詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

細見和之「スピノザの『エチカ』をめぐって」

2014-03-18 09:52:56 | 詩(雑誌・同人誌)
細見和之「スピノザの『エチカ』をめぐって」(「交野が原」76、2014年04月01日発行)

 細見和之「スピノザの『エチカ』をめぐって」はタイトル通りスピノザの『エチカ』が出てくる。講演を依頼されて、

思いついた講演タイトルは「『エチカ』はどこまでエッチか?」
頭はもう現代詩モードに入ってもどらないのでした

 という状態になる。
 でも、「現代詩モード」って、何?
 岩波文庫から『エチカ』を引用しながら、妄想する。そのまま引用すると面倒なので、ちょっとスタイルを変え、省略しながら転写してみる。

「人間身体を組織するうち固体のうち、あるものは流動的であり、あるものは軟らかく、最後にあるものは硬い。
(略)
「硬いもの」が「軟らかい部分」に絶えず突き当たっているというようなイメージが
私にはとてもエロティックに感じられてくるのでした

 「現代詩」とは「ことば」を暴走させることである。「軟らかい」「硬い」は『エチカ』に書かれている。もちろんほかの文章にも出てくるだろう。そういうことばを読むと、人間の軟らかいもの、硬いものが思い浮かぶ。そこからセックス連想してしまう。
 これは、中学生の感覚だね。国語辞書にある「性器」ということばに反応して勃起する思春期の男子。数学をやりながら、「括弧の中にXを入れる」の「入れる」にさえ反応して、くすくす笑ってしまう。ことばを、それがつかわれている文脈から切り離し、自分の知っている「セックス」のことばとしてつかってしまう。ことばを、ある文脈から解放し、それを暴走させると「現代詩」。特にエロスへ暴走させると「現代詩」になるらしい。まあ、そうだろうね。
 こういうのは楽しいね。

そう思っていると、こんなことも書いてあります
「もちろん馬も人間も生殖への情欲に駆られるけれど、馬は馬らしい情欲に駆られ、
人間は人間らしい情欲に駆られる。」(同上、二三二頁)
こう書いてあると、もう私の頭のなかには
馬のような情欲に駆られて咬み合い交わっている愛しい人間の様子がありありと浮かんでくるではありませんか

 これもいいなあ。
 でも、私は「欲張り」なので、「馬のような情欲に駆られて咬み合い交わっている愛らしい人間」が、あまりおもしろくない。物足りない。なぜ「馬のような情欲に駆られて咬み合い交わっている愛しい私」ではないのかな? 「人間」という誰でもない存在なのかな?
 気取ってない?
 私は、馬のような情念に駆られたい。馬になりたい。これって、男根主義なんだけれどね。馬のペニスの巨大さ。男の能力をペニスの大きさで判断するというのは男根主義にほかならないのだけれど、男はバカだから、誰だって馬のペニスに憧れ、あの巨大なペニスのなかにはどんな情念が詰まっているのだろうと考えてしまう。きっとあんなに大きいと情欲に振り回されてしまうんだろうなあ。振り回されたいなあ。
 細見は、「咬み合い交わっている」姿を「愛しい」と呼んでいるけれど、つまらないね。馬が交合しているのは「愛しい」かもしれないけれど、自分が馬になってセックスするなら「愛しい」じゃないだろうなあ、と思う。せっかく、馬になったんだから、もっと暴走してほしいよ。こんなところでやめちゃうの? 「現代詩」になっていないんじゃない? そう言いたくなってしまう。
 とっても、おもしろいのに。
 でも、細見は言及していないのだけれど「人間らしい情欲」って何だろう。
 うーん、私は、馬と人間をごっちゃにするような情欲こそ「人間らしい」と思う。というのも、きっと馬は人間のセックスを見ても欲情しないだろうと思うから。(馬じゃないから、わからないけれどね。)
 自分ではないもの、無関係なものに、ふっとひきずられ、その「情欲」を生きるなんて、人間にしかありえないと思うなあ。
 そして、これは、ちょっと考え直してみると、ある文脈の中のことばを、別の文脈のなかで暴走させる「欲情」をもつというのも、「人間」ならではのことなんだろうなあ、と思う。スピノザは、真面目に「哲学」している。その哲学から「硬い」「軟らかい」だけをひっぱりだしてきて、セックスに書き直すというのは、「人間の情欲」なんだと思う。そうすると「現代詩」は「人間の情欲」にあふれている言語、ということになるなあ。おもしろいなあ。

 で、これは細見が作品のなかで実際にやっていることなのだけれど、そういう視点から『エチカ』を読み直すと、どこかに「人間の情欲」が暴走した部分はない? 見つかるんじゃない。あるんですねえ。細見によれば「嫉妬」について触れた部分。

愛するものの表象像を他人の恥部および分泌物と結合せざるをえないがゆえに愛するものを厭うであろう。」(同上、二〇六ページ)
この「分泌物」ってもちろん精液のことですね
「恥部」の原語はpudentum--辞書には医学用語で「女性の外陰部」とありますから

 あ、細見はスピノザに負けてるじゃないか、スピノザの方が「現代詩」してるじゃないか、と思ってしまう。「哲学」を男と女のセックスの関係で言いなおしている。いや、ちがった。セックスを「哲学用語」で書いている。ポルノ(?)をやっている。他の文脈でつかれている言語を引っぱってきて、独自の「意味」を持たせて世界を語り直す--そういうことをもうスピノザはしてるじゃないか。細見はスピノザに、負けてしまっている。 なぜ、あとからやっても(後出しじゃんけんでも)負けてしまうのか。
 やっぱり、馬の部分で「馬のような情欲に駆られて咬み合い交わっている愛しい人間」と書いてしまったせいだな。自分を出さずに、客観的を装ってしまった。これが失敗。スピノザは逆に「哲学」という「客観(?)」を書くふりをして自分を出している。男を出している。男根主義を丸出しにしている。「馬の情欲」「分泌物(精液)」ということばが端的にそれをあらわしている。馬ではなく「兎の情欲(ペニスが小さい言われている)」を選んでいたら、『エチカ』はきっと違ったものになっただろうねえ。



 最後に、ちょっと脱線(?)。
 きのう、川田果弧「ピアノフォルテ」の作品に対する感想を補足する形で、定型詩と「緩急」の問題について少し書いた。口語とセンチメンタル流通言語のぶつかりあいでは「緩急」が甘くなりすぎる。もっと異質なものがほしい、というのが私の願望だけれど、というようなことを書いた。
 で、細見の詩を読みながら、あ、これだね、と思った。
 口語と哲学用語のぶつかりあい。それを定型詩にすると、おもしろいだろうなあ。細見が書いている『エチカ』と「エッチ」、哲学用語にセックス言語をぶつけ、加速させる。それを「自由詩」ではなく「定型詩」で書く。これは、きっとおもしろい。
 エッチ、セックスというのは「枠」をはずした瞬間におもしろくなる。「哲学用語」はあくまで厳密に「枠」を外れないことが論理の基本。「意味」をきちんと踏まえるのが「論理」。その論理の運動にセックスが割り込み、なおかつ、体裁そのものは「哲学(定型)」というのは、いいだろうなあ。


闇風呂 (〈1〉)
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澪標
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