詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(9)

2014-03-31 23:59:59 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(9)          2014年03月31日(月曜日)

 「大いなる拒絶をなせし者……」とは法王を辞したる者のことであり、

言わねばならぬ日がいつかは来る、
大いなる肯定さもなくば大いなる拒絶を。

 と、はじまるが「注釈」に中井久夫はかなり珍しいことを書いている。

原文の第一行の「一部の者には(決断を迫られる時が来る)」をどうしても入れることができなかった。

 「法王」に選ばれるひと(あるいは資格のあるひと)はごくわずか。「一部の者」である。その「一部の者」を中井は訳詩のなかで省略した。なぜだろう。日本語の場合、主語はしばしば省略される。主語が「無意識」のまま共有される。もちろんこれは、共有する者がいる(共有される場がある」ということが前提なのだが。
 主語が省略されることで、主語が限定されない。法王のかわりに「私」を組み込むことができる。この場合「私」とは一般名詞である。省略される「私」は省略されることで「硬い枠」をなくして、だれの「無意識(本能)」にも溶け込むようにして、もぐりこむ。そして、そこで展開する「動詞」は「私の動詞(肉体)」として動く。主語が「法王」ではないために、また、そこで書かれている他の動詞が「私」を「法王」にしてしまう。読者の気持ちが「法王」をめざす人間の気持ちになって動く。もちろん「一部の者」とは「私」とは別人なのだから、それがあっても作品のなかの「私」と読者の「私」は重なるのだけれど、重なり方が少し違う。「一部の者」があると、まずその「一部の者」を想像してしまう。その一瞬の想像力の動きが、作品の「私」と読者の「私」の間にすきまをつくる。すぐに法王に指名されそうになった「私」に集中できない。
 中井久夫の訳を読むと、ときどきこういう「読者をその気にさせる」ことばに出合う。詩を読んでいるというよりも、ドラマを見ている、ドラマを見ながらその登場人物になる感覚と言えばいいだろうか。
 そこで何かが起きて、そのことに対して、登場人物のこころが動く。そのこころの動きにそって読者が詩の世界へ入っていく感じだ。だから、そのあとにつづく世界もドラマが主体になる。まず、起きていることを明確にし、そのことを中心に動くこころは読者に想像させる。これは、またカヴァフィス自身の方法である。

拒絶者は悔いぬ。もう一度聞かれても
「拒絶」というはずだ。拒絶こそ正解。
だが、この拒絶は下にひきずりおろしつづける、その者を、一生涯。

 一生涯、下にひきずり下ろされた人間がどう思うか、それは書かない。その書かれていないことを、読者は「私」の問題として向き合うことになる。
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川田絢音「燕」

2014-03-31 09:43:11 | 詩(雑誌・同人誌)
川田絢音「燕」(「現代詩手帖」2014年04月号)

 きのう読んだ林芙美子の詩に何か似ている。書いていることが視力以外のものでとらえられている。視力以外のものなのだけれど、視覚化されている。

黒と白の怖い縞が見え
鉄格子のくらやみに
きみが燕になってもどっている

 牢獄(?)に閉じ込められている。明かり取りの窓には鉄格子。その光というのか、影というのか、縞模様が壁に描き出される。そのほかの部分は「くらやみ」、といってもぼんやりした明るさはあるだろう。そこへ「燕」がもどってくる。
 これは実際に牢獄のなかへ燕がやってきたということではないだろう。空に燕が飛ぶ季節になった。そして燕を鉄格子越しに見た、ということなのだろう。
 でも。
 私は壁に映った鉄格子の縞のシルエット、白い光の小さな空のなかに燕の影が横切って映る--という形で風景をとらえた。その影は光の白い部分からはみだすと(広い空を飛ぶと)どうしても、牢獄の闇のなかを飛んでしまうことになる。その白い光の形の宙を横切る影、闇のなかへと飛んでいく影を見ながら、牢獄のなかの人物は外の世界を、視力ではなく、想像力で見る。視力だけで見える外の世界は小さな空だけだが、想像力でならほかのものも見える。

泥で描かれた子供たちの絵は
声もなく待つものもない
剥きだしの眼になって雲は絶えている

 「泥で描かれた」絵は、どこにあるか。おそらく牢獄の外の壁に描かれている。それは牢獄のなかからは見えない。牢獄に入る前にそれを見てきたのか。そうではなくて、想像力で牢獄のなかの人物はそれを見ている。壁に、泥で絵を描いてしまう子供たち。それはいつの時代にも、どこの国にもいる。牢獄のなかのひとは、絵を描くことを見ているのかもしれない。想像力のなかで、子供に還っているのかもしれない。
 雲は、遠いところで、壁に絵を描く子供たち、牢獄のなかにいる人を見ている。見ては、通りすぎる。「剥きだしの眼になって雲は絶えている」という一行は、川田がどういうイメージを想像して動かしたことばなのかわからないのだけれど、私には雲のない空に目が剥き出しの状態で浮かんでいるものが思い浮かぶ。その目は当然、牢獄ものぞく。--そうであるなら(と書くと、少し論理のたがをはずすことになるが……)、その雲は牢獄にいる人を眺めるのだから、その目は、もしかすると牢獄のなかにいるひとの現実の目、肉眼になるかもしれない。想像力が肉眼を雲のない空の高みにまで運んでしまう。その高みから、牢獄のなかをのぞく。牢獄のなかにいる男をのぞく。(男、と私は思わず書いてしまったが、女かもしれない。)
 そして、この「のぞく-のぞかれる」という関係が成立するとき、牢獄の内と外という関係も消えてしまう。想像力のなかでは、ふたつの世界を隔てるための「壁」がない。そして「壁」というものがなくなると、そこに「時間」だけが浮かび上がってくる。

川は流れ
戦争の匂いは消えても
もう遊べなかった

幼い胸に毒が刺さって
帰るところではないのに
テレジーンで
眼を伏せて小さな燕

 あるいは、と突然書いてしまうが。
 1連目の「きみが燕になって戻っている」は、詩を書いている川田(私)という存在かもしれない。私(川田)が牢獄のなかにいるひとにかわって、詩を書いている。そこでは、川田は「きみ」になる。
 この主客の交代(融合?)は、現実の壁(牢獄)と外の世界の交代(融合/いれかわり)、現実と想像力の世界の交代(融合)にも通じる。
 そして、そこに「期限」のない「時間」が浮かび上がる。戦争のために投獄された。戦争が終わって釈放されても、それは「自由」とは少し違った。失われた「時間」が、どうしても「いま」のなかへあらわれてきてしまう。
 その「時間」に困惑している「燕(私=川田)」の姿が見える。


川田絢音詩集 (現代詩文庫)
川田 絢音
思潮社
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