じられる。その不在のことばに対して呼び掛けても、不在であるから返答のありようがないのだが、その返答がないということも含めて「肉体」はそこにたしかに他人がいたかもしれないと感じる。北川の「肉体」から「他人」をもとめて動きはじめる何かがあって、それが、ここに動いている。そして「言葉は降ったのか」という、複雑な「意味」をもったことばとなってあらわれている。
 「何一つ思い出せなかった」と北川は、何かを「おぼえている」。「おぼえている」ことがあって、それがとこばになって思い出されないときの、いわは「記憶のさら地」みたいな感じが、人がいたはずの「さら地」と重なる。その重なりを、北川は正直にうごくのである。
 ここから、北川は「文字」と「記憶」というソクラテスも問題にしていることがらにちょっと触れて、そこからまた別の「他人」に出会う。他人を出会いに引っ張り込むという方が近いかもしれないけれど。
 
文字をおぼえて
過ぎたことを忘れることができなくなった

書かなければ
あったことの多くを忘れるという

遠く ギニアの奥地で
一つの文字も持たずに
五千年を生きた部族

彼らの前をとおり過ぎた人々の頭蓋は
洗われ
磨かれ

休館日の図書館みたいな木のうろに
ひっそりとしまわれているというが

 「文字を持たない部族」。彼らはしかしことばを持たないわけではない。書かない、記録し、それをつかうということをしない。ひとは、何かを体験しても必ずしもそれを記録しない。記録を消すということもあるかもしれない。たとえば、家を壊し、そこを「さら地」にする。
 でも、「さら地」はほんとうに「さら地」になるのか。だいたい「さら地」の「地」はそこに最初からあったのであって、その上を人と建物か横切っていったにすぎないと考えると、それを「さら地」と呼ぶのも何か奇妙な感じがする。
 「さら地」には、すでに「ひと」が刻印されている。それがどんなに無人になろうとも。
 その「無」が、北川を揺さぶる。「無」によって、北川の「余分なもの(?)」が削ぎ落とされ、むき出しの「肉体」になる。
 そのとき、北川が頼りにしたのは、「文字を持たない部族」である。「他人」である。--というと、少し間違っていて(かなり間違っていて)、「さら地」にことばが残っていななこと(ことばが無であること)を媒介(?)にして、「無」を生きるものがありうることを北川は思い出すのである。
 そこではたまたま「ギニアの奥地」の「他人」が呼び出されているが、実際に北川がその人たちと「時間」を共有したかどうかはわからない。共有しなくても、たとえば北川にも「文字を持たない時代」があるから(こどものとき、文字をおぼえる前の時間がある)、「文字を持たない」ことがどういうことか、わかる。それを北川の「肉体」はおぼえていて、その「文字を持たない」感覚を「いま」に結びつける。
 その感覚と「さら地」が重なり合う。「文字を持たない」というのは「家」を持たないというのに等しい。人間が「ひとり」としてむき出しになる。「正直」になる。(むき出しの人間と、正直は、「一体」のものである。)「あたま」が「頭蓋(骨)」になってしまっても--なってしまうとき、消えたはずの何かが、ふいにあらわれる。正直が、と私はいいたいのだけれど、そのことを具体的に、論理的に書くことは私にはまだできない。「予兆(予感)」のようにして、そういうことを感じるのであって、ことばを「肉体」の奥から引っ張りだして形にはできない。
 北川も、そういうことを具体的に、論理的には書けないから、詩という、矛盾によって輝くものを利用して、ここにこうやって書いたということだろう。

 論理的に書けないからこそ(頭の理解しやすいようにかけないからこそ、というと何か申し訳ないことをいっているような感じもするが、否定的ではなく、肯定的に「逆説」を書いていると読んでください)、北川は、北川自身の「肉体」がおぼえていることへ引き返す。ギニアの部族の体験と北川自身の文字を持たないときの感覚をかさねあわせながら、さらに「肉体」のおぼえていることを思い出す。

頭蓋の鮮やかな傷も
彼らにとって
河の蛇行ほどのものかもしれない

今日
誰も書かなかった明け方の汽車に乗り
誰も書かなかった土地を旅した

ひらべったい文字を
川に向かって投げると

何かをこらえたように
いくつも水を切って見えなくなり

空を 白い貨物船が
律儀にゆっくりと航行していった

字が書けそうだった

 そうして、正直を発見するから、「書けそう」な気持ちになる。



ラムネの瓶、錆びた炭酸ガスのばくはつ
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