詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

坂多瑩子「消息」

2014-03-04 11:09:01 | 詩(雑誌・同人誌)
坂多瑩子「消息」(「4B」7、2014年03月10日発行)

 坂多瑩子の作品についての感想は、先日書いたばかりだ(と、思う)。私はすけべなのでできるだけ多くのひとのことばと交わりたいという欲望があるのだが、「消息」を読んでしまったら、突然、感想を書きたくなった。(それまでは、違う作品について書くつもりだったのだが。)
 一連目。

保安官になった夜だ
迷い込んだ若い男を追ってへやに入ると
息子だった
息子の顔は初恋の男の子の顔だ
どうしてこんなことになるのか
輪ゴムでとめたドル札を握らせる
途中で目がさめた
逃がしてやった息子は暗い夜道を歩いているだろう

 夢を書いているのだが。
 私が思わず書かずにいられないと欲情してしまったのが、

どうしてこんなことになるのか

 この一行。
 夢というのは理不尽で、とても奇妙なずれが、輪郭をなくしたままずるずると動いて何かが入れ代わる。この詩の場合、若い男が息子に、息子が初恋の男の子にすりかわる。(この「男の子」という表現は、私は引用するまでは「初恋の男」と読んでいた。転写して「男の子」か、と驚いたのだが、それを書いてると脱線してしまうので……)
 で、そういうとき、だれもが夢のなかで「どうしてこんなことになるのか(こんな具合に何かが入れかわってしまうのか)」と思いながら、さらに夢を見つづける。夢だな、とわかりながら、夢を見つづける。この一行は、そういうだれもが思うことを、そのままことばにしている。
 でも、私はびっくりしたのだ。
 なぜかというと、そういうことは思うけれど書かない。「どうしてこんなことになるのか」というのは何度も何度も感じてきて、あまりにもあたりまえの感想である。もう自分の「肉体」のなかにしみ込んでいて、ことばにしなくても「なんでこんなことになるのか」と思っている。確かめる必要がない。だから、夢を書くとき、だれもがそのことばを省略してしまう。
 それが、ふいに、ここに噴き出してきている。
 理不尽な夢を見るたびにいつも感じているにもかかわらず、突然「あ、そうか、どうしてこんなことになるのか」と私は思っていたのか--と思い出してしまうのである。
 坂多の息子の顔も、坂多の初恋の男(の子)の顔も私は知らないが、「どうしてこんなことになるのか」と思う気持ちははっきりと「わかる」。で、その「わかる」があるために、デタラメな夢が突然リアルに迫ってくる。
 もしこの一行がなかったら、私はこの詩を読みとばしていただろう。読んでも、なんとも思わなかっただろう。変な夢。なぜ、保安官? 西部劇の見すぎ? くらいのチャチャをいれておしまいだっただろう。

 ことばを読む、というのは、どんな新しいことばを読むときでも、「わかっていること」だけを読む。ほんとうに新しいこと(知らないこと)は、読んでもわからない。「わかっていること」というのは「肉体」が体験して「おぼえていること」である。人は(少なくとも私は)、「わかる」ことだけをたよりに、ことばを読んでいる。
 で、この「わかっていること」というのは、しばしば、書くのがとてもむずかしい。自分ではわかりきっているので、そのことばを省略しても、自分のなかでは何の問題もない。
 この詩の場合、そのその1行を省略しても、夢の内容(意味)は少しもかわらない。坂多は保安官になって若い男を追いかけた。その男は息子になって、初恋の男(の子)になって、それから、坂多はその男に輪ゴムで止めたドル札を渡した--という内容はかわらない。
 けれど、内容がかわらないにもかかわらず、意味が変わらないにもかかわらず、突然、おもしろくなくなる。単なる理不尽な夢だ。
 詩は、内容(意味)ではないのだ。
 内容(意味)を逸脱していく何かなのである。
 この詩の場合、「どうしてこんなことになるのか」。で、これは、これだけではちょっと「共有」のしようのないことばである。
 感動しながら、こんなことを書くと変だけれど、この一行に感動しているとき、私はそこにことばを補っている。

どうしてこんなことをしているのか、と思う

 「思う」という動詞を補い、その動詞のなかで坂多のことばと交わっている。書かれていない「思う」という動詞そのものと交わっている。「思う」になってしまっている。
 そのとき、私が坂多の「思ったこと」を正確に「思っている」かどうかはわからないが、「思う」ということばのなかで、私は坂多を感じる。そこに「いる」と感じる。「我思う、ゆえに我あり」ではないけれど、そこに「思う」坂多が「いる」。そこに「肉体」がある。

 それにしても不思議だなあ。
 私は常々他人の作品を読むとき、そこにキーワードを探して読む。キーワードというのはその人にとってあたりまえすぎてたいてい省略されるものである。省略しても省略したことがわからないことばがキーワードである。つかわれるのは、それがないと文章がつながらないような、ちょっとした「無理」に出合って、それでもことばが動いていこうとするときにあらわれるものである。そういうことばに出合うと、その人の秘密をつかんだようで、わくわくする。そこをつっついてどんな反応が広がるのか確かめたくなる。ことばのセックスが、そこから始まる。ことばのすけべが暴走しはじめる。そういうものを探すのはとても楽しい。
 私は、これまでずーっとそう思っていた。
 ところが、それとは別のキーワードもあるらしい。それはこの詩の「どうしてこんなことになるのか」のように、だれもが思っている、あまりにも何度も思いつづけて、ことばにすることを忘れてしまったことば、いわば「共有されたキーワード」というものがある。人間に共通のキーワードがある。
 キーワードにであったとき(キーワードを見つけたとき)、私はその詩人とほんとうに出合った感じがする。「肉体」を感じる。
 「共有されたキーワード」に出合ったとき、それとは逆な感じがする。坂多に出合っているのは出合っているのだが、むこうから捕まえとられた感じ。私の肉体の急所をつかまれた感じ。どきっ、とする。

 そうなると、あとは、もうされるがまま。自分の肉体なのに自分ではコントロールできない。ただ坂多のことばの動いていくままについていくだけだね。だらしないね。でも、こんなふうにだらしなく他人のことばに身を任せるというのは気持ちがいいなあ。
 で、その詩の後半、何が書いてあるか。
 それは、ここでは省略。
 私がどんなふうに快感におぼれたか--それは「4B」で、それぞれ確認してください。




ジャム 煮えよ
坂多 瑩子
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西脇順三郎の一行(106 )

2014-03-04 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(106 )


「トゲ」

トウガラシが醍醐寺の塔のように

 トウガラシという自然の小さなものと醍醐寺のとりあわせ--こういう組み合わせに出合うと、確かに詩は異質なものの出会いなのだと思う。
 この一行のなかには濁音が美しく響いている。また「トウ」がらし、と「塔(とう)」の音の重なり、引きのばれれる声のよろこびがあって、さらに「のように」にそれがつながっていく。「……のように」というのは、まるで小学生の「比喩」のような書き方だが、その「よう」が音としても美しく響くところが西脇の特徴だろう。
コメント (1)
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