ガシュペル・ビウシェク「おばあちゃん」(管啓次郎訳)(「現代詩手帖」2014年03月号)
ことばを読むとき、人はどういうことをしているのだろう。ガシュペル・ビウシェクはスロベヴェニアの詩人。どういうことばで書いているのか、私は知らない。私は管啓次郎の訳(日本語)で「おばあちゃん」を読む。そのとき、私は、ことばをどう読んでいるか。
おばあちゃんの姿が見えてくる。その姿が見えてくるとき、たとえば「管理人」「認識の門番」はそのまま「管理人」「認識の門番」ではない--というのは、変な言い方だが。私は「管理人」をそのまま「名詞」としてつかみ取っていない。「(アパートの)管理人」が住人にあれこれ注意している姿を思い浮かべる。「泥道を歩いてきたまま、エレベーターにのったら困ります。靴の泥を落としてからのって」と注意する、こごとを言う、そういう「動詞」としてつかみとって、「あ、そういう人いるなあ」と思う。「認識の門番」も「あんたの言うことは間違っているよ」とぶつくさ批判するというような「動詞」としてつかみとって、「お年寄りは、自分の知っていることにこだわる。がんこだよあな」と思う。頑固に自分を主張するという「動詞」として「おばあちゃん」に近づいていっている。
おばあちゃんはが知らせるのは、いつも悪いニュースばっかり。悪いニュースを伝えるという「動詞」がおばあちゃん。「胃が痛いんだ。あした死んでしまうよ」と内臓(肉体)のあれこれに不平をいいながら、くらい顔をしている。トランジスタラジオという比喩からはおばあちゃんがちっちゃい、体が小さいということがわかるが、そういう「姿」よりも、おばあちゃんの行動が「わかる」。この「わかる」は誤解かもしれないけれど、私の知っている老人の行動に共通するものがある。
形よりも行動(動詞)が似ている。動詞が共通する。
私はことばをつかむとき、いつも「動詞」でつかんでいるのだと気がついた。いろいろな名詞にはわからないものがあるが、「動詞」にはわからないことばがない。どんな外国語でも「動詞」は「わかる」。それは「肉体」でなぞりなおすことができる。
アパートの管理人が住人に文句を言っている。そんなことをされたら私の仕事が増えるばっかりと苦情を言っている。その具体的な苦情の内容はわからなくても、管理人が住人に何かを言う。そのときの、声の出し方、体の動かし方--そういうものから、「苦情を言っている」ということが「わかる」。私は「ことば」を正確に反復できるようになる前に、「動作(動詞)」で、そのひとの「思い」をつかみとる。これは私だけではなく、あらゆる人間がすることだと思う。赤ちゃんは、ことばがわからないまま(自分では反復できないまま)、それでも親のいうことが「わかる」。他人のしていることが「わかる」。子供は「知らないことば」を聞きかじりながら、そのことばといっしょに動いている人間の、その動きを見ながら、徐々に「意味」をつかみとるのと同じだ。
で、詩には、そういう「動詞」があると、とても親しみやすいもの、あ、この詩はいいなあ、好きだなあという気持ちになる。
そういう気持ちになって、その細部をみていくと……。
おばあちゃんは「育てる」人なのだ。「管理人」「認識の門番」というのは、単に住人に苦情を言っているのではない。自分の知っていることにこだわり我を張ることではない。「おばあちゃん、そういう認識(考え方)は古いよ、まちがっているよ、いまはこうなんだよ」と反論しても、あるとき、あ、おばあちゃんの言っていたのはこういうことだったのかと「わかる」ときがある。それは、おばあちゃんのことばを聞いた人が、それが「わかる」までに育ったということなのだ。おばあちゃんは、自分以外の人を育てる。悪いニュースを知らせるのも、(そしていっしょに悲しむのも)、体が痛いよ死んじゃうよと訴えるも、不平を言っているだけなのではない。それは、やっぱり子供を、孫を、そして近所の人を「育てる」のだ。やがて、だれもがおばあちゃんのようになる。おばあちゃんになれるよう、おばあちゃんは人間を「育てる」。
そして、
夜を明るく照らす。暗いとき、ひとの支えになる。その「支える」もまた、おばあちゃんは人に手本を見せ、見せることで他人を「育てる」。
人は「育つ」ために何をしなければならないのか。
なんでもしなくてはならない。秘密を抽き出しに隠すことも。動物や花の世話をすることも。「する」ことが「育つ」ことである。「した」ことだけ、人は「育つ」。しなかったことは「肉体」に跳ね返って来ない。
鋤で畑を耕す。その苦労が、肉体に跳ね返って、顔の皺になる。畑(大地)という「無情/非情」に働きかけ、それがおばあちゃんの「肉体」の「情(表情、顔の表にあらわれた感情)」になる。苦労が皺を育てる。畑を育てるということは自分が「育つ」こと。
「育つ」ために「育てる」。
ここに書かれているのはスロヴェニアのできごと。日本のできごとではない。けれど、そこに書いてあることが「わかる」。「わかる」のは、こういうことばにたどりつく前に、何度も何度も「動詞」を私が潜り抜けるからである。「動詞」を潜り抜けながら、だんだん「おばあちゃん」になり、その「おばあちゃん」を書いているガシュペル・ビウシェクになる。おばをちゃんを見ながら「育った」ガシュペル・ビウシェクになっているからである。
そして、そこにおばあちゃんと孫、人間と人間の関係、育て、育てられ、学んで生きるという「動詞」が見えてくるからである。
私はいつでも「動詞」を読む。「名詞」ではなく。
ことばを読むとき、人はどういうことをしているのだろう。ガシュペル・ビウシェクはスロベヴェニアの詩人。どういうことばで書いているのか、私は知らない。私は管啓次郎の訳(日本語)で「おばあちゃん」を読む。そのとき、私は、ことばをどう読んでいるか。
おばあちゃん、あなたは管理人であり認識の門番、悪い報せを伝えるトランジスタラジオ、救いがたいメランコリーに囚われて、臓器の機械、すべてを育てる人、満月の人。
おばあちゃんの姿が見えてくる。その姿が見えてくるとき、たとえば「管理人」「認識の門番」はそのまま「管理人」「認識の門番」ではない--というのは、変な言い方だが。私は「管理人」をそのまま「名詞」としてつかみ取っていない。「(アパートの)管理人」が住人にあれこれ注意している姿を思い浮かべる。「泥道を歩いてきたまま、エレベーターにのったら困ります。靴の泥を落としてからのって」と注意する、こごとを言う、そういう「動詞」としてつかみとって、「あ、そういう人いるなあ」と思う。「認識の門番」も「あんたの言うことは間違っているよ」とぶつくさ批判するというような「動詞」としてつかみとって、「お年寄りは、自分の知っていることにこだわる。がんこだよあな」と思う。頑固に自分を主張するという「動詞」として「おばあちゃん」に近づいていっている。
おばあちゃんはが知らせるのは、いつも悪いニュースばっかり。悪いニュースを伝えるという「動詞」がおばあちゃん。「胃が痛いんだ。あした死んでしまうよ」と内臓(肉体)のあれこれに不平をいいながら、くらい顔をしている。トランジスタラジオという比喩からはおばあちゃんがちっちゃい、体が小さいということがわかるが、そういう「姿」よりも、おばあちゃんの行動が「わかる」。この「わかる」は誤解かもしれないけれど、私の知っている老人の行動に共通するものがある。
形よりも行動(動詞)が似ている。動詞が共通する。
私はことばをつかむとき、いつも「動詞」でつかんでいるのだと気がついた。いろいろな名詞にはわからないものがあるが、「動詞」にはわからないことばがない。どんな外国語でも「動詞」は「わかる」。それは「肉体」でなぞりなおすことができる。
アパートの管理人が住人に文句を言っている。そんなことをされたら私の仕事が増えるばっかりと苦情を言っている。その具体的な苦情の内容はわからなくても、管理人が住人に何かを言う。そのときの、声の出し方、体の動かし方--そういうものから、「苦情を言っている」ということが「わかる」。私は「ことば」を正確に反復できるようになる前に、「動作(動詞)」で、そのひとの「思い」をつかみとる。これは私だけではなく、あらゆる人間がすることだと思う。赤ちゃんは、ことばがわからないまま(自分では反復できないまま)、それでも親のいうことが「わかる」。他人のしていることが「わかる」。子供は「知らないことば」を聞きかじりながら、そのことばといっしょに動いている人間の、その動きを見ながら、徐々に「意味」をつかみとるのと同じだ。
で、詩には、そういう「動詞」があると、とても親しみやすいもの、あ、この詩はいいなあ、好きだなあという気持ちになる。
そういう気持ちになって、その細部をみていくと……。
すべてを育てる人、
おばあちゃんは「育てる」人なのだ。「管理人」「認識の門番」というのは、単に住人に苦情を言っているのではない。自分の知っていることにこだわり我を張ることではない。「おばあちゃん、そういう認識(考え方)は古いよ、まちがっているよ、いまはこうなんだよ」と反論しても、あるとき、あ、おばあちゃんの言っていたのはこういうことだったのかと「わかる」ときがある。それは、おばあちゃんのことばを聞いた人が、それが「わかる」までに育ったということなのだ。おばあちゃんは、自分以外の人を育てる。悪いニュースを知らせるのも、(そしていっしょに悲しむのも)、体が痛いよ死んじゃうよと訴えるも、不平を言っているだけなのではない。それは、やっぱり子供を、孫を、そして近所の人を「育てる」のだ。やがて、だれもがおばあちゃんのようになる。おばあちゃんになれるよう、おばあちゃんは人間を「育てる」。
そして、
満月の人
夜を明るく照らす。暗いとき、ひとの支えになる。その「支える」もまた、おばあちゃんは人に手本を見せ、見せることで他人を「育てる」。
人は「育つ」ために何をしなければならないのか。
紙でいったい何を包んでいたの。秘密の抽き出しに整理して。花や傷ついた動物たちの世話係、夢のねずみとり、知ったかぶりでお天気予報、猫の目占い師、世界のブランコ、血管の浮き出た手。鋤があなたの顔を耕した。杖をもち、不死身。夜を徘徊する昔話の亡霊、子供の目にはバウバヴ(おばけ)。錠剤好き、民間療法も。
なんでもしなくてはならない。秘密を抽き出しに隠すことも。動物や花の世話をすることも。「する」ことが「育つ」ことである。「した」ことだけ、人は「育つ」。しなかったことは「肉体」に跳ね返って来ない。
鋤で畑を耕す。その苦労が、肉体に跳ね返って、顔の皺になる。畑(大地)という「無情/非情」に働きかけ、それがおばあちゃんの「肉体」の「情(表情、顔の表にあらわれた感情)」になる。苦労が皺を育てる。畑を育てるということは自分が「育つ」こと。
「育つ」ために「育てる」。
あなたの言葉は魔法の世界の薬。被害妄想の反キリスト、羊歯の異教徒、浄火の炎に焼かれる魔女、この煙は稲妻のさきぶれ、農場を守る。子供時代なんかなかった人、青年時代だってなかった人、慈悲もなく、戦争の恐怖におののく、無名墓地の墓守、悪い血の生き証人、溌剌とした体の犠牲者。即興のお針子。士官のコートから結婚衣装を縫ってみせる。
ここに書かれているのはスロヴェニアのできごと。日本のできごとではない。けれど、そこに書いてあることが「わかる」。「わかる」のは、こういうことばにたどりつく前に、何度も何度も「動詞」を私が潜り抜けるからである。「動詞」を潜り抜けながら、だんだん「おばあちゃん」になり、その「おばあちゃん」を書いているガシュペル・ビウシェクになる。おばをちゃんを見ながら「育った」ガシュペル・ビウシェクになっているからである。
そして、そこにおばあちゃんと孫、人間と人間の関係、育て、育てられ、学んで生きるという「動詞」が見えてくるからである。
私はいつでも「動詞」を読む。「名詞」ではなく。
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