北川透「ハルハリ島 変幻」(「KYO 峡」3、2014年03月01日発行)
詩は「誤読」によって成り立つ--と私は我田引水的に考えているが、それはどういうことかというと。北川透「ハルハリ島 変幻」の「** 疾風」。
どのことば、どの行に惹きつけられますか?
私が傍線を引いたのは「わたしの心臓の上のハルハリ島は破裂するだろう」。この1行を読んだとき、私の感覚(肉体?)のなかで変なことが起きた。「わたしの心臓が破裂する」という具合に、1行が短縮してしまった。「ハルハリ島が破裂する」と明確に書いてあるけれど、そしてそれをちゃんと読んでいるのだけれど。
なぜなのだろう。
ひとつは、「島が破裂する」という言い回しよりも、「心臓が破裂する」という言い回しの方が私にはなじみがあって、わかりやすいということがある。わからないことは、わからない。わからないことは、自分のわかるように考えてしまうという癖を私の脳味噌はもっている。
でも、それだけではない。
「わたしの心臓の上の」という表現--これを次の「ハルハリ島」に結びつけるとき、私の脳は実にいいかげんなことをするのである。
「心臓の上の」って、どういうこと?
たとえば手術台の上に寝そべっていて、胸が開かれていて、心臓が動いている。その上に浮かんでいる島? 心臓の上にある島? イメージだから、適当でいいのだが、そういうことかなあ。でも、島ってそんなに小さい? まあ、これもイメージ、比喩なのだから、そういうものを勝手に想像すればいいのだろうけれど。
問題は、「心臓の上の」を私は、
という具合に北川の書いたことばに動詞「浮かぶ」「浮かんでいる」「ある」を補ってイメージをつくっている。「動詞」を仲介して、私は北川の書いたことをつかみなおしている。あるいは、別なものへとでっちあげている。
私は何かを理解する(理解したと誤解する)とき、「動詞」を補っている--「動詞」のなかで私を動かしている。「肉体」を動かして、そこに「現実」を感じようとしている。北川のことばと関係があるのは北川の肉体であって私の肉体ではない。それなのに、私はその北川の肉体の動きを私の肉体でなぞるようにして、あ、このことばはこんな動詞といっしょに動いているんだなと思いながら、そこに書かれていることを「錯覚する」。
で、何かが「ある」とき、それは単独で「ある」のではない。この詩では「わたしの心臓の上の」ということばによって、その「ある」が「心臓」といっしょに「ある」ことがわかる。心臓がなければ、ハルハリ島もない。心臓とハルハリ島は「一体」になっている。そして、その「一体」を生み出すのが「ある」という動詞。
書かれていない「ある」ということばが、この詩を成り立たせている力(思想)だと私は思う。「ある」というのは、何かを認める、何かが存在するということを認識することでもある。ことばで何かを認識し、それを「存在させる」ことで、詩は成立する。ことばにするまでは存在しなかったものを、ことばで「ある」と断定するとき、詩は成立する。北川は「ある」ということばを省略しながら、「ある」を書いている。何かを存在させる(生み出す)運動をしている。
あ、脱線してしまう。ことばが、暴走してしまう。
詩にもどる。
「ある」という動詞(書かれていないけれど、それが書かれていると私は感じる)のなかで「心臓」と「ハルハリ島」という二つのものが「ひとつ」になる。一体になる。
で、その「一体」になったものにある力が動詞として加われば、は「ひとつ」になる前のものも同じように影響を受ける。島が破裂するなら、「ひとつ」になった「心臓」も破裂する。
あ、しかしこれもかなり強引なことを書いているなあ。
だいたいそういうようなことを私は感じるのだけれど、ちょっと強引すぎて、嘘を書いている。「意味」をでっちあげようとしているなあ--と自分で反省してしまう。
「動詞」と「肉体」--そこから私は何か「誤解」をはじめるのだけれど。
それを、傍線を引いた1行にこだわるのではなくて、詩の全体にもどって読み直してみる。
この詩に何が書いてある。私がわかるのはどのことばか。
「翻弄される」「届かない」「怯える」「破裂する」--こういうことばが「わかる」。「私は翻弄される」「私の手が届かない」「私が怯える」「私が破裂する」。「私が破裂する」は「比喩」になってしまうが、そのほかの「動詞」は「肉体」の動きとして理解できる。「巻き起こる」「舞っている」「詰まった」「襲う」「憧れる」「穢す」「歩いている」についても、「私」を「主語」にして、何らかの文章をつくることができる。(「巻き起こる」は「巻き起こす」という形をとるかもしれないし、「怒りが巻き起こる」という具合に変形するかもしれないが……)
実際、私は詩を読んでいて、そういう「動詞」を手がかりに、「動詞」のなかで私の「肉体」を動かしながら何かをつかみ取ろうとしているのだが。
これって、実は、とても変。
そこに書かれている動詞の「主語」は「私」ではない。「北川」でもない。「ハルハリ島」であったり「ことば」であったり「差別や蔑視」であったり「長い藻」であったりする。「主語」が違うのに、その違いを無視して(?)、私は「動詞」を私の「肉体」と重ねて、そこで起きている「こと」を理解しようとしている。
それは、たぶん北川が書こうとしている「こと」を理解しようとすることにつながっている。
こういうことはすべて「誤解」であり、「誤読」というのものなのだが、私はそんなふうに「誤解」「誤読」を誘う「肉体」が「思想」なのだと感じているのである。「翻弄する」「届かない」「差別(する)、蔑視(する)」「叫ぶ」「怯える」--そういう「動詞」が集まってきて、ひとつの「世界」になる--「世界」をそういう「動詞」なのかでとらえなおしていく、そのときの「肉体」の動きそのもののなかに「思想」があると感じているのである。
で、ときには、
というような「動詞」を含まないことばに自分勝手に「動詞」を補って、自分の「誤読」を暴走させる。そのとき暴走するのは私の勝手(私の間違い)なのだが、その暴走を北川によって誘われたと感じ、私は北川のことばが好きになるのである。私は私の勝手で暴走したのじゃない、北川が誘ったから暴走してしまった--と責任を転嫁する形で、北川の詩が好き、というのである。
これってまるで、「私がふしだらなのではない。誘われて快楽におぼれてしまった。悪いのは私ではない」という恋愛の告白みたいでしょ? だから、私は詩を読むことはセックスをすることだと言う。そこに書かれている「動詞」と自分の「肉体」を交わらせ、快感に酔ったり、それは絶対にいやと拒絶したり。そういう「肉体」の関係のなかに、人間の「ほんとう(思想)」感じる。
詩は「誤読」によって成り立つ--と私は我田引水的に考えているが、それはどういうことかというと。北川透「ハルハリ島 変幻」の「** 疾風」。
思想の寒冷前線によって
巻き起こる二つの疾風に 翻弄されるハルハリ島
冷たい夜の手の影で舞っている
ことばの先端が どうしても届かないハルハリ島
差別や蔑視の詰まった ハルハリ島の岩場で
遠い叫びに怯えている 長い藻たち
もしいま鋭い鷲の爪に襲われようものなら
わたしの心臓の上のハルハリ島は破裂するだろう
わたしは純粋に憧れる波動を
穢すために きみのハルハリ島を歩いている
どのことば、どの行に惹きつけられますか?
私が傍線を引いたのは「わたしの心臓の上のハルハリ島は破裂するだろう」。この1行を読んだとき、私の感覚(肉体?)のなかで変なことが起きた。「わたしの心臓が破裂する」という具合に、1行が短縮してしまった。「ハルハリ島が破裂する」と明確に書いてあるけれど、そしてそれをちゃんと読んでいるのだけれど。
なぜなのだろう。
ひとつは、「島が破裂する」という言い回しよりも、「心臓が破裂する」という言い回しの方が私にはなじみがあって、わかりやすいということがある。わからないことは、わからない。わからないことは、自分のわかるように考えてしまうという癖を私の脳味噌はもっている。
でも、それだけではない。
「わたしの心臓の上の」という表現--これを次の「ハルハリ島」に結びつけるとき、私の脳は実にいいかげんなことをするのである。
「心臓の上の」って、どういうこと?
たとえば手術台の上に寝そべっていて、胸が開かれていて、心臓が動いている。その上に浮かんでいる島? 心臓の上にある島? イメージだから、適当でいいのだが、そういうことかなあ。でも、島ってそんなに小さい? まあ、これもイメージ、比喩なのだから、そういうものを勝手に想像すればいいのだろうけれど。
問題は、「心臓の上の」を私は、
心臓の上に浮かんでいる
心臓の上にある
という具合に北川の書いたことばに動詞「浮かぶ」「浮かんでいる」「ある」を補ってイメージをつくっている。「動詞」を仲介して、私は北川の書いたことをつかみなおしている。あるいは、別なものへとでっちあげている。
私は何かを理解する(理解したと誤解する)とき、「動詞」を補っている--「動詞」のなかで私を動かしている。「肉体」を動かして、そこに「現実」を感じようとしている。北川のことばと関係があるのは北川の肉体であって私の肉体ではない。それなのに、私はその北川の肉体の動きを私の肉体でなぞるようにして、あ、このことばはこんな動詞といっしょに動いているんだなと思いながら、そこに書かれていることを「錯覚する」。
で、何かが「ある」とき、それは単独で「ある」のではない。この詩では「わたしの心臓の上の」ということばによって、その「ある」が「心臓」といっしょに「ある」ことがわかる。心臓がなければ、ハルハリ島もない。心臓とハルハリ島は「一体」になっている。そして、その「一体」を生み出すのが「ある」という動詞。
書かれていない「ある」ということばが、この詩を成り立たせている力(思想)だと私は思う。「ある」というのは、何かを認める、何かが存在するということを認識することでもある。ことばで何かを認識し、それを「存在させる」ことで、詩は成立する。ことばにするまでは存在しなかったものを、ことばで「ある」と断定するとき、詩は成立する。北川は「ある」ということばを省略しながら、「ある」を書いている。何かを存在させる(生み出す)運動をしている。
あ、脱線してしまう。ことばが、暴走してしまう。
詩にもどる。
「ある」という動詞(書かれていないけれど、それが書かれていると私は感じる)のなかで「心臓」と「ハルハリ島」という二つのものが「ひとつ」になる。一体になる。
で、その「一体」になったものにある力が動詞として加われば、は「ひとつ」になる前のものも同じように影響を受ける。島が破裂するなら、「ひとつ」になった「心臓」も破裂する。
あ、しかしこれもかなり強引なことを書いているなあ。
だいたいそういうようなことを私は感じるのだけれど、ちょっと強引すぎて、嘘を書いている。「意味」をでっちあげようとしているなあ--と自分で反省してしまう。
「動詞」と「肉体」--そこから私は何か「誤解」をはじめるのだけれど。
それを、傍線を引いた1行にこだわるのではなくて、詩の全体にもどって読み直してみる。
この詩に何が書いてある。私がわかるのはどのことばか。
「翻弄される」「届かない」「怯える」「破裂する」--こういうことばが「わかる」。「私は翻弄される」「私の手が届かない」「私が怯える」「私が破裂する」。「私が破裂する」は「比喩」になってしまうが、そのほかの「動詞」は「肉体」の動きとして理解できる。「巻き起こる」「舞っている」「詰まった」「襲う」「憧れる」「穢す」「歩いている」についても、「私」を「主語」にして、何らかの文章をつくることができる。(「巻き起こる」は「巻き起こす」という形をとるかもしれないし、「怒りが巻き起こる」という具合に変形するかもしれないが……)
実際、私は詩を読んでいて、そういう「動詞」を手がかりに、「動詞」のなかで私の「肉体」を動かしながら何かをつかみ取ろうとしているのだが。
これって、実は、とても変。
そこに書かれている動詞の「主語」は「私」ではない。「北川」でもない。「ハルハリ島」であったり「ことば」であったり「差別や蔑視」であったり「長い藻」であったりする。「主語」が違うのに、その違いを無視して(?)、私は「動詞」を私の「肉体」と重ねて、そこで起きている「こと」を理解しようとしている。
それは、たぶん北川が書こうとしている「こと」を理解しようとすることにつながっている。
こういうことはすべて「誤解」であり、「誤読」というのものなのだが、私はそんなふうに「誤解」「誤読」を誘う「肉体」が「思想」なのだと感じているのである。「翻弄する」「届かない」「差別(する)、蔑視(する)」「叫ぶ」「怯える」--そういう「動詞」が集まってきて、ひとつの「世界」になる--「世界」をそういう「動詞」なのかでとらえなおしていく、そのときの「肉体」の動きそのもののなかに「思想」があると感じているのである。
で、ときには、
わたしの心臓の上の
というような「動詞」を含まないことばに自分勝手に「動詞」を補って、自分の「誤読」を暴走させる。そのとき暴走するのは私の勝手(私の間違い)なのだが、その暴走を北川によって誘われたと感じ、私は北川のことばが好きになるのである。私は私の勝手で暴走したのじゃない、北川が誘ったから暴走してしまった--と責任を転嫁する形で、北川の詩が好き、というのである。
これってまるで、「私がふしだらなのではない。誘われて快楽におぼれてしまった。悪いのは私ではない」という恋愛の告白みたいでしょ? だから、私は詩を読むことはセックスをすることだと言う。そこに書かれている「動詞」と自分の「肉体」を交わらせ、快感に酔ったり、それは絶対にいやと拒絶したり。そういう「肉体」の関係のなかに、人間の「ほんとう(思想)」感じる。
続・北川透詩集 (現代詩文庫) | |
北川 透 | |
思潮社 |