詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アレクサンダー・ペイン監督「ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅」(★★★+★)

2014-03-02 22:24:31 | 映画

監督 アレクサンダー・ペイン 出演 ブルース・ダーン、ウィル・フォーテ


 ロードムービーといえばロードムービーなのだろうけれど。そうか、これがアメリカか。どこまで行っても平野。標識がないと、私なんかにはどこがどこだかぜんぜんわからない。あ、4人の大統領を山肌に刻んだ場所だけは、どこ、とわかるけれどね。
 で、どこまで行っても変わらないアメリカをどこまでもどこまでも行くと、どこともかわらない「日常」がだんだんはっきりしてくる。「日常」はどこへいっても変わらない。それは国境を越えて、人種を越えてかわらない。そこに描かれることがらが、アメリカ独自のものではない。日本でもヨーロッパでも起きている「日常」がだんだんくっきりしてくる。
 これがモノクロで描かれる。なるほどなあ、と思う。
 単調な平原の風景、どこまでもつづく高速道路、しかも最初の方のシーンには雪も残っているから、モノクロがさらに輪をかけてモノクロ。どこがどこだかぜんぜんわからないのだが、父親の生まれ育った街にたどりついてみれば、バーには暇な(?)老人がたむろしている。若者は都会に出てしまっていて、都会に出ていくことのできない落ちこぼれ(?)の若者だけがいる。
 で、主人公が百万ドルの懸賞にあたったという噂が広がると、疎遠だったひとが群がってくる。ちやほやして、とりいる。貸した金を返せと言ってくる。あの手この手で、なんとか、泡銭にすがろうとする。ひとの考えることは、古今東西かわらない。当選通知を強奪しようとする親類さえあらわれる。金があればもう少しなんとかなる--とみんな思っているらしい。
 なかには善人(?)もいて、主人公をあたたかく見守りもするのだが、それも含めて「現代の過疎地域の問題」が濃密に描き出される。
 主人公が老人だからそうなるのかもしれないが、親類(知人?)があつまってテレビを見れば、みんな身動きもせず、ただ画面をみつめている。楽しいのか、つまらないのか、わからない。ただ時間をつぶしている。ときどき、テレビの試合とは無関係な日常のことを何度も繰り返し会話する。質問に答える方の態度から、その質問がもう何度も答えてきたものであることがわかる。
 バーでの楽しみがカラオケというのも、もう日本だけのことではなくて、アメリカの片田舎までそうなのである。
 で、そういう生活というか、どことも変わらない「日常」が濃密になると、どことも変わらないはずなのに、それがそこだけに起きていることのように、鮮やかになってくる。モノクロ映画なのに、なぜかカラー映画を見ているように色彩にあふれてくる。
 そうか、映画の色をつくっているのは、そこに存在する色(風景や洋服、家具)ではなく、そこで生きている人間なのだということがわかってくる。
 で、と、ここで私はちょっと飛躍して矛盾するようなことをいうのだが……。この人間の「色」が浮き立ってくるとき、主役のブルース・ダーンは、相変わらず「灰色」のまま。ほんとうは美しい(?)恋もあったし、その恋人も元気で暮らしているのだけれど、いきいきと動くのは恋人だけ。ブルース・ダーンは相変わらず百万ドルが当たったと信じきっている「ぼけた」老人のまま。昔の友人が金を無心にきても、あるいは嘘の当選の手紙をからかっても、何もかわらない。周りの人と対応するのは、妻だったり、息子だったりする。つまり、まわりに「色」がひしめくのだけれど、中心のブルース・ダーンは「灰色」に徹して、まわりの「色」を鮮明にする役どころに徹している。
 ここが、この映画のみせどころだねえ。演じどころだねえ。うまいねえ。アカデミー賞の主演男優賞の候補になるだけの理由はある。マシュー・マコノヒー(「ダグラス・バイヤークラブ」予告編だけ見た。福岡の公開はまだ)やクリスチャン・ベール(「アメリカン・ハッスル」うまい)レオナルド・ディカプリオ(「ウルフ・オブ・ウォールストリート」平凡)が一生懸命、自分の「色」を出すのに対し、他人の「色」が際立つように演じつづけるというのは、とってもおもしろい。こういう演技がアカデミー賞を獲得するなら、アメリカ映画はもっとおもしろくなるだろうなあ。そうなってほしいなあ。
 脱線したかな? そうでもないのかもしれない。
 この映画は、何というか、見逃してしまいそうな「日常」の「色」を浮かび上がらせ、声高にならないまま、静かに現代の問題、それにどう向き合うべきかということも問いかけてくる。ウィル・フォーテの演じた息子の方法をだれもがとれるわけではないが、ね、最後の最後(さっき書いたことと矛盾するけれど)、ブルース・ダーンがトラックを運転することろで、突然「色」を持ちはじめる。この瞬間の、切り返しも、見事で美しいねえ。ブルース・ダーンが支えた映画だ。
                       (2014年03月02日、天神東宝3)

(私の目が悪いせいなのかもしれないが、どうも天神東宝のスクリーンは汚い。モノクロ映画だととくに感じるのだが、明暗に輝きがなくなる。)
アバウト・シュミット [DVD]
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北条裕子『花眼』

2014-03-02 11:49:04 | 詩集
北条裕子『花眼』(思潮社 2014年02月12日発行)

 北条裕子『花眼』は奇妙に気になるところがある。
 ひとつは「形」の問題。行分け詩の形と散文風の形がひとつの詩のなかにまじっている。そしてその二つは「形」以外に何が違うのか、よくわからない。そこにまず、とまどう。
 二つ目は、ときどきあらわれる美しいことば。「無告」のなかの、たとえば「日光写真だと物の影しか写らず」、「質問したいのです/光はいつまで黒いのですか?」。そこから北条の世界へ入っていきたいと思うのだが、どのことばを手がかりにしていいかわからない。そこに「ことば」はあるのだが、私とのつながりがない。
 私はなんだか行分け詩と散文詩のあいだの1行空き(段落?)に落ちてしまったような感じがする。

 こまったなあ。
 「混血の空」の次の部分も。

図書館や古本屋の本を読むのは楽しみだけど 気味が悪い 何か よくわからないも
のがはさまっている 他人の髪も幾本か丸まっている

 うーん、「気味が悪い」。落ち着かない。それこそ「よくわからないものがはさまっている」。それは北条の「髪」ではないけれど、やっぱり「肉体」の一部なんだろうなあ。でも、それが「髪」のように「具体的」な「肉体の部位」としては、私には見えない。
 そこに「ことば」があり、そこに「ことば」を書いた北条がいるはずなのに……。なぜ、北条の「肉体」に出合えないのだろう。

 「卯月」まで読んで、ここから何か書けるかなあ、という気が少しだけしてくる。

薄墨の空に桜が散る 散っているのは去年の桜かもしれない 枝が
どこまでも空の中に張り出して 果てしなく広がっている 見上げ
ているのは私か この前亡くなった義姉か

 ここには理不尽なことが書いてある。「散っているのは去年の桜かもしれない」。これは、ありえない。去年の桜は散ってしまっている。「見上げているのは(略) この前亡くなった義姉か」。死んでしまった人間は桜を見上げることはできない。理不尽、非論理的である。
 けれど、そこに何かを感じる。それは、いま私が「理不尽さ」を指摘するために省略したことと関係があるかもしれない。

見上げているのは「私か」 この前亡くなった義姉かもしれない

 「私か」もしれない。これも、変といえば変である。自分が何をしているかは、自分にはわかるはずである(ともいえないかもしれないときもあるけれど……。)ただ、「見上げているのは亡くなった義姉かもしれない」とだけ書いたときよりも、何か、わかる感じがする。見上げているのは、「私かもしれない」「義姉かもしれない」。そのとき「私」「義姉」の「二人」結びつけるものがある。「見上げる」という「動詞」である。「動詞」のなかに、それはほかの人もすることかできる「行為」が含まれるとき、その「動詞」で「ふたり」は「ひとり」になることができる。「私」と「義姉」のあいだには「生/死」という明確な区別があるのだが、「見上げる」という「動詞」は両方に使うことができる。
 いや、死んでいる人は「いま/ここ」にいないのだから、「見上げる」ことはできない--という人がいると思うけれど。でも、そういう人でも、死んだ義姉がもし生きていれば「見上げる」ことができる--と、想像できる。想像のなかで「動詞」が不可能なことがらを可能性として結びつける。で、こういう想像ができるのは、私の考えでは「見上げる」という「動詞」が「肉体」を共有するからである。だれでも「見上げる」ことができる。「見上げる」という動詞を共有しながら「私/義姉」(生/死)が融合する。
 このあたりに北条の「思想(肉体)」の特徴がある。
 で、桜にもどると。
 桜もまた「今年の桜」が「散る」ことができる。「去年の桜」は去年「散る」ということをした。花というのは「散る」ということをするのである。「散る」だけをとりあげて、たとえば「去年」の桜の「散る」影像と、「今年」の桜の「散る」影像を見比べて、どちらが去年であり、どちらが今年であるかを言うことはできない。それを区別するためには、何かが必要である。
 「動詞」は同じ動詞を引き寄せる。それを区別するのは何か。「私」という存在--とふと言いたくなるのだが、ちょっと我慢してみる。
 詩のつづきに何か、これと同じようなことが書いてないか読んでみる。

四月がまた巡ってくる もう幾度も巡ってきたけど 繰り返し四月
は巡ってくる 静かに花は咲き 散り始めて 人々はやってと気づ
く この花が散るのを 止められる者は誰もいないと 百年も前の
苔の上に 墓の上に 花はいつまでも散り続ける

 花が「散る」、花を「見上げる」--という動詞のなかで、去年と今年、私と義姉が重なり合う。その「重なり」を北条は「巡る」(繰り返す)という動詞で言いなおしている。
 あ、そうなのだ。動詞のなかで私たちがだれかと結びつくとき、それは「いっしょ」に行動するということとは別に、「繰り返す」、時間を越えて「繰り返す」。それは「時間」を「巡らす」ということでもあるかもしれない。時間を「取り戻す」ということかもしれない。
 今年の桜が「散る」のを「見上げる」。そのとき、私たちは思いを巡らし、去年を思い出す。それは去年を過ぎ去って「ここにはない」ものとして見るのではなく、去年をあたかもここに「ある」かのように引き寄せることである。動詞によって、いま/ここにないものが引き寄せられる。
 どこに?
 「肉体」に--と私は「我田引水」的に考える。いつも私は「肉体」のことだけを考えている。
 桜を見上げる。そうすることで去年の桜を自分の肉体のなかから引き出す。去年の桜を引き寄せるのは過去からほんとうに引き寄せるわけではなく、自分が「おぼえている」ことを自分のなかから引き出すことなのだ。引き寄せる/引き出すは「肉体」のなかで同時に起きる。
 同じように、私が見上げる/義姉が見上げるも、私が桜を見上げながら、義姉が桜を見上げていたことを思い出し、自分の「肉体」で再現する。義姉の見上げるを私が繰り返し、重ねる。その重なりのなかに、重ならない「死」という「時間」もはいり込む。
 この不思議な「入り乱れ/融合」が、北条の「肉体(思想)」の特徴なのだ。入り乱れ/融合しているものが北条という「私」をつくっている。

 「無告」について、私は行分け詩と散文詩の「違い」がわからないと書いたが、それはきっと去年の桜が「散る」と今年の桜が「散る」、あるいは私が「見上げる」と義姉が「見上げる」の違いのように、それをほんとうに「繰り返す」ことができる人には明瞭だけれど、それを空想でしか繰り返すことができない私にはわからない何かなのだ。
 北条は義姉の「見上げる」を実際に「肉体」として繰り返すことができる。ところが私は北条の義姉を知らないから(北条を知っているわけでもいないけれど)、それを「肉体」で繰り返すことができない。「ことば」で繰り返すだけてある。そのために、何か、うまく接近できない。ただし、「ことば」の確かさは、その北条自身の繰り返しによって強靱になっていると感じる。

 うーん、これは、ややこしいぞ。
 考え始めると、やっかいな問題にぶつかるぞ。

 きのう私は北川透の詩に触れながら、人は「動詞」のなかで肉体を交わらせることができる。肉体を交わらせて「主語」の違いを乗り越える--というようなことを書いたのだけれど、もし、そのときの「動詞」が「いま/ここ」で、その人だけ(そのものだけ)によって行なわれたものならばそうかもしれないが、その行為(動詞)がすでに他人によって繰り返されたもの(反復されたもの)である場合、どうなるのか。
 北条は桜を「見上げる」という動詞で「去年」と「今年」、さらに「義姉」と「私(北条)」を「ひとつ」にした。その「ひとつ」を私(谷内/読者)が繰り返すとき、何が起きるのか。
 私は北条の「肉体」を繰り返しているのか、北条の義姉の「肉体」を繰り返しているのか。--「肉体」がその瞬間、するりと抜け落ちて「動詞」を「繰り返す」という「ことば(概念)」だけが、ふわっと浮いているように感じる。

 あ、これなんだ。
 北条の詩の、不思議な距離感。印象に残るのだけれど、それをつかまえられない感じ。それは北条が何事かを反復していて、北条のことばのなかでは、それが完結している。そこに読者が(私が)自分を重ねようとすると、「肉体」がするりと抜け落ちて「ことば」がふわっと浮いて輝いているのを見てしまう。「日光写真の影」「光の黒さ」--それは、北条が「体験」を「肉体」で繰り返し、そこからつかみ取ってきた、一種の「抽象のことば」なのだ。「抽象」にしてしまったことばなのだ。
 「抽象」だから、そこに生々しい汚れがない。美しい。美しいけれど、それをでは、どう私が反復できるのか--それが、私にはわからない。

あなたは今年の桜が散るのを もう見ましたか たまには日々の苦
役から逃れて 一緒に桜の散るのを眺めませんか 花が散るのを見
るのはいいのもですよ

 そうですね。いいかもしれませんね。でも、北条さん、あなたのいう「一緒に」は、遠く離れた読者にはむずかしいものがある。「一緒に」が不可能ということもある。私は、離れた場所で、北条さんは桜が散るのを見ているのだなあと思いながら、「見上げる」を繰り返す北条さんそのものではなく、見上げるを「繰り返す」、その「繰り返し」を感じるんだろうなあと思う。
 この抽象化された美しさは、うーん、「文学の文学」なのかもしれないなあ。

 あ、何を書いているのか、わからなくなってきたなあ。きょうはこの辺でやめておけ、という合図なんだろうなあ。




花眼
北条 裕子
思潮社
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西脇順三郎の一行(104 )

2014-03-02 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(104 )

「ヒルガオ」

美は煩悩をボクメツすることから始まる              (114 ページ)

 この行にも「意味」以上に音の楽しさがある。「煩悩」「撲滅」は漢字で書いてしまうと堅苦しい。窮屈である。「ぼ」の頭韻があるのだが、漢字だと黙読のとき目が早く動きすぎて「音」が飛んでしまう。「意味」が先走りして「音」が消えてしまう。
 ところが「ボクメツ」とカタカナで書くと、「意味」にたどりつくまでしばらく時間がかかる。そのあいだ「音」が響く。「ボクメツ」という表記と、ゆっくりした音が「煩悩」が「ぼんのう」という音であったことを思い出させる。
 さらに付け加えると。「ぼんのう」も「ぼくめつ」も「かな」の文字数は4だが、声に出したときはかなり違う。「ん」は母音がなく、「う」も一音の長さが不完全である。「の」に吸収されていく。「く」と「つ」も母音がかなりよわい。「く」はほとんど発音されないかもしれない。漢字で書いてしまうと、その音の短さ(音の不完全さ?)が、「意味」をいっそう加速させる。
 音、音楽に対する意識の強さが「ボクメツ」という表記方法をとらせている、と思う。西脇のいう「わざと」はこういうところにもあらわれているのかもしれない。

コメント (1)
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