詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野村喜和夫『(芭(塔(把(波』

2013-09-26 09:08:40 | 詩集
野村喜和夫『(芭(塔(把(波』(左右社、08月30日発行)

 野村喜和夫『(芭(塔(把(波』は2013年の収穫のひとつである。読みはじめてすぐ、興奮がはじまる。岡井隆が「注解する者」の連載を「現代詩手帖」で読みはじめたときの興奮と同じ興奮がある。
 帯に「金子光晴と待ち合わせ」と書かれている。私は金子光晴の読者ではないのでよくわからないのだが、野村は金子光晴がいたことのあるマレー半島を旅しながら詩を書いている。ときどき金子光晴のことばが出てくる。(1)金子光晴を注解しながらマレー半島旅しているのか、(2)マレー半島を注解しながら金子光晴を旅しているのか、(3)あるいは野村喜和夫を金子光晴が旅するとしたらこんな具合になるのか。
 (3)は、私は金子の読者ではないのでわからないが、読む人が読めばそういう感じになるかもしれない。

 ことばというものは、知らない土地と同じで、どんなに知らないことばでも知っていることがある。もちろんその知っていることには「誤解」も含まれる。で、それが「誤解」であるにしろ、ひとは「知っている」と思っていることを手がかりにことばに近づいていく。知らない土地であっても、たとえば「ここは食堂だな、みんなが食べているこれは辛そうだがきっとうまいぞ」と思って、「あれください」と注文するようなものである。そこでは、何が起きても「肉体」で受け止めるしかないのだが、これがねえ、快感である。それは、ことばにおいても。
 このやってみるしかない、やればなんとかなる、という感じの「生命力」がとても気持ちがいい。野村は「よし、詩を書くぞ(よし、あれを食うぞ)」とことばを動かしていく。それを読んでいると「よし、詩を読んでやるぞ」という気持ちになる。気持ちに誘われる。こういう気持ちが起きるだけで、その詩集は傑作である。
 「意味」だとか「価値」なんていうのは、あとからどうとでもつけくわえることができる。でも、この「よし、読んでやるぞ」というわくわく感、どきどき感は、あとからはつけくわえられない。最初が勝負。そして、それで決まりなのだ。

 もう、これ以上書くこともないのだが、それでは無責任なような気もするので、少しだけ「注解」みたいなものを書いてみる。「注解」といっても、私の「注解」は作品に対する注解ではない。私自身の気持ちに対する注解である。

婆(塔(把(波
馬(塔(把(葉

なんだろうこの(誘うような(導くような
私たちの足音そのもののような

 これは詩集の書き出し。詩集のタイトルは『(芭(塔(把(波』だが、書き出しは、それに似ているが少し違っていて、で、どこが違うかというと……という指摘をするのは目の悪い私には面倒くさいので省略するが、ね、違うでしょうそして違いながら、そこに違いがあることによって、

なんだろうこの(誘うような(導くような

 という気持ちに直接ふれてしまう。
 もう、これが野村によって書かれたことばであることを私は忘れてしまう。私は私の「肉体」のなかにある「婆(塔(把(波/馬(塔(把(葉」という「ずれ」のようなものを見てしまう。野村がそのひとつひとつのことばに対してどう思うかではなく、私の感覚。私がおぼえていること、思い出せることに夢中になる。
 詩は、

波に塔が
捉えられて老婆のように歩むのか
葉から馬の首が出て塔のように伸びるのかそれとも
塔なんてない干上がったヘドロ
のような老婆の皮膚がつづいているだけ
なのか卒塔婆のそよぎ
外の場の盛り上がり

 とつづいていく。
 私の「肉体」のおぼえていることを探っていくと、この野村の書いていることと同じことを思い出すわけではない。むしろ、まったく違うことを私はおぼえていて、思い出すはずなのだけれど、読む先から、そのことばが私の「肉体」のなかに入ってきて、私をつくりかえてしまう。私の「肉体」は、野村の書いていることばのとおりに何かをおぼえていて、それを思い出すことができる。
 「この味、からいよね」と言った瞬間に、「うん、でも辛さの奥に甘味があって、それが辛さをつつむから、誘い込まれていくよ」と言いなおされ、自分の感覚がそのことばによって修正されていく感じ。他人の感覚が自分の感覚をつくってしまう感じ。(小学校の低学年とき、親友が「○○ちゃん、かわいい」と言った瞬間、その子がかわいく見えるようなもんだね。)人間の感覚なんて、自覚している以上に他人にひっぱられてしまう。自己主張できるのは、体験をたくさんしてからだ。
 で、あ、野村は私よりはるかに多くの金子光晴を読んでいて、金子光晴を体験している--ということが、もう、この瞬間にわかってしまう。そして、私「肉体」が金子光晴を読むために作り替えされていくのを感じるのだけれど。
 こういうとき、決めては、リズム、スピード。
 野村のことばには、その両方がある。歯切れがよくて、どんどん加速する。そのことばにふれていると、いや、そうじゃないだろうと反論しているひまはない。そこから落ちこぼれないように突っ走ってついていくしかない。疾走というのはつらいものだけれど、野村というペースメーカーがいるので、ぜんぜんつらくない。というより、そのペースメーカーがほんとうにすばらしいので、私は私の「肉体」がおぼえていること以上、思い出せること以上のものを味わいながら疾走する。私は金子の読者ではないから、おぼえていることも、思い出せることもないのだが、知っている気持ちになってしまう。完全なる「誤読」。これがねえ、気持ちがいい。

 次のページへ行くと、さらにそれが強くなる。

             新宿からリムジンバスに乗る(fragile という赤
いタッグが網棚の荷物から垂れて(揺れて(ぶらぶら(おかしい(いつだって
私たちはfragile だが旅に出るときはとくにそう感じる(ふらっ(蛇(いるな
おいおいそんな自分をどこまでfragile なまま進んでいけるかそうしてどこ
まで道なる道へ放り込んで(穂(織り(込んでいけるか

 ことばが脱線しながら、その脱線は閉じられることなく、逆にとじられないことで脱線ではなく本筋になるように、「肉体」の奥へ入り込んでいく。fragile という外国語さえ、外国語としてつかみとられるのではなく(理解されるのではなく)、日本語まじりで「肉体」の奥からつかみなおされる。そう、それは「脱線」ではなく、「肉体の奥(いのちの根源)」から、ことばを捨てて「現実」をつかみなおす方法なのだ。
 外国語だけではない。「放り込む」という日本語さえ、「穂/織り/込む」という「ことばの肉体」とセックスして、かってにエクスタシーを味わってしまう。おいおい、先にゆくなよ、セックスっていっしょにゆくもんだろう--なんていうのは、バカなマッチョ思想。相手をいかせてこそセックスの醍醐味なんて、嘘八百のマッチョ思想。先にいってしまった方が勝ち。ついてこれないのはへたくそ、というのが、きっとジェンダーフリーのセックスだな。
 だって、ほら、
 というと野村に叱られるかもしれないけれど、野村がこんなふうに必死になってことばのセックスで金子を追いかけてみたって、金子は先にマレー半島にいってしまっている。そこには金子のことばが射精したあとの精液のようにべたべたとこぼれている。野村は、それに対して、これはあのときの、あの相手とのセックス--なんて注釈してみても、羨望と未練があふれてくるばっかり。
 さて、どうやって競争するか。早い者勝ちのセックスに立ち向かうか。わくわくするなあ。
 ねえ、野村さん、この詩集、私の名前で出していい? なんて言いたくなってしまうなあ。「あ、そんなことしたら盗作だよ」。いいじゃない、倒錯こそが真実をつかみとるための方法なんだから。倒錯は、もうそれだけでエクスタシーなんだから。

 なんだかわからない? あ、わからなくていいんです。私は楽しいんだから、この文書を読んでいるひとのことなんか気にしていられない。きっと野村だって、この詩を書いているときは、読者なんか気にしていない。と、思う。

芭(塔(把(波
野村 喜和夫
左右社
コメント
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