詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

陶山エリ「雨のカタコト」

2014-03-05 10:56:49 | 現代詩講座
陶山エリ「雨のカタコト」(「現代詩講座@リードカフェ、2014年02月26日)

 陶山エリ「雨のカタコト」には、いろいろな意見が出た。

もう雨の音をききたくないもう雨の音をきこえたくないもうきこえたくない雨の音をきこえたくないもう雨の音をもうビニール傘が降ってくるトウメイナサカナハウツクシイダカラデス

雨のカタコトを真似ている余白が濡れている重なりながら透明に憧れながら汚れている余ってしまったかもしれない音を漏れて記憶の嘘の夢を派生させていま嘆いているいつだってうつむいている物語の切れはしを降ってくるつかむ指さきはifのかたちに暈されながら力尽きてしまう前に決まってしまっているいま嘆いているあまりに余白がつづろうとしないのではないだからしりめつれつに雨の音からコンビニから逃がして透明な傘を空はいらない街から街へ泳げるのならばききたくない雨の音は街はもうトウメイナマチハキエルダカラデス


<受講生1>印象的。こういう日本語も「あり」なのだなあと思った。
<受講生2>ことば遊びのように見えて、そうではないのかもしれない。
      タイトルがいい。
<受講生3>句読点がないのがおもしろい。読んでみようという気持ちになる。
      雨に閉ざされている感じがする。
<受講生4>「きこえたくない」という日本語、これでいいのかなと思った。
      句読点がないのが雨の降り続いている感じ。視覚的。
<受講生5>「ききたくない」「きこえたくない」とことばをまわしていっている。
      それがカタコトに収束していっている。
      不安感、自分を逃がしたい、けれどまだそこにいる感じ。
      自分をからませながら、ことばを書いている。

 「ききたくない」はだれもがいうが、「きこえたくない」とは普通はいわない。そこにまずだれもがつまずく。
 「ききたくない」の主語は「私」になる。そして「ききたくない」のなかには「動詞」が二つある。「聞く」と「したくない(欲望)」。「きこえたくない」のなかにも「動詞」がふたつ。「聞こえる」と「したくない(欲望)」。これも欲望の方に主力を置くと、主語は「私」になる。
 そうすると、問題は「聞く」と「聞こえる」の違い。
 私たちは、その両方をつかうが、どう違うのだろう。「聞く」と「私」が主体的に動いている。耳を傾けて「聞く」。ところが「聞こえる」では「私」は主体的ではない。耳をすまさなくても「聞こえる」、耳をふさいでも「聞こえる」。
 「聞く/聞こえる」というのは「音」があってはじめて成り立つ動詞だが(沈黙を聞く--などというのは、ひねくれた表現なのでここでは除外しておく)、その「音」というのは自分で出すものもあるが、自分以外のものが勝手に(?)出す音もある。「他者」がつくりだす音というものがある。
 その音が「聞こえる」、でも「聞きたくない」。そこから一歩進んで、その「聞こえる」そのものを否定したい。「聞こえる」という状態を拒絶したい。
 で、その「聞こえる」を拒絶するには、ふたつの方法がある。ひとつは音の発生源を断ってしまう。もう一つは「聞く」側の、つまり「私の」受動器官が働かないようにしてしまう。その簡単は方法は、耳をふさぐことだが……
 そうすると「きこえたくない」は「聞きたくない」とどう違う?
 私は、「感覚の意見」で断定するのだが、 「聞きたい」というのは「感情」の欲望である。感情が主体になって欲望を動かしている。それに対して「聞こえたくない」というのは「感情」ではなく、受動器官(肉体)の欲望である。「肉体」がいやがっているのである。
 それを聞くと気持ちがいい--は感情。それが聞こえるといやな感じになる。「聞こえる」そのものを否定したいは肉体の欲望。
 でも、聞いて気持ちがいいというのは気分だけではなく肉体ものじゃないかな? 聞こえるといやというのは肉体の感覚だけではなく、気持ちも含まれているんじゃないのかな?
 こういうことは、ことばで追いつづけると、どうも同じところをぐるぐるまわってしまう。だいたい「感情(精神)/肉体」という「二元論」で、そういう問題を片付けようとすると、どうしても変になる。感情(精神)と肉体は「ひとつ」になって動いているからね。
 あ、脱線しそう。
 飛躍して言うと、感情(精神)と肉体が複雑に絡み合っていて、解きほぐせない。そういうことを私たちはどこかで知っていて、どんなときでも「聞きたくない」という言い回しで押し通して来たのかもしれない。ごまかしてきたのかもしれない。
 その、ふつうにごまかして生きている部分へ陶山はぐいと、はいっていく。
 受講生のひとりが言った「自分をからませている」というのは、そういうことかもしれない。
 で、やっぱり、ここにこの詩のいちばんのおもしろい部分、陶山の「肉体(思想)」がでている。
 陶山の詩(ことば)は、どこかず「ずるずるずる」とずれていくが、その「ずれる」という動きの中心(奥底?)には、「二元論」では整理できない「肉体/感情(精神)」の問題が絡んでいる。
 さっきも書いたが、これは追い詰めると、とても面倒くさい。
 こういうとき、陶山はどうするか。

もう雨の音をきこえたくないもうきこえたくない雨の音をきこえたくないもう雨の音をもう

 繰り返される「もう」。「もう」を繰り返すことで押し切る。「もう」としかいいようのない「欲望」を陶山はここでは語っている。「もう」を言いなおすことは、とてもむずかしい。だれもが知っている。でも、その「もう」がどれくらい強いかは、説明できない。「もう、もう、もう、もう……」この密集した感じ。それが「雨」のようにつづくのである。そこには、句読点がはいる余地がない。
 そして、この「もう、もう、もう、もう……」こそが、実は、「カタコト」である。正確に言えない欲望のすべてである。「もう」をただ、そこにある「肉体」として受け止めるしかない。

 昔の現代詩(?)ならば、きっとこの「もう」を追いつづけるのだけれど、陶山は陶山のカタコトにしかならない欲望を、少し(かなり?)、ずらして見せる。「他人ごと」のように、ぱっとずらして、別なものを見せる。それは、もしかすると、「もう」のあいまいな何かを照らしだすサーチライトか、化学反応で結晶させるための触媒かもしれない。
 「もう」と「きこえたくない」を置き去りにして、この詩でどこがいちばん印象的か受講生に聞いてみた。すると

ビニール傘が降ってくるトウメイナサカナハウツクシイダカラデス

 とくにカタカナの部分が印象的という声が圧倒的に多かった。そのことばは確かにカタコト(日本語らしくない)に聞こえる。「透明な傘(ビニール傘)」と「透明な魚」、「カサ」と「サカナ」が読み違い、言い違い、外国語の似たことばのように交錯する。
 私はこの「カサ/サカナ」のいい間違いがとても気に入っているのだが、ちょっと別なことが気になって、質問してみた。

<質  問>「トウメイナサカナハウツクシイダカラデス」言いなおすとどうなる?
      ふつうの日本語なら、どういう?
<受講生1>美しい、だからです。
<受講生4>美しかったからです。
<受講生5>美しい、で一呼吸おいて、だからですと言うかなあ。

  私は、そんなふうには読まない。そこで

<質  問>彼女は美しいは英語でなんて言う?
<受講生5>she is beautiful.

「彼女は美しい」と「she is beautiful」のいちばんの違いは、日本語は「美しい」が「形容詞」であると同時に「用言(動詞)」であること。英語は形容詞「beautiful 」だけでは不完全。動詞「is」を必要としている。文章には「動詞」が必要であるという意識があるために、英語圏の人は、「彼女は美しいだ」のように「だ」をくっつけてしまう。その「だ」は「is」なのだ。
 だから、「トウメイナサカナハウツクシイダカラデス」は「透明なサカナは美しいからです」というのがカタコトの日本語を、ふつうの日本語になおしたときの表現である。
 その上の「ビニール傘」とょ関連で言うと、ヨーロッパの人にはコンビニで売っているビニール傘が任期である。それはヨーロッパにはない。透明で美しい。それが彼らの感想。
 なぜビニール傘が好きなんですか?「透明な傘は美しいからです」。(サカナは日本人がこの文章を読んだときに、上のビニール傘にひきずられて「トウメイナカサ」き読むように仕掛けられた陶山の罠である。)
 他の受講生と比較するようなことを書いて申し訳ないが、陶山は、とても耳がいい。それが、問題の行にはっきりあらわれている。詩のなかで読むと、すっと読んでしまうのだけれど、きっと外国人と話していて、ビニール傘がどうして好きなんですか? と質問し、「トウメイナカナハウツクシイダカラデス」と聞いたとき、私たちは瞬間的に「だ」を省略して「ウツクシイカラデス」と判断する。そして、そのことばを文字に再現するとき、「美しいからです」と整理してしまう。これはことばの経済学上どうしてもそうなるのだが、陶山は、そこでふんばって、ことばを音に、「肉体」にもどして、「ウツクシイダカラデス」と書くことができる。
 このことばと「肉体」の関係、ことばの肉体感覚が陶山の詩をおもしろいものにしている。

 この詩に不満があるとすれば、2連目の「記憶の嘘の夢を派生させて」「余白がつづろうとしない」というような、「肉体」というよりも「精神」のことばがはいり込んでくるところである。もっと「肉体」によりそうと、ことばはさらにおもしろくなる。

詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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西脇順三郎の一行(107 )

2014-03-05 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(107 )


「郷愁」

女のようにホホホホホと笑つた

 これは単に笑った「森先生」を描写しているのではない。「ホホホホホ」とていねいに「ホ」を五回繰り返している。「意味」ではなく、「ホ」を五回音にしたかったのである。
 その音のこだわりのまえに「郷音」(土地の訛り)のことを書いているが、それも印象的だ。西脇は、標準語の音よりも「人間」の生の声、声がもっている音が好きだったのだと思う。それが、この「ホホホホホ」にも出ている。
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