詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

スティーブ・マックイーン監督「それでも夜は明ける」(★★★)

2014-03-11 10:32:46 | 映画
監督 スティーブ・マックイーン 出演 キウェテル・イジョフォー、マイケル・ファスベンダー、ベネディクト・カンバーバッチ


 アカデミー賞作品賞の話題作なのだが、私は、のめりこむほどは感心しなかった。タイトルが気に食わないせいでもある。私は、映画のストーリーはわかっていても、それを楽しめる。ミステリーの「犯人」(謎解き)を聞かされていても、そういうこととは関係なしに映画がおもしろいと感じる。けれども、そういう「事実」ではなく、「意味」を強要してくるものは嫌いなのだ。どんなにつらくても、いつかは幸せがやってくる。そういう「論理」が嫌いなのだ。原題のまま「奴隷の12年」なら、印象ははるかに違ってくる。だいたい、この映画の結末はほんとうに「夜が明けた」のか。とても、そういうふうには思えない。主人公はたしかに奴隷から解放された。でも彼一人が解放されることが「夜明け」なのか。彼を拉致した人間が無罪のままで、「夜が明けた」と言えるのか。「夜は明けていない」、歴史は終わっていないというメッセージが映画の最後で、間接的に語られるだけに、このタイトルはひどい、酷い、と思った。映画を裏切っているとも。
 日本語のタイトルを捨ててしまって、映画を思い返すと、いくつか好きなシーンもある。ひとつは川を上る船、その船が残す波。それは主人公にははっきり見えるが、あっという間にほかの水とまじりあって消えていく。--その消えていくはずの波を、この映画はかなり真剣に(?)スクリーンに描き出す。この水のあと、船の軌跡が残りつづけるなら、それは拉致の証拠になるはずだ、とでも語っているように見える。うーん、と私は唸ってしまった。
 もうひとつは主人公が誘拐されたあと見る南部の夕焼け。それは北部(ワシントン)の色とはまったく違う。(私は、ワシントンは知らないのだが、映画でよく見るニューヨークやワシントンの空とは色が違う。)色彩が熱を残したまま空にただよっている。地上の木々のつくりだす影も、深くて、広がりがある。北部の影が鋭角的なのに対し、南部の影は鈍角という印象がある。その夕暮れは、かなり不気味である。(南部の人にはなつかしい色だろうけれど。)その、はじめて見る色に驚く主人公の不安が、そのままただよっている感じがする。
 人が(主人公をとりまく白人たちが)どういう人間なのか、主人公にはよくわからないが、この川や空や空気--そういう自然そのものが北部と違っていることがわかる。主人公にも、それがわかっている、ということを教えてくれる映像である。彼がそこでする仕事、木を切り倒したり綿を摘んだりという仕事も、北部で彼がしてきた仕事とは違うが、ときどきバイオリンを弾かされるので、主人公の「肉体」の内部では、まだ北部がつづいていることになる。(後半、バイオリンを叩き壊したとき、彼の「肉体=思想」は北部と切断し、孤立した人間になる。)
 この「肉体」の内部にのこる「北部」のために、主人公は苦労する。自分の知っていること、自分の知識で、労働をかえていくことは北部では歓迎されたのだが、南部では白人の反感を買う。白人が思いつかなかった「知恵」ゆえに、逆に、反発を買ってしまう。どこかで「人間性」を信じてしまう弱さ(?)が主人公にはある。白人が、この状況をつくりだしている、白人は敵だという感覚が主人公には希薄なのである。怒りが濃厚にならない。
 主人公に、自然を見て感じた驚愕(それがスクリーンの夕焼けや木々からつたわってくる)と同じものが、南部の白人に対しても直感できたなら、主人公の生き方はずいぶん違ったものになったと思う。--というのは、まあ、映画とは関係ないのかな?

 その主人公も、しだいに変化していく。綿摘みの途中で老人が倒れ、死んでしまう。その埋葬をしながら歌を歌う。その歌の合唱に主人公がのみこまれていくところは、彼の変化のハイライトなのだけれど--これは、私には「頭」では、あ、ここがハイライトだと理解できても、どうも納得できないものが残る。たぶん、12年間の繰り返される労働の、その繰り返しの「重さ」が夕焼けや川の波ほどにはつたわって来ないからである。合唱しながらも、彼は合唱しているのではなく、ひとり神と向き合うようにして声を張り上げていることは、彼の声だけがくっくりと浮かび上がるところからわかるのだけれど、12年間という感じが、どこかで抜け落ちる。これは私の感じ方が間違っているのかもしれないけれど……。

 と、書いたことと、うまくつながるのかどうかわからないが。
 ラストの、主人公が家に帰り着いてからの、家族との対面はいいシーンだと思った。そこでは主人公は、家族に対して「すまなかった」と謝罪する。この謝罪は、とても理不尽な謝罪なのだが、それまでの主人公の生き方と何かぴったり合うものがある。自分の置かれた状況、それを自分ひとりで打開できない苦悩と何かが通い合う。
 例えにするには適切ではないかもしれないけれど、同じような声の響きを私は三年前に聞いた。東日本大震災。そのとき、被災者の多くが「ありがとう」ということばを発した。救助、支援にきてくれたひとたちに「ありがとう」という。その声を思い出した。なぜ、ありがとうなのだろう。もっと救助を、もっと支援を、私たちはこんなに困っていると怒るのではなく、「ありがとう」と言い続けた被災者。それは、もしかすると、自分自身にも言い聞かせていることばなのかもしれない。無事に生き延びてくれてありがとう。そう自分自身に感謝していることを、被災者ではない他人に告げたいのかもしれない。同じ被災者に対しては、なかなか言えないことば。あ、ほんとうに生きている、生きている私よ、ありがとう……。
 そんな感じがどこからか聞こえる。いままで逃げ出して来なくてすまなかった、と自分自身にあやまっている。ここに、こんなしあわせがあるのに、それをつかむために十二年間もかかった、もうしわけなかった、と自分に言っているように思えた。
 そして、そう思ったとき、この映画をアフリカ系の監督がつくらなければならなかった理由もわかったような気がした。
 他人をではなく、自分を救いだすために何をしたか。何ができるか。
 いま、奴隷制度はないように見える。(別な形で進行しているかもしれない。)だが、ほんとうに、存在しないのか。差別をなくす闘いはほんとうに終わったといえるのか。「すまない」といった人と、どう連帯できるのか。そういう人と連帯しないかぎり、監督は自分自身を救いだせないと感じているのだろうと思った。いままで、この映画をつくらずにすまなかった、と監督が監督に言っているようにも聞こえた。
 いや、監督は謝罪する必要はない。監督がこの映画をつくることで、私たちは奴隷制度の問題がまだ解決していないことを知ることができた。私たちは感謝しなければいけない。主人公の家族が「帰って来てくれて、よかった」(ありがとう)という感じで主人公を迎え入れたのと同じように……。
 この映画のラストには、そういう不思議な融合がある。
 とてもいいシーンだ。

 と、書きながら、私は黒星を3個のままにしておく。タイトルがほんとうに気に入らない。私は奇妙な希望と抒情が入り交じったようなものに「嘘」を感じてしまう。
                        (2014年03月09日、天神東宝1)



それでも夜は明ける(マイケル・ファスベンダー出演) [DVD]
クリエーター情報なし
メーカー情報なし
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする