佐々木安美「途方流木」(「生き事」8、2014年春発行)
佐々木安美「途方流木」は、私の知らない葬儀の様子が書かれている。「集まったすべてのタマシイ、すべての人がひとつにつなが」る数珠回しが終わり、御詠歌が始まる。何番までやるかと喪主(たぶん)の母が聞かれる。
へええ、と思いながら、なぜこのことばをおもしろく感じるのか考えてみた。知らないことが書かれているのがおもしろく感じる理由だけれど、知らないことなら世の中にいろいろある。そのなかで私が関心を持ったり(おもしろいと思ったり)、つまらないなあと思ったりする理由は何なのか。佐々木のことばのどこにおもしろさを感じたのか。
その、「続く」に、私はそうか、と思ったのだ。それがおもしろいと思ったのだ。「続く」のは「続ける」人がいるからだけれど、佐々木は、ここでは「続ける」ということを書いてるのだな。
御詠歌に限らず、人が死んだら葬式をする。葬式をするということを「続ける」。葬式を続けるなどとふつうは思わないけれど、そういう儀式を続けるということが「暮らし」のなかにある。そして、その「続ける」は実際に、その「続ける」に参加しないことにはわからないものがある。
「続ける」に自分が参加するというのは、そして人が参加するというのは、そこに何かしら「個人的」なものを持ち込むことでもある。この詩の最初に、父の遺影の近くに「繁子」の遺影があると佐々木は知らされる。繁子というのは増水した川に流されて死んだ学年がひとつ下の知人である。たまたま父の命日と重なり、その家が寺の本堂に飾ってある。そういう「偶然」が持ち込まれる。無関係(?)であってもいいものが、「つながる」。
「続ける」(続く)というのは、とこかで「つながる」。で、そういう感覚が「南無阿弥陀仏」の合唱をしながら数珠をまわすと、わけがわからないまま、あれやこれやがつながる。「つながり」のなかに「タマシイ」が「つながる」。
ふーん。
だから、「もがみかんのんだいいちばん」「もがみかんのんだいにばん」と「つなげていく」と、何かがつながる。それは客観的には「続く」(外側からみれば、「続く」)なのだが、その「続く」の内部に入る(参加する)と「つながる」という感じにかわる。
外側から内側への、この変化が、どういえばいいのかなあ。区切りがない。それが、とてもおもしろいのだ。
こんな書き方は「宗教的」になってしまうので、どうしようかなあと悩むのだが、葬儀を行なう(葬儀の伝統が続く/続ける)というのは、葬儀をとおして、いま/ここにいない人間と「つながる」ことだね。
で、その「つながる」とき、とても大事なのか「声」。人が肉体のなかから息とともに吐きだす音。音をあわせる。音がことばになる。意味になる。--のだけれど、その「意味」以前に、声をあわせる(声がつながる)瞬間の、不思議な陶酔。それが「続く」という感じがする。
佐々木の書いている「こんなふうに続く」の「こんなふうに」は、どうも私には、そういうもののような気がする。「御詠歌」に「意味」はあるのだろうけれど、「意味」を明確に意識しながら歌う(読む?)というより、声をあわせることで、その声をあわせるという行為のなかで生まれてく「つながり」の強さ、「つながり」に酔ったような感覚。それが「こんなふうに」の奥にあるように思える。
「御詠歌」を佐々木はおぼえているかどうかわからない。詩の末尾に「引用」を明記しているから、それはおぼえているものを再現したというよりも、「本」を手本に筆写したということ(おぼえていなかった)ということになるだろう。「御詠歌」そのものはおぼえていない。すぐにはおぼえらもない。けれども、いっしょに「御詠歌」を歌ったということ、そこに誰がいたかということを佐々木はおぼえている。
これだね、この詩の「本質」は。「ほんとう」は。
「意味」がわからなくても「おぼえられる」ことはある。「意味」がわからなくても、それをすることができる。そして、そのことを「した」ということ、声を出してことばを言ったということは、「おぼえて」、忘れられない。
肉体で「おぼえて」、肉体のなかに取り込んだもの、肉体を動かすもの--それが「思想」だ。肉体で再現できるものが「思想」だ。
佐々木は、いま/ここで「御詠歌」を暗唱できるわけではないが、葬儀のとき、再び「御詠歌」を歌うことがあれば、それを歌うことができる。もちろん暗唱ではなく、本を見ながらの唱和(合唱)ということになる。合唱というのは不思議なもので、わけがわからなくても、他人にリードされる形で、自然とつながっていく。他人にリードされると、声がそれにあわせて出てくる。まるで「肉体」がつながったみたいに。そして、実際に「肉体」がつながっているのだと思う。
で、このとき。(ここから、私は「飛躍」するのだが。)
そういう「つながり」のとき、ひとはなぜか、そういうことが上手なひとにリードされて動いていく。下手なひとは上手なひとにリードされて、「正しい」何かにかわっていく。これは不思議なことだが、こうの不思議さがあるからこそ、ひとは他人といっしょに何かをしなければならないのかもしれない。
父が死ぬ。そのとき葬儀がある。葬儀なんて、どうやっていいかわからない。わからないまま、それを経験したひとの動きにあわせて動く。その動きに、自分の動きを「つづける/つなげる」。そのと、そのひととひとの関係は一対一に見えて、それを越える。いま/ここにいないひとの世界へまでつながる。
「肉体」ではなく「タマシイ」がつながるのか。
私は、でも「タマシイ」ではなく、「肉体」がつながるのだと思う。「肉体」だけがつながる。「声」がつながるのだと思う。「声」を出すときの、「肉体」の動かし方がつながるのだと思う。
で、とまた「飛躍」してしまう。
きのう書いた松岡政則「土徳」は佐々木のこの詩とどこかで「つながっている」と私は感じる。
「声(聲)」でつながっている。
その土地で繰り返された「声(聲)」をひとは繰り返す。「御詠歌」であることもあれば、「長生きしすぎるとバチがあたるんじゃが」であることもある。また、「川」を「「川」としか呼んだことがなあ」「学がなあけぇ知らんのよ」ということにもなる。「知らない」ことでも「わかる」から、それでいいのである。「声(聲)」をとおして「わかる」。それを生きているひとと「つながる」。
佐々木が「耳」を生きている人間だと、私は、この詩で気がついた。
ことばを「聲(音を聞く)」という形でつかみ取っているひとの詩は、不思議な落ち着きとやさしさ、美しさがあるなあ。
佐々木安美「途方流木」は、私の知らない葬儀の様子が書かれている。「集まったすべてのタマシイ、すべての人がひとつにつなが」る数珠回しが終わり、御詠歌が始まる。何番までやるかと喪主(たぶん)の母が聞かれる。
「18番まで」と母は答え、「あっ、やっぱり17番まででいい」と言いなおす。最上三十三観音。最初に親の長子さんが「となえたてまつる もがみかんのんだいいちばん鈴立山若松寺のごえいかに」と言うと、みないっせいに「かかるよにうまれあうみのわかまつやおいにもたのめとこゑひとこゑ」と唄い終わると鈴をチリーン鉦をチーンと鳴らして、「となえたてまつる もがみかんのんだいにばん宝珠山千手院のごえいかに」「みほとけのちかひはおもきりうしやくじねがいふこころはかろくありとも」とこんなふうに続く。
へええ、と思いながら、なぜこのことばをおもしろく感じるのか考えてみた。知らないことが書かれているのがおもしろく感じる理由だけれど、知らないことなら世の中にいろいろある。そのなかで私が関心を持ったり(おもしろいと思ったり)、つまらないなあと思ったりする理由は何なのか。佐々木のことばのどこにおもしろさを感じたのか。
こんなふうに続く。
その、「続く」に、私はそうか、と思ったのだ。それがおもしろいと思ったのだ。「続く」のは「続ける」人がいるからだけれど、佐々木は、ここでは「続ける」ということを書いてるのだな。
御詠歌に限らず、人が死んだら葬式をする。葬式をするということを「続ける」。葬式を続けるなどとふつうは思わないけれど、そういう儀式を続けるということが「暮らし」のなかにある。そして、その「続ける」は実際に、その「続ける」に参加しないことにはわからないものがある。
「続ける」に自分が参加するというのは、そして人が参加するというのは、そこに何かしら「個人的」なものを持ち込むことでもある。この詩の最初に、父の遺影の近くに「繁子」の遺影があると佐々木は知らされる。繁子というのは増水した川に流されて死んだ学年がひとつ下の知人である。たまたま父の命日と重なり、その家が寺の本堂に飾ってある。そういう「偶然」が持ち込まれる。無関係(?)であってもいいものが、「つながる」。
「続ける」(続く)というのは、とこかで「つながる」。で、そういう感覚が「南無阿弥陀仏」の合唱をしながら数珠をまわすと、わけがわからないまま、あれやこれやがつながる。「つながり」のなかに「タマシイ」が「つながる」。
ふーん。
だから、「もがみかんのんだいいちばん」「もがみかんのんだいにばん」と「つなげていく」と、何かがつながる。それは客観的には「続く」(外側からみれば、「続く」)なのだが、その「続く」の内部に入る(参加する)と「つながる」という感じにかわる。
外側から内側への、この変化が、どういえばいいのかなあ。区切りがない。それが、とてもおもしろいのだ。
こんな書き方は「宗教的」になってしまうので、どうしようかなあと悩むのだが、葬儀を行なう(葬儀の伝統が続く/続ける)というのは、葬儀をとおして、いま/ここにいない人間と「つながる」ことだね。
で、その「つながる」とき、とても大事なのか「声」。人が肉体のなかから息とともに吐きだす音。音をあわせる。音がことばになる。意味になる。--のだけれど、その「意味」以前に、声をあわせる(声がつながる)瞬間の、不思議な陶酔。それが「続く」という感じがする。
佐々木の書いている「こんなふうに続く」の「こんなふうに」は、どうも私には、そういうもののような気がする。「御詠歌」に「意味」はあるのだろうけれど、「意味」を明確に意識しながら歌う(読む?)というより、声をあわせることで、その声をあわせるという行為のなかで生まれてく「つながり」の強さ、「つながり」に酔ったような感覚。それが「こんなふうに」の奥にあるように思える。
「御詠歌」を佐々木はおぼえているかどうかわからない。詩の末尾に「引用」を明記しているから、それはおぼえているものを再現したというよりも、「本」を手本に筆写したということ(おぼえていなかった)ということになるだろう。「御詠歌」そのものはおぼえていない。すぐにはおぼえらもない。けれども、いっしょに「御詠歌」を歌ったということ、そこに誰がいたかということを佐々木はおぼえている。
これだね、この詩の「本質」は。「ほんとう」は。
「意味」がわからなくても「おぼえられる」ことはある。「意味」がわからなくても、それをすることができる。そして、そのことを「した」ということ、声を出してことばを言ったということは、「おぼえて」、忘れられない。
肉体で「おぼえて」、肉体のなかに取り込んだもの、肉体を動かすもの--それが「思想」だ。肉体で再現できるものが「思想」だ。
佐々木は、いま/ここで「御詠歌」を暗唱できるわけではないが、葬儀のとき、再び「御詠歌」を歌うことがあれば、それを歌うことができる。もちろん暗唱ではなく、本を見ながらの唱和(合唱)ということになる。合唱というのは不思議なもので、わけがわからなくても、他人にリードされる形で、自然とつながっていく。他人にリードされると、声がそれにあわせて出てくる。まるで「肉体」がつながったみたいに。そして、実際に「肉体」がつながっているのだと思う。
で、このとき。(ここから、私は「飛躍」するのだが。)
そういう「つながり」のとき、ひとはなぜか、そういうことが上手なひとにリードされて動いていく。下手なひとは上手なひとにリードされて、「正しい」何かにかわっていく。これは不思議なことだが、こうの不思議さがあるからこそ、ひとは他人といっしょに何かをしなければならないのかもしれない。
父が死ぬ。そのとき葬儀がある。葬儀なんて、どうやっていいかわからない。わからないまま、それを経験したひとの動きにあわせて動く。その動きに、自分の動きを「つづける/つなげる」。そのと、そのひととひとの関係は一対一に見えて、それを越える。いま/ここにいないひとの世界へまでつながる。
「肉体」ではなく「タマシイ」がつながるのか。
私は、でも「タマシイ」ではなく、「肉体」がつながるのだと思う。「肉体」だけがつながる。「声」がつながるのだと思う。「声」を出すときの、「肉体」の動かし方がつながるのだと思う。
で、とまた「飛躍」してしまう。
きのう書いた松岡政則「土徳」は佐々木のこの詩とどこかで「つながっている」と私は感じる。
「声(聲)」でつながっている。
その土地で繰り返された「声(聲)」をひとは繰り返す。「御詠歌」であることもあれば、「長生きしすぎるとバチがあたるんじゃが」であることもある。また、「川」を「「川」としか呼んだことがなあ」「学がなあけぇ知らんのよ」ということにもなる。「知らない」ことでも「わかる」から、それでいいのである。「声(聲)」をとおして「わかる」。それを生きているひとと「つながる」。
佐々木が「耳」を生きている人間だと、私は、この詩で気がついた。
ことばを「聲(音を聞く)」という形でつかみ取っているひとの詩は、不思議な落ち着きとやさしさ、美しさがあるなあ。