田中郁子「木の葉」(「緑」31、2014年02月25日発行)
田中郁子「木の葉」は、一読すると「主語」が奇妙に交錯する。
「立ちすくむ」のは「わたし」だろう。書かれていないが、田中のことだろうと思って読みはじめる。そのあと主語は「濁流」になる。「空」にもかわる。文法上は変わるけれど、読んでいて「主語」がかわったという感じはしない。「わたし(田中)」橋の上から雨上がりの濁流を見ている、という状況に変わりはないからだろう。
私は「主語」を問題にしながら、しらずしらずに「状況」を「主語」にして詩を読んでいることになる。
で、そうすると奇妙なことに、「わたし」が消える。「わたし」は書いてないのだから「消える」というのは変な言い方になるが、「わたし」が「田中」なのか「濁流」なのかわからなくなる。もしかすると、田中は「濁流」をみながら、それが「わたし」であると思っていないだろうか。
田中のなかには何か抑えがたいものがあって、それが濁流のように流れている。暴れることを欲している。だから「荒れ狂う」も「もだえ」も、田中自身の「肉体感覚」としてそこで動いている。
田中と濁流が「一体」になっていると感じてしまう。
そういうことを「わたし(田中)」がしたこともあったのかもしれない。
というか……このことばを読みながら、私もそういうことをしたことがあったと思い出す。荒れ狂い、もだえ、他人を引きずり込む。それ以外に何もできないときがあった、と思い出す。
私は橋の上に立って濁流を眺めている田中を見ているのではなく、自分の「おぼえていること」を思い出している。そして、それを田中に押しつけいてる。押しつけながら「誤読」している。
で、そのあと。
私は私の知らないことに出会う。つまり田中という「他人」に出会う。
私は「マタイ」を読んだことがない。だから、カタカナの部分が何を言っているのかさっぱりわからない。こういう、わからない部分を、私は調べたりしない。調べても「わかる」ことにはならないと思っている。ことばが「肉体」のなかにはいってきて、自分の「肉体」を動かすようになるまでには時間がかかる。
で、そのわからないはマタイだけではなく、「赤い花……」以後も同じである。ことばは知っているが、それが私の「肉体」とはつながらない。そして、私の「肉体」とつながらないからこそ、そこに田中がいると「わかる」。
私は、そのことば以前は、田中と私を同一視する形で詩を読んできたのだが、「赤い花……」以後は、これは田中だけの世界なのだ、他人の世界なのだと思って読む。
しかし、その後、もう一度変化が起きる。
川を流れる木の葉--これは見たことがある。そういう光景を私はおぼえている。だから、「木の葉」をみつめる田中に私がまた重なってしまう。私の「誤読」はまた始まる。だが……。
その直前の、田中と私は違う人間である、田中は「他人」である、という思いが、「誤読」を許してくれない。
そして、「誤読」できないとき、私はどうするかといえば、ふと「他人」を見てしまうのである。「他人」を眺め、その人の考えていることを想像してみるのである。(こういう「想像」をふつうは誤読というのかもしれないけれど……。私の「誤読」はうまく説明できないが、「想像」とはちょっと違うのである。)
で、どんなふうに田中を想像するかといえば。
田中には、「マタイ」のように、何かことばの拠り所となるものがある。そして、自分が「濁流」になってしまったとき、そいういう強いことばで自分の肉体を鍛え直す。そうして、「濁流」とは別の「木の葉」のようなものを見つけ出し、それと「一体」になる。そういうことができる人間である。そういうことをする人間なのだ、と想像する。
田中は「濁流のかなしみ」を知っている。肉体でわかっている。けれど、その「かなしみ」を知らないかのように、「濁流」に身を任せて、まるでダンスをしているように流れていく「木の葉」の美しさを生きる。もちろん、「木の葉」そのままの「かるさ」を生きるのではない。「濁流」と「木の葉」の関係を生きるのである。ふたつの「主語」をむすびあわせながら生きるのである。ふたつを「ひとつ」にするために、田中の詩のことばう動くのである。
田中郁子「木の葉」は、一読すると「主語」が奇妙に交錯する。
立ちすくむ
雨あがりの橋上
濁流があえぐ
もんどりうっておそいかかる
灰色の空がおりてくる
どこにも身のおきどころのない
荒れ狂うことの
濁りつづけることの
もだえ
「立ちすくむ」のは「わたし」だろう。書かれていないが、田中のことだろうと思って読みはじめる。そのあと主語は「濁流」になる。「空」にもかわる。文法上は変わるけれど、読んでいて「主語」がかわったという感じはしない。「わたし(田中)」橋の上から雨上がりの濁流を見ている、という状況に変わりはないからだろう。
私は「主語」を問題にしながら、しらずしらずに「状況」を「主語」にして詩を読んでいることになる。
で、そうすると奇妙なことに、「わたし」が消える。「わたし」は書いてないのだから「消える」というのは変な言い方になるが、「わたし」が「田中」なのか「濁流」なのかわからなくなる。もしかすると、田中は「濁流」をみながら、それが「わたし」であると思っていないだろうか。
田中のなかには何か抑えがたいものがあって、それが濁流のように流れている。暴れることを欲している。だから「荒れ狂う」も「もだえ」も、田中自身の「肉体感覚」としてそこで動いている。
田中と濁流が「一体」になっていると感じてしまう。
川幅と川底をえぐり
木片や汚物を
根ごとのまる木をひきずりこむ
そういうことを「わたし(田中)」がしたこともあったのかもしれない。
というか……このことばを読みながら、私もそういうことをしたことがあったと思い出す。荒れ狂い、もだえ、他人を引きずり込む。それ以外に何もできないときがあった、と思い出す。
私は橋の上に立って濁流を眺めている田中を見ているのではなく、自分の「おぼえていること」を思い出している。そして、それを田中に押しつけいてる。押しつけながら「誤読」している。
で、そのあと。
私は私の知らないことに出会う。つまり田中という「他人」に出会う。
赤い花を浮き沈みさせる
手足のないものを水底へさそう
毛髪は白く泡立ち
泥水が鼻腔をふさいで
かすかにことばを吐く口から
エリ エリ レマ サバクタニ (マタイ二七章)
今日のような午後 太陽が光を失って三時に及んだ日
濁流の中からひびく声
私は「マタイ」を読んだことがない。だから、カタカナの部分が何を言っているのかさっぱりわからない。こういう、わからない部分を、私は調べたりしない。調べても「わかる」ことにはならないと思っている。ことばが「肉体」のなかにはいってきて、自分の「肉体」を動かすようになるまでには時間がかかる。
で、そのわからないはマタイだけではなく、「赤い花……」以後も同じである。ことばは知っているが、それが私の「肉体」とはつながらない。そして、私の「肉体」とつながらないからこそ、そこに田中がいると「わかる」。
私は、そのことば以前は、田中と私を同一視する形で詩を読んできたのだが、「赤い花……」以後は、これは田中だけの世界なのだ、他人の世界なのだと思って読む。
しかし、その後、もう一度変化が起きる。
立ちすくむ橋の上
どこから来たのか
ふわり舞いあがりふわり落ちる一枚の木の葉よ
うねりにかるく身をゆだねている
おまえは濁流のかなしみを知らないだろう
解き放たれてさっそうと
どこへいくのであろう
川を流れる木の葉--これは見たことがある。そういう光景を私はおぼえている。だから、「木の葉」をみつめる田中に私がまた重なってしまう。私の「誤読」はまた始まる。だが……。
その直前の、田中と私は違う人間である、田中は「他人」である、という思いが、「誤読」を許してくれない。
そして、「誤読」できないとき、私はどうするかといえば、ふと「他人」を見てしまうのである。「他人」を眺め、その人の考えていることを想像してみるのである。(こういう「想像」をふつうは誤読というのかもしれないけれど……。私の「誤読」はうまく説明できないが、「想像」とはちょっと違うのである。)
で、どんなふうに田中を想像するかといえば。
田中には、「マタイ」のように、何かことばの拠り所となるものがある。そして、自分が「濁流」になってしまったとき、そいういう強いことばで自分の肉体を鍛え直す。そうして、「濁流」とは別の「木の葉」のようなものを見つけ出し、それと「一体」になる。そういうことができる人間である。そういうことをする人間なのだ、と想像する。
田中は「濁流のかなしみ」を知っている。肉体でわかっている。けれど、その「かなしみ」を知らないかのように、「濁流」に身を任せて、まるでダンスをしているように流れていく「木の葉」の美しさを生きる。もちろん、「木の葉」そのままの「かるさ」を生きるのではない。「濁流」と「木の葉」の関係を生きるのである。ふたつの「主語」をむすびあわせながら生きるのである。ふたつを「ひとつ」にするために、田中の詩のことばう動くのである。
ナナカマドの歌 | |
田中 郁子 | |
思潮社 |