中井久夫訳カヴァフィスを読む(9) 2014年03月31日(月曜日)
「大いなる拒絶をなせし者……」とは法王を辞したる者のことであり、
と、はじまるが「注釈」に中井久夫はかなり珍しいことを書いている。
「法王」に選ばれるひと(あるいは資格のあるひと)はごくわずか。「一部の者」である。その「一部の者」を中井は訳詩のなかで省略した。なぜだろう。日本語の場合、主語はしばしば省略される。主語が「無意識」のまま共有される。もちろんこれは、共有する者がいる(共有される場がある」ということが前提なのだが。
主語が省略されることで、主語が限定されない。法王のかわりに「私」を組み込むことができる。この場合「私」とは一般名詞である。省略される「私」は省略されることで「硬い枠」をなくして、だれの「無意識(本能)」にも溶け込むようにして、もぐりこむ。そして、そこで展開する「動詞」は「私の動詞(肉体)」として動く。主語が「法王」ではないために、また、そこで書かれている他の動詞が「私」を「法王」にしてしまう。読者の気持ちが「法王」をめざす人間の気持ちになって動く。もちろん「一部の者」とは「私」とは別人なのだから、それがあっても作品のなかの「私」と読者の「私」は重なるのだけれど、重なり方が少し違う。「一部の者」があると、まずその「一部の者」を想像してしまう。その一瞬の想像力の動きが、作品の「私」と読者の「私」の間にすきまをつくる。すぐに法王に指名されそうになった「私」に集中できない。
中井久夫の訳を読むと、ときどきこういう「読者をその気にさせる」ことばに出合う。詩を読んでいるというよりも、ドラマを見ている、ドラマを見ながらその登場人物になる感覚と言えばいいだろうか。
そこで何かが起きて、そのことに対して、登場人物のこころが動く。そのこころの動きにそって読者が詩の世界へ入っていく感じだ。だから、そのあとにつづく世界もドラマが主体になる。まず、起きていることを明確にし、そのことを中心に動くこころは読者に想像させる。これは、またカヴァフィス自身の方法である。
一生涯、下にひきずり下ろされた人間がどう思うか、それは書かない。その書かれていないことを、読者は「私」の問題として向き合うことになる。
「大いなる拒絶をなせし者……」とは法王を辞したる者のことであり、
言わねばならぬ日がいつかは来る、
大いなる肯定さもなくば大いなる拒絶を。
と、はじまるが「注釈」に中井久夫はかなり珍しいことを書いている。
原文の第一行の「一部の者には(決断を迫られる時が来る)」をどうしても入れることができなかった。
「法王」に選ばれるひと(あるいは資格のあるひと)はごくわずか。「一部の者」である。その「一部の者」を中井は訳詩のなかで省略した。なぜだろう。日本語の場合、主語はしばしば省略される。主語が「無意識」のまま共有される。もちろんこれは、共有する者がいる(共有される場がある」ということが前提なのだが。
主語が省略されることで、主語が限定されない。法王のかわりに「私」を組み込むことができる。この場合「私」とは一般名詞である。省略される「私」は省略されることで「硬い枠」をなくして、だれの「無意識(本能)」にも溶け込むようにして、もぐりこむ。そして、そこで展開する「動詞」は「私の動詞(肉体)」として動く。主語が「法王」ではないために、また、そこで書かれている他の動詞が「私」を「法王」にしてしまう。読者の気持ちが「法王」をめざす人間の気持ちになって動く。もちろん「一部の者」とは「私」とは別人なのだから、それがあっても作品のなかの「私」と読者の「私」は重なるのだけれど、重なり方が少し違う。「一部の者」があると、まずその「一部の者」を想像してしまう。その一瞬の想像力の動きが、作品の「私」と読者の「私」の間にすきまをつくる。すぐに法王に指名されそうになった「私」に集中できない。
中井久夫の訳を読むと、ときどきこういう「読者をその気にさせる」ことばに出合う。詩を読んでいるというよりも、ドラマを見ている、ドラマを見ながらその登場人物になる感覚と言えばいいだろうか。
そこで何かが起きて、そのことに対して、登場人物のこころが動く。そのこころの動きにそって読者が詩の世界へ入っていく感じだ。だから、そのあとにつづく世界もドラマが主体になる。まず、起きていることを明確にし、そのことを中心に動くこころは読者に想像させる。これは、またカヴァフィス自身の方法である。
拒絶者は悔いぬ。もう一度聞かれても
「拒絶」というはずだ。拒絶こそ正解。
だが、この拒絶は下にひきずりおろしつづける、その者を、一生涯。
一生涯、下にひきずり下ろされた人間がどう思うか、それは書かない。その書かれていないことを、読者は「私」の問題として向き合うことになる。