詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山田兼士「小野十三郎邸界隈徘徊」

2014-03-19 10:32:31 | 詩(雑誌・同人誌)
山田兼士「小野十三郎邸界隈徘徊」(「交野が原」76、2014年04月01日発行)

 山田兼士「小野十三郎邸界隈徘徊」は読むのがめんどうくさそうな感じではじまる。

小野邸を探して
阿倍野区界隈を徘徊
僅かに残された路面電車
松虫駅と地下鉄昭和町駅の間の
下町の住宅街の片隅に
小野十三郎邸は
あった

 私がめんどうくさいなあと感じるのは、漢字が多いからだ。窮屈な感じがする。それがめんどうくさい。「徘徊」と体言止めの2行目もつらいなあ。私はことばを動詞でつかまえるので、こういう動詞派生の名詞は苦手。ちゃんと動詞にしてくれると肉体の動きがわかるのだけれど、これでは山田がどんなふうに町を歩いたのかわからない。肉体の動きがわからないまま、名詞だけが並べられている。
 まあ、山田にしてみれば、事実を「頭」できちんと整理して報告している、ということかもしれない。私はこういう「整理された頭」と向き合うのが苦手である。

お世辞にも
豪邸とは言えない
二軒長屋の左側の家である
もちろん小野さんがいるわけではないが
表札はかかったままである
いまにも下駄履き姿の
詩人が出てきそう

 ここで、ことばがちょっとかわる。4行目の「小野さん」が、やさしい。「小野(十三郎)邸」と書いていたときは何か距離のようなものがある。小野十三郎を特別視している感じがする。「小野さん」によって親近感のあるものになる。その前の「二軒長屋」、あとに出てくる「下駄履き」という「特徴」よりも、「小野さん」という無意識が気持ちがいい。そうか、山田は小野十三郎と知り合いなんだ。下駄履き姿を見たことがあるんだ。あったことがあるんだ、とわかる。(直接会っていないかもしれないけれど、会っているといえるくらい親近感を感じていたんだな、と想像できる。)

昭和十年から
平成八年に死ぬまで
詩人はこの家に住んでいた
詩人のすべてはテクストの中にあると
信じる者にとってこの場所は聖地
にして禁域だがその拘りも
既に消えていた

 ここで、ことばはさらに変わる。「昭和十年から/平成八年に」ときちんと言えることが、いいなあ。よく知っているのだ。小野のことを。きっと何度もこの家を訪問しているんだなあ。1連目の地名とは違った感じ、具体的な「年月」が見える感じがする。
 で、ここまできて、この「手触り」までたどりついて振り返ると1連目の「抑制」が静かでいいなあと、やっと気づくのだが。
 それよりも、

平成八年に死ぬまで

 この行の「死ぬ」がとても温かい。小野と親しかったことがわかる。「亡くなるまで」だったら、冷たい感じがする。「他人」という感じがする。「死ぬ」だから、ぐっと身近になる。「肉親」の感じだなあ。
 山田は「平成八年」だけではなく、何月何日まで言えるのだと思うけれど、そこをぐっと抑えているところもいいなあ。
 「詩人のすべては……」以下は、どういえばいいのかな、小野の住んでいた家とはあまり関係がない。どこに住んでいた。どこに家があるということとは関係がない。ここに突然山田の詩に対する向き合い方のようなものが書かれているのだが、それを書かずにはいられない。そういう変化を引き出すのが小野の家なんだねえ。
 説明しようとすると、どう書いていいのかわからないのだが、このめんどうくささは1連目について苦情を書いためんどうくささとはまったく逆。言いたい。このめんどうくささに踏み込んでゆけば、山田が「肉体」として見えてくるし、小野も「肉体」として見えてくる。山田の「肉体」と小野の「肉体」が触れ合い、混じり合い、離れてまた出会うというような「ことばのセックス」のようなものが見えてくるだが、
 うーん、
 詩人とテクストの関係にちらっと触れるだけでは、わからない。
 「ことばのセックス」のなかへ参加できないもどかしさがあるね。山田にとって、それは大切すぎて、簡単には書きたくないということかもしれない。

詩人が通った喫茶店で
珈琲を飲みつつ見上げると
相田みつをのカレンダーが目に入る
小野十三郎カレンダーがあってもいいのにな
と思いながら店を出たら
秋の日はとっぷりと
暮れていた。

 これはいいなあ。この連はいいなあ。小野の家を見て、そして小野が「死んだ」ということをあらためて確かめて(肉体で実感しなおして)、そこで小野を探す。小野がいるはずの場所に相田みつをがいる。--そう思うのは、山田の勝手なのだが、その「勝手」がいいなあ。山田の「肉体」がくっきりとみえる。「思想」が「肉体」の形でカレンダーをみつめている。
 「暮れていた。」の句点「。」が印づけているように、7行ずつ逆三角形の「定型詩」はここで終わっていいはずなのだが、「暮れていた。」で十分余韻があるのだが、それだけではまだ物足りない。
 山田の気持ちがおちつかない。
 気持ちが、まだ、ことばになってあふれる。

あべの筋に
出て見回しても
詩人が通ったパチンコ屋は
今は もう
ない

 逆三角形の「形」は守っているが、ここだけ5行。で、4連目で「小野十三郎」という名前が出てきて、ぐっと盛り上がったのに、また「詩人」という距離のあることばに変わる。その距離のなかに、「今は もう/ない」パチンコ屋が見える。「ない」を見るとき、そこに「小野十三郎」が「ない」というのも見える。

 山田の「気持ち」の変化が、ことばの変化といっしょになっている。
 これはさびしくて、いい詩だなあ。山田の感じているさびしさ、小野がいなくてさびしいという「肉体」が小野の家のまわりを歩いて、それから山田に帰っていく「肉体」が見える、いい詩だなあ。

羽曳野―詩集
山田 兼士
澪標
コメント
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