詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(50)

2013-09-14 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(50)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「買い物」という作品はかなり奇妙な作品である。

隠しているのではない
秘密にしておきたいわけでもない
やましいことは何一つない
誰に話してもかまわない
ささやかな買い物 でも
知っているのは世界中で
自分ひとりだけ

 何を買ったのか。「隠しているのではない」とわざわざ書くのは「隠している」ということの強調である。そのあとの「秘密」「やましいこと」も否定することで、逆に「秘密」と「やましさ」を浮かびあがらせる。「隠しているわけではない」が「隠している」ということを知ってもらいたい。
 矛盾したものが、私たちのこころにはある。その矛盾は、そしてこんなふうに少しずつもらすような形で解きほぐすのかな?

 もし、買ったものが「形」のあるもので、人の前でつかうことのあるものだったら、それは「買った」と言わなくても「買った」ということがわかる。人の目の触れるところでつかうものではないのかな?
 --という具合に「妄想」を拡大していくと、うーん、これは「買った人」の秘密ではなく、読者の秘密を暴くようなものだね。秘密が暴かれるようなものだね。
 どこか「共犯者」になったような気持ちになる。
 こういう不気味な「ひとつ」へと誘う詩もあるのだ。

いつかは忘れてしまうだろう
私の心のジグソーの一片
でもそんなかけらが合わさって
私という人間がいる
不思議

 谷川が何を買ったか、「いつか忘れてしまう」ように、読者(私、谷内)も、そのことばによってどんな「妄想」を抱いたのか忘れてしまうだろう。でも、そういう「忘れてしまったこと」を含めてたしかに「私」という人間はできあがっている。

 その一方、私たちは、そういうことを忘れながらも「覚えている」。覚えているので、ときどき思い出す。思い出しながら、「覚えていること」の、たぶん「覚える」という動詞のなかで「ひとつ」になる。
 言い換えると「隠しているのではない」「秘密ではない」「やましいことはない」という否定の仕方で自分を納得させたという「矛盾」のなかで「ひとつ」になる。「矛盾」と書いたけれど、まあ、それは「矛盾」ではなく、もっとほかのことばの方が適切なのだろうけれど。

ままです すきです すてきです (幼児絵本シリーズ)
谷川 俊太郎
福音館書店
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松木俊治「どうして」

2013-09-14 08:24:45 | 詩(雑誌・同人誌)
松木俊治「どうして」(「豹樹」19、2013年07月31日発行)

 松木俊治「どうして」は特に変わったことが書いてあるわけでもないのだが。

坂を下りる
そこにバス停がある
雨ざらしの
ベンチに座りしばらくやすむ

もういちど
坂を下りる
薄暮の青空
グラウンドからは部活の声も聴こえてくる
ずっとつづく道には
始まりがなく
終わりもない

 「雨ざらしの」ベンチ、「薄暮の」空--には「詩」の連想がからみついていて、あまりおもしろくない。
 ところが突然、

始まりがなく
終わりもない

 と、ふいに「詩」がはぎとられる。「詩の連想」が無意味になる。「始まりがなく/終わりもない」とはどういうことだろうか。松木はふいに何を見つけたのだろうか。
 グラウンド、部活から松木の記憶は過去へと動いていく。

暗くなりはじめたテニスコートに
こさめか降っていた
ながい叱責だった
あのとき
ぼくは英語教師の黒くて太い
眼鏡の縁ばかりをみていた

それは
理不尽委でも
当然でもなかったけれど
その前も
そのあとも
ぼくはただ
持て余したままだった

 「理不尽でも/当然でもなかった」は「始まりがなく/終わりもない」の言い方に似ている。なにか通いあうものがあるのだろう。「その前も/そのあとも」になると、もう完全に「始まりがなく/終わりもない」になる。「その前も/そのあとも」は「時間」の「前/あと」だけれど、それを空間に(道に)置き換えてみると、松木がいる「ここ」の「前」と「あと(後ろ)」に道があって、それはどっちが始まりともどっちが終点(?)ともわからず、ただつづいている。
 どっちでもいい。
 この感じが「持て余す」という動詞と重なる。
 これはいいなあ。
 何とはなしに「肉体」を感じる。この「感じ」を「肉体」が覚えていることを思い出す。
 何を持て余すのか。
 「感情」というよりも、感情にととのえられない(感情になりきれない)肉体を持て余すんだろうなあ。
 いま引用した部分にも「暗くなりはじめた」とか「小雨」とか「詩」を連想させることばが動いているけれど、それを「理不尽」「当然」ということばが洗い流し、あいまいな「その前/そのあと」ということばへゆらぎ、そのあとで「持て余す」があらわれると、ことばが消滅して「肉体」だけが取り残される。
 こういう抒情は好きだなあ。べたべたしていない。感情がないからべたべたできない。

窓から真夏の風に揺れる
一枚の赤いタオル
どうして
と問いかける

 つくり出されたものではない「偶然」がある。「無意味」がある。「もの」がある。そこには「理由(どうして)」を拒む詩がある。




ぼくはみじかいけれど手紙を書いた―松木俊治詩集
松木俊治
ふたば工房
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