詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

錬肉工房公演・現代能「始皇帝」

2014-03-22 11:11:41 | その他(音楽、小説etc)
錬肉工房公演・現代能「始皇帝」(国立能楽堂、2014年03月20日)

 原作・那珂太郎「始皇帝」。演出岡本章。始皇帝、その亡霊(コロス)観世銕之丞、徐福(コロス)山本東次郎、徐福の後裔(コロス)宝生欣哉。

 10年ほど前、朗読だけの「始皇帝」を見た。今回の公演は、能の衣装をつけて、能役者が実際に動く舞台。ストーリーは不老不死を求めた始皇帝と、始皇帝の不死の夢を利用して生きる徐福の欲望が交錯する。徐福はほんとうに不老不死の薬をもとめて日本へ渡ったのか。それとも始皇帝の権力を逃れて日本へ渡ったのか。--というストーリーが兵馬俑の兵の声の間で展開する。兵馬俑もまた始皇帝の不死の夢の別の形である。(那珂太郎の詩は兵馬俑に触発されて書かれたもの。)
 能は大きくわけてふたつの部分からなる。(能の用語ではもっと簡単に言えるのかもしれないけど、私は能は初めてなので、自分のことばで「わかる」ことだけを書く。)
 そのふたつの中間点(折返点)、始皇帝が死んで、霊があらわれる転換(?)の場で、私はびっくりした。那珂太郎の「始皇帝」にはないことばが突然割り込んでくる。「始皇帝」にはないことばといっても那珂太郎の作品ことばである。「鎮魂歌」からの引用。それは「始皇帝」のストーリーのなかにあったものだが、「始皇帝」のなかにはいり込んで、違和感がない。いや、違和感がないというより、その乱入(?)によって、「始皇帝」の本質が深くえぐりだされるという感じである。「音楽」の愉悦が大展開する、という感じなのである。
 「音楽」の大展開のことはあとで書くことにして、まず、違和感(衝撃)のことから先に書いておく。この突然の「音楽」の乱入は、私には前衛劇(アングラ劇)の「音楽」のつかい方に似ていると思った。鈴木忠志の芝居や唐十郎の芝居の途中に、突然大音響で鳴り響く「歌謡曲」のような感じ。突然の違和感と、違和感でありながらなつかしいような、安心するような感じがする。やっていることは違うけれど、何か共通するものがある。鈴木忠志のギリシャ悲劇を題材にした芝居に、突然オーヤンフィフィの歌が流れると、「意味」を破壊しながら、「情念」が共通のものとして突然きらめく。「意味」ではなく、情念が人間を動かしていることが、本能的にわかる。その本能の目覚めのようなものが、「鎮魂歌」の挿入によって起きた。別なことば、そのことばの「音楽」が「始皇帝」の奥にある「音楽」を攪拌し、目覚めさせていく--そういう感じなのだ。
 この「音楽」の乱入の前には「意味」が非常に整然と動いていた。

 芝居はまず兵馬俑の兵士の声から始まる。「群読」のときと同じように、全員の一種のコーラスがある。ギリシャ悲劇のコロスである。コロスが「事件の背景」を語る。兵馬俑は始皇帝の不死の夢によってつくられたもの、幻が具体的な形となって実現されたもの。--そういう「群声」のなかから、徐福の末裔があらわれ、物語を動かしていく。集団の声のなかから「個人」が生まれてくる。始皇帝も、当然、そのコロスから生まれてくる。そういう関係をみていると、どんな偉大な声もまたコロス(集団/庶民?)の声である、一般のひとの声であるということなのか、それとも偉大な個人の声は集団のなかに広がり、広がりながら欲望を巨大にしていくということなのか……よくわからないけれど、コロスの声と個人の声は切り離せないということがよくわかる。声(意思)は集団という支えがあって動く。本物になる。
 この声の関係は、舞台と観客の関係にも似ている。舞台で生まれる声はストーリー(役者)の声だが、その声はまた観客のなかにある声だろう。あるいは役者の声が観客のなかに溶け込み、観客の肉体を刺戟し、観客に、この声は自分の声だと錯覚させるのか。いずれにしろ、観客は自分の肉体のなかにある声しか聞きとることはできない。(本を読んだとき理解できるのは自分の知っていること、自分のおぼえていること、わかっていることだけと同じである。)
 この個人の声、集団の声の融合と分離(独立)の関係がとても刺激的である。10年前の群読のときは、それぞれの個人が独立して動くわけではないので、分離の関係が「理知的」であったけれど、実際に役者が動くと、声が独立して「肉体」になる感じがする。明確であると同時に、非常に具体的で、刺激的だ。「頭」を刺戟してくるものより、肉体その藻を刺戟してくる感じがする。
 その群読と独立してくる声を聞きながら、私は、また別のことも感じていた。
 能の声、それは歌舞伎の声にも似たところがあるから、日本人の声と言えばいいのかもしれないけれど、その発声方法と声の広がり方は独特である。西洋のオペラのように肉体から出て、そのまま空間に広がっていくという感じではない。のどに圧迫感がある。声の出だしがつまっている。のどが解放されきっていない。その声を聞いていると、のどにせき止められ、外に出ていく声と同時に、肉体の内部に引き返す声があることがわかる。肉体の内部で声が響く。そして、その肉体の内の声と肉体の外部の声(外に出ていった声)が互いに呼応しあって、区別をなくす。境界がなくなる。では、それでは肉体が消えるのかというとそうではなく、肉体はそこにある。声が肉体になった、という感じがする。オペラでは、声は空間になり、観客をつつみこむが、能の声は、観客に触れてくると同時に、舞台の上で肉体のまま存在している。「声の肉体」と向き合っている感じがする。
 そういうことを感じながらも、私は、前半ではまだ「意味」を追っていた。ストーリーを追っていた。
 最初の群読、集団から個人が独立して声になるとき、そこにはまず「意味」があった。その「意味」はストーリーとしっかり絡みついていた。不老不死というのは人間に共通の夢である。その欲望にとりつかれた人間(始皇帝)とそれを利用して安楽の世界へ旅立った徐福、始皇帝は何を信じ、何を疑い、何にだまされたのか--というようなことを巡るストーリーを私は追っていた。
 ことろが、「鎮魂歌」の乱入によって、私は、そのストーリーから解放されて(?)、まったく別のことを感じるようになった。体がふるえるような興奮のなかで、その別のことのなかにのみこまれていった。
 「音楽」に。

 ことば、声には不思議な力がある。ことばは「意味」をもっている。意味というのはしっかりしたものである--か、どうかは簡単に言えないけれど、まあ、意味を中心にしてことばう動いているし、何かを理解するとは意味を理解することとほとんど同義である。
 けれど那珂太郎のことばを読むと(聞くと)、ことばには意味以外の何かあることがわかる。人間は論理(意味/ストーリー)とは違ったものによっても動かされていることがわかる。たとえば、実際に能のなかでつかわれたことば、「鎮魂歌」のなかのことばで言えば、「いろどり」ということばは鮮やかなイメージだが、その音はどこかで「どろどろ」という汚い(?)ものとも重なり合う。「意味」ではなく、音そのもの、その音を出すとき(発声するとき)、「いろどり」と「どろどろ」が混じり合う。これを不快と感じるひとがいるかもしれないが、私は一種の愉悦を感じる。「肉体」のなかに愉悦が生まれてくる。
 この愉悦はそれは「音楽」である。「意味」ではなく、「音」そのものの音楽(音の楽しみ)、音が自分で楽しんでいるのが肉体につたわってくる、その愉悦。

 で、「ことば」を「声」にするとき、「意味」とは別に「音」というものが動いているということを考えたとき、ふと、思い出したことがある。能役者の声の出し方は日常の声の出し方とはまったく違う。それはたとえば「兵(へい)」を標準語では「へえ」と発音するが、能役者たちは「へ」「い」と明確な音にするということ関係するのかもしれないが……能役者はことばを「意味」というよりも「音」そのものとして出していることがわかる。ことばというのは「音」がつながって、一塊になって「意味」になるが、能役者はひとつながりの音を、個別に、独立させて発声しているように私には聞こえる。まるで「意味」を分解して、「音」のなかに、ことば本来のもっている「意味」とは違うものを見つけ出そうとしているように感じられる。「音」そのものの力、美しさを解放しようとしているように感じられる。
 その印象が「鎮魂歌」の部分で、兵馬俑の描写ではないけれど、むくむくとことばのなかからあらわれてきたような印象があった。人間を(ことばを)動かしているものは「意味」ではない。ことばになる前の何か、「音(声)」、肉体から出て行く何か、肉体から生まれ出てしまう何かなのではないか、という感じがむくむくと動く。
 始皇帝の不老不死を求めるという欲望も、「意味」だけでは成立しない何かである。人間は誰もが死ぬということを知らない人間はいない。それでもその不可能を求めるというのは何か間違っているのだが、そういう間違いを誘い出すものが、人間の歴史を動かしている。人間は何かから逸脱し、そのために苦悩も愉悦も味わい、そのなかで生きている--その感じが、むくむくと動く。「音楽」のように、わけのわからないまま(意味にならないまま)、ただ強烈に動く。
 このときからあと、私は、能役者のことばを聞きながら、もうほとんど「意味」を追うことをやめていた。ストーリーは詩を読んで知っているからと言えばそれまでなのかもしれないけれど、能(芝居)にストーリーは関係ないような気がしたのである。
 「声の肉体」そのもののなかに、ストーリーを超える「意味」(意味と言っていいかどうかわからないが、何か大切なもの、能でしか表現できないもの)--そういうものがあるのではないかと思った。

 「声」が「ことば(意味)」ではなく「音楽」になったとき、その「音楽」にあわせて「舞」が始まる。私は正面席にすわっていて、「声」が右方向に座り、脇正面へむけて発せられているため、それまでの声とは違って聞こえることも、私の印象に影響しているかもしれないが。つまり、声は、人間の奥から肉体を突き破ってあらわれるというより、空気としてそこにあり、その声(音楽)のなかで肉体が陶酔して動いている、その陶酔が「舞」なのだと感じた。
 これに独特のリズムがくわわる(あるいは、「意味」ではなくリズムが肉体を動かしていく、という感じがする。)。能のリズムは、頭に拍があるのではなく、後ろに拍がある。歩くときの足の動きを見るとわかりやすいが、摺り足でうごいた足が最後につま先を挙げてそれからとんと下ろす。ツートン、という感じ。静かに動いてきたものが最後の瞬間爆発する感じ。そして、その「ツー」がだんだん詰まってきて、それが詰まるにしたがい爆発が大きくなる感じ。
 これに拍車をかけるのが、笛の「息」であり、太鼓、鼓の拍子である。群詠(コロス)が脇に座り、その声が正面からぶつかってこないかわりに、舞う役者の背後から、その肉体を突き破るようにして、息とリズムがあらわれる。息とリズムを拡大(増幅?)させてはっきり認識できるようにしたものが笛の音、鼓の音なのだ。
 ツーーートン、ツーートン、ツートン、ツトン、ットン、トン、トントン。
 (ひょーーーっ、ひょーーっ、ひょーっ、ひょろ、ひょ、ひ、ひ、ひひ)
 後ろにあった拍が前にせりだし、トントントンとつながると逼迫していく。陶酔が頂点に達する。
 このとき、私の体は自然に動く。能役者が足をドンと踏みならすとき、自然に足が動いてしまう。あっ、音をたててはいけない、と緊張しながら、その動きに酔ってしまう。
 その瞬間、「場」が消える。そこがどこなのか、忘れる。国立能楽堂なのか、始皇帝の霊がさまよう墓の近くなのか、そんなことは忘れる。ことばも消える。意味が消える。
 そして、「肉体」を発見する。
 はじめてそこに肉体がある(能役者がいる)ということに気づいたみたいにして、そこに「肉体」がある思う。
 ことばは「意味」から声になり、声は音になり、音は音楽になり、その音楽にあわせて動くとき肉体になる。
 声のなかに「肉体」があり、それが「人間」の「肉体」になって、あらわれている感じだ。意味が消えた声が音楽なら、その音楽によって生まれた肉体は舞(ダンス)だ。
 肉体の動きがダンス(舞)、声の動きが音楽。
 声の音楽(歌)から、音楽の肉体があられわて、舞いはじめている--その舞は、始皇帝の霊の舞であると同時に、コロスの舞でもあるのだと思った。
 群読からひとりの人間があらわれて動くように、コロスの声のなかからひとりの人間があらわれて舞う。それは始皇帝であると同時に、コロスの肉体のなかにいる純粋な人間のあり方である。
 そこにある、意味ではない力、何かが生まれてくる力そのものに、完全に酔ってしまうなあ。
 「幽玄」ということばがある。能を表現するのにしばしばつかわれるのだが、私は、無教養なので、そういうものは感じなかった。ただし、この陶酔が澄み渡ると「幽玄」になるのかもしれないと思った。「幽玄」とは、澄み渡った陶酔のことだろう。

 あらゆる「意味」が死に、そのあとに「意味」になろうとして動いた力が、声と肉体の幻のようにして、幻なのだけれど、くっきりと存在している。
 舞台が終わったあと、舞台にはだれもいない。けれど、そこには肉体の面影がある。生きて動いた、その動きが舞台に残っている。舞台の上で、その舞を真似してみたくなる。腕を振り上げて怒りに酔い、足を踏みならして苦悩に酔ってみたい衝動に駆られる。



 能の感想とつながるかどうかわからないのだが……。
 「始皇帝」のなかに「信じる」ということばが出てくる。「疑う」ということばも出てくる。始皇帝は徐福の不老不死の薬を見つけてくるということばを信じた。そして、徐福が帰って来ないので、彼のことばを「疑った」。疑いながら死んでいった。そこに、また「欺く」ということばもあった。
 「信じる」を中心に、一方に「疑う」があり、他方に「欺く」がある。それは三つあわさって「ひとつ」の「肉体」になっている。
 こういうことを那珂太郎は「知(知る)」ということばで「世界」にまとめる。那珂太郎には「疑う-信じる-欺き」という運動が世界を動かしていることがわかっている。それで、その関係を始皇帝と徐福の関係として再構成する。そういう「知」の世界の一方で、「音楽」の陶酔の世界がある。
 ことばは「意味」であると同時に「音楽」である。そして、もしかすると知(意味)よりも音楽の方が力を持っている。音楽の力を解放すると、世界が陶酔のなか(無秩序のなか)で動き、まだそこに存在しない「未生」のものを生み出す。
 そんなことも考えた。感じた。



現代能 始皇帝
那珂 太郎
思潮社
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