詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

千人のオフィーリア(181-200)

2014-03-09 12:06:22 | 連詩「千人のオフィーリア」

千人のオフィーリア(181-)

181 金子忠政
空だ、が、
奥までコトバが入らない
床上35.6㎝の椅子に座る
猫背の土竜が
両腕で音符を宙に放り投げてはつかみ取り
からだをピアノにしていく
彼のように一角を削り取って三角にしようと、
携帯からぶつぶつとぎれとぎれに朗読してみた
〈 面影が忽然と出て来て、高島田の下へすぽりとはまった。
衣装も髪も馬も桜も一瞬間に心の道具立から奇麗に立ち退いたが、
オフィーリアの合掌して水の上を流れて行く姿だけは、
朦朧と胸の底に残って、
棕梠箒で煙を払うようにさっぱりしなかった。
空に尾を曳く彗星の何となく妙な気になる。
「ふゆづけばわかめが上に張る霜の、けぬべくもわは、おもほゆるかも」
淵川へ身を投げた乙女の墓を心のうちに是非見て行こうと決心した。〉

182 山下晴代
ハムレット おフィ。俺と此ッ切(これっきり)別れるんだ。
オフィーリア えゝ。
ハムレット 思い切つて別れてくれ。
オフィーリア ハムさん。切れるの別れるのッて、そんな事は、藝者の時に云ふものよ。……私にゃ死ねと云つて下さい。おフィにはテムズ川へ飛び込め、とおつしやいましな。

  空蝉の島田姿の川をゆく倫敦塔の女より悲し

                                         183 瀬谷 蛉
岸に起つ

母娘も哀し

櫻川

ネオンに匂う

けそう抱きつ



                                 184 市堀玉宗
朝寝より目覚めてみれば後悔の先立ちてゆくわがハムレット

                                  185 谷内修三
川が鏡なのか
街が鏡なのか
夕暮れのなか
ことばが迷う

さようならか
またあしたか
別れるまぎわ
ことばは黙る

何もいらない
すこし離れる
きみと私の間
音のない音楽

                                     186 山下晴代
世の名残いなはじまりと死ににゆく仇しが原のベアトリーチェよ

                                      187 橋本正秀
鏡文字を書くベアトリーチェ

「春の夜には猫の声が実によく似合う」
「なんだこんななんだこんな」
「にゃんだこんにゃにゃんだこんにゃ」

沈みきった街を
三日月にぶら下がり
蹴上がりした男が
ナイトスコープに充血した眼を押し当てて
ベアトリーチェを探し回る。
遠くのクラウンピエロの仕草のような
無言のジェスターにジョーカー。

今や、
幻の椅子にゆったりと座り
幻のスクリーンで曽根崎心中を
幻のサラウンドスピーカーの奏でる
太夫(たゆう)と太棹の幻の義太夫に
耳を傾ける。

街では、以前の私に懸想する
血走った目の私が
ひと日をひと夜に
宵っ張りの影を
丈六の大仏さながら
引き摺って歩く

幻の足跡から跫音からは
オフィーリアの再生賛歌が
風に乗って静かに幻のごとく
広がっていく気配が……。

「未来成仏うたがひなき恋の手本となりにけり」(曽根崎心中)

                                       188 市堀玉宗
人の世に人は疲れて鳥雲に

                                    189 小田千代子
うずくまる虫にも届くせせらぎの春の調べのなんと懐かし

                                      190 小田千代子
箸あらう女にあたる幻月の蒼き光は胸しぼるだけ

                                       191 山下晴代
 おもしろやことしのはるもオフィーリア

                                       192 橋本正秀
愛の光が足りないので、
梅が香漂う窓辺で、
うずくまるように、
うたた寝をしているオフィーリア。
愛に飢えた彼女を
春が奏でる調べが包み込んでいく。
下手くそなウグイスのさえずりも、
突如わき起こる
猫の真剣な嘘泣きの鳴き声も、
木の葉が軋みあう悲鳴も、
土を梳ることがないあのせせらぎも、
平準化された平穏な調べとなって、
折からの風に乗って流れてゆく。
春の日の一刻。

オフィーリアを慈愛に満ちた幻の光で照射する、
騙り部たち。
馬手には月と二つの幻月が
うす青い光を、
弓手には日と二つの幻日が
赤黒い光を、
鈍い空に宙吊りにしている。
妖しき面白い、
春の朝の一刻。

                                     193  市堀玉宗
私は私の孤独が恨めしい
世界と一つであった筈なのに
何かを捨てろと神様が云った

だから時々
嘘を吐くことを覚えた

正直であることに少し疲れ
月の港に錨を下ろすのもいい
人生は余りにも遠い謎に満ちた港のようだから
愛はいつも魂の雫のように私を濡らした

真実の生き方があると思う
でも、そうじゃない
生きることが真実だった

夜が明けて
あたりまえのように朝がやってくる
遠くから

わがオフィーリア
私は今日も生きていこうと思う

永遠の旅人のように

                                        194 金子忠政
行為の後、くるおしく、
裸のままベランダに立つ
君の火照る頬

憑かれようとしても
できなかった真昼の蒼空、
降りそそいでいたのは何か?

見つめようとしたら
素知らぬ顔して天の川を見ている
取り戻せない空を取り戻そうとするような
まなざしで

淡く瞬いている川があり
影のように夜はさびしく
とてもあたたかい

ああ、眠れないよろこび!

一つ星が消えても
遠くにひとみはひらかれるから
ひとりではない
一心不乱に見ている
もう銀河のはずれにいてひとりではない
それなのに、
君の冷たい手をにぎってしまう

背中をあらわにしたまま
泣き震え、
いつ終わるとも知れない
どこまで広がるとも知れない
ことに怯え、
開封しないまま手紙を燃やすように
君を燃やした
その炎のゆらぎを見つめ
その炎を映すひとみを見つめ合い
衛星にすら囲い込まれ
二人の虚から真を編み上げるため
抱き寄せて燃やした
君と僕の両腕を紬車にする
信じられないくらい明るく
果てのない道行きのために
途上から、そのまたさらなる途上の、
固有の死に向かおうとして
絶え間なく行為した

オフィーリアが顕れる
「誓いを立てたでしょう」と、

かすかに咳が響いて
胸が痛い
死者がうつろう
岸辺にいっせいに声を立ち上がらせ
明るいまま解放できるのか?
向かい立ち、渇けば、渇く問い
それをそのまま湿度にする、
血に閉じてはならない

                                        195 小田千代子
雪の午后うつらうつらと夢みるさきに愛しき君のかひなの温さ

                                         196 山下晴代
愛しききみのかいなの温かさを
思い出そうと、ぼくは羅生門にて
死人の髪を抜いている。これが
高く売れるんです。アマゾンで

ミルクのように甘やかなきみの肌
思い出せない。かつては後背位で
交わったあの密林の花々にむせる日々
見つけたのに、永遠をすぐそこに

太陽とともにあるのは、誰の墓?
エドガー・ポー? ヴェルレーヌ? マラルメ?
きみの名前を忘れ、きみの匂いを忘れ、

でも、キスのしかただけは忘れない
かつては夏の一日にたとえられた
わが美しき肉体は蛆の餌

                                         197 橋本正秀
誓いは誓い。
蟄居している春は、
墾(はる)そのものとしてそこにいる。
蹲る伊賀ものの温もりを保ち
たぎらせた血に、
むきだしの春が皮膚をぬめらせて、
風に蠢く肉じりがひりひりとした音をひきつらせている。

かつての蒼い光りは、
青い春に姿を代えて、
かつての誓いを反芻するだろうか?
もやっとした春の息吹きの前では、
信号機の青い光が点滅をしはじめる。
「いま…。いま…。」
耳許で、空間が、息をひそませる。

                                         198 市堀玉宗
原罪を思ひ出せずにあたたかし

                                         199 山下晴代
見渡せば幕もぶたいもなかりけり甲午弥生千のまぼろし

                                         200 市堀玉宗
謎多き女匂へり雛祭り



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「ゼロ・グラビティー」再考

2014-03-09 10:40:52 | 映画
 facebookの「映画の森」(https://www.facebook.com/groups/eiganomori/ )で、大瀧幸恵(https://www.facebook.com/profile.php?id=100004109952539 )が発言したことが話題になっている。(昔の掲示板でいうと「炎上」ということろか。そこまではいっていないのだが……。)

 大瀧の指摘は、次の通り。

海へ漂着した主人公を、舐めるように手持ちカメラが追います。その時、歩く度にカメラのレンズに水滴が付いている!!!なんと!これはカメラマンとしては絶対やってはいけない、恥ずかしいことです。それこそ、映画だと分かってしまうではないですか!
 
 前半のCGつかった影像が完璧なのに対し、地球についてからの影像の処理がずさんというのだが、私はこのシーンではまったく逆のことを思った。涙が無重力状態で飛び散るシーンが美しいと書いたのと理由は似通っている。
 デジタル技術が進んだ時代、カメラについた水滴くらい簡単に消せるだろう。これは、あえて残しているのである。
 私はカメラの専門家ではないし、愛好家ですらないのだが、何かを写真をとっていて水滴がついてしまうということは経験したことがある。失敗したな、と素人だから、思う。けれど、その失敗が「臨場感」にもなる。奇妙な「映画用語」でいえば「クオリティー」にもなる。その瞬間にしか取れない、その場限りの「臨場感」。水滴に「臨場感」というのは大げさかもしれないが、このカメラのレンズについた水滴という「失敗」が地球を実感させてくれる。
 それまでの宇宙の影像が、まったくの「絵空事」。「真実」っぽく見えるが、私はそれが真実であるかどうか知らない。見たこともない影像なのに「真実」と思い込んでみるのは、それまでに私が見てきた「宇宙の影像」とどこか似ているからである。「宇宙の影像」自体が私の体験ではなく、他人の体験であり、知らないものに知らないものを重ね合わせて「真実」と思い込んでいるだけである。
 でも、カメラについた水滴、水滴に邪魔されて(?)、「現実」がくっきり見えないというのは体験したことがある。カメラにとらなくても、たとえばバスに乗っていて雨が降りはじめたとき。ガラスに水滴がつく。そうすると街並みが水滴に邪魔されて、くっきりとは見えなくなる。これは私の「肉体」がおぼえている。
 で、そういうシーンがスクリーンに映し出された瞬間。私は、これは「現実」だとはっきり「わかる」。映画なのに(つまり、嘘なのに)、それを「現実」と受け止めてしまう。ほんとうに撮影しているのだと「わかる」。
 大瀧は、撮影していること、映画であることがわかってはだめなのだという主張のようだが、私は、この映画では逆に感じる。
 カメラについた水滴で、「現実(つくりもの)」であると「わかる」瞬間、不思議なことに、前半のCGも「水滴」と同じように「現実」が映し出されたものと勘違いするのである。大瀧のいうミスが、逆に、前半も同じようにそこにあるものをカメラで直接撮影したのだという「嘘」をつくりだす。カメラはいつでも「ほんもの」を映し出しているという「嘘」を完璧にする。
 もし最後に水滴に汚れた(?)影像がなかったら、最後も「映画」、最初も「映画」、どこにも「ほんもの」は存在しない「架空」になってしまう。水滴という「現実」がすべての嘘を嘘ではなく現実だと主張する根拠になる。
 よく嘘を上手につくなら、すべてを嘘にするのではなく一つだけ「ほんとう」をまじえるのがコツという。「ほんとう」が一つあるために、それがだれにもわかる「ほんとう」であるために、それにつながることがらが、「ほんとう」に見えてくるのである。それと同じ効果が、この映画にある。カメラについた水滴--これは、見たことがある。これと同じもの(似たもの)を見たことがあるという感覚が、それまでのCGの影像さえも、それが「本物」に見えるのは、もしかしたらそれを見たことがあるからかもしれないと錯覚させるのである。あの影像は、作り物ではなく「ほんものだ」と錯覚させるのである。

 だいたい、宇宙の影像が嘘なら、地球の影像だって、でたらめである。無重力から帰って来た人間が、地球(地上)の重力よりもはるかに重い負荷(重力)のかかる水中で自由に動けるわけがない。簡単に泳げるわけがない。水圧は「浮力」としても作用するが、水をかく、水をける、というのは大変な力がいる。それを平気で動いているのだから、それも「現実」と錯覚させるためには、カメラの水滴の工夫は必要なのだ。(深い水中で泳いでいた人間が、浜辺で立ち上がれない--というのは疲労困憊という理由をつけても奇妙である。宇宙から地上へ帰って来た人間は、重力のために、すぐに立てない、という「常識」を再現することで、これは「現実」である、と映画が主張しているだけである。)

 また、この映画のタイトルにも注意を払う必要があるかもしれない。日本のタイトルは「ゼロ・グラビティー(無重力)」だが、現代は「グラビティー(重力)」である。宇宙から帰還して、「重力」を感じて、安心する。ほっとする。その「解放感」のようなものを視野にいれている。その、ほんとうは不便であるはずの重力が「解放感」をもたらすのと同じように、カメラについた水滴という「不完全」が「解放感」につながる。あ、これは地球なんだ、助かったんだという「安堵感」を生み出す。その安堵感のなかで、観客は映画の主人公に自分の「肉体」を重ね合わせる。
 映画というのは視覚と聴覚の体験だが、その現実の視覚・聴覚というのは「純粋」なものではない。いろいろな不純物を含んでいて、そのために正確な判断ができなかったり、錯覚が起きたりする(「肉体」の内部で「感覚融合」が起きる)のだが、映画にもそういう「不純物」のようなものがあると、突然、「嘘」が「ほんもの」に見える。「ほんもの」であると感じるか、「にせもの」であると感じるかは、「肉体」が何を知っているか(おぼえているか)ということと関係してくる。--と書くとややこしくなるので、まあ、これ以上は書かない。

 ちょっと違う(ぜんぜん違うかもしれない)のだが、影像の嘘と現実という問題を考えるとき、スピルバーグの「ジュラシックパーク」はおもしろい。恐竜の島なんて、嘘に決まっている。その映画のなかで、草食恐竜がティラノサウルスから集団で逃げてくるシーンがある。主人公たちもいっしょに逃げる。このとんでもない嘘のシーンで、な、な、なんと、大地が上下に揺れる。恐竜の重さに地響きを立てて揺れる。この瞬間、私は、この影像を「ほんもの」と錯覚する。信じてしまう。なぜか。重いものがスピードを上げて移動するとき、そこには地響きがあり、振動があるということを私の「肉体」は知っているからである。ダンプカーが家の近くを走るとき、家が揺れる。大地が揺れるからである。そういうことを私は瞬間的に思い出し、あ、これ、「ほんもの」と思うのである。
 どんな嘘にも、そしてそれが「完璧な嘘」であればあるほど、どこかに「ほんもの」が必要。「ゼロ・グラビティー」の場合、その「ほんもの」が「水滴」である。
 そして、その水滴は、実は、サンドラ・ブロックが宇宙船のなかで流した涙の一滴である--と書けば、そこからまたファンタジーが始まるのだが、まあ、やめておこう。以前書いた「ゼロ・グラビティー」(http://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/9279ff19bfa91baf376ecfbc0c72e2b1)の感想の繰り返しになるから。








 
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