詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(6)

2014-03-28 23:59:59 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(6)          2014年03月28日(金曜日)

 「ろうそく」は死者にささげる灯明を描いているのだが、老いた男色家の自画像のようにも見える。ろうそく暖かい輝きに目がゆき、その描写をしがちである。カヴァフィスも一連目では「金色に輝く」と書いているのだが、それは二連目以降の弱々しいろうそくを対照的に浮かび上がらせるためである。

過ぎた日 過去に置き去った日は
燃え尽きたろうそくの陰々滅々の列。
いちばん手前のは まだくすぶっているが
曲がって 溶けて もう冷たい。

 まだ、死なずに生きている。だから死者に灯明をささげることができるだが、思い出すのは過ぎ去った日々。「置き去った日」というのは、「老人」の「楽しまずに過ごした歳月」を思い起こさせる。あるいは「強く賢く見目よかった時」を思い起こさせる。その記憶があるからこそ、最後の火をともしながら、形がくずれてしまったろうそくが目にさわる。「もう冷たい」がきびしい。火がともっているのだから冷たくはないはずである。熱があるはずである。しかし、「もう」を感じ取っている。詩人とは、現実にあるものをとおして、これから起こることを見てしまう人のことである。
 カヴァフィスは、これから起きる老年をろうそくに見ている。

見たくない、過ぎた日のろうそく。恰好も悲しい。
もとの光を思えば いっそう悲しい。
私は前を見る、私の燃えて輝くろうそくを。

ふりむきたくない。見たくない、怖い。
黒い列がなんと速く伸び、
なんと早く また一本 死んだろうそくが仲間に加わることか。

 「もとの光」の「もとの」は「過去の」という意味と同時に「本来の」という意味を含んでいるだろう。「過去の」輝きこそ「本来の」輝きである。それに対して「いまの」輝きは「本来のものではない」。「怖い」というのは、年をとると「本来」ではなくなるということをも意味する。ほんとうのカヴァフィスを失っていく、「本来」を失うことが怖いのである。
 最後の「仲間」ということばが、ろうそくを「もの」から「人間」にかえる。そして、そこに男色のかなしい秘密がある。単なる「列」ではないのだ。共有した秘密があるのだ。それが「列」を「仲間」にかえる。
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白井知子「落とし主はだれでしょうか/お母さん」

2014-03-28 09:39:24 | 詩(雑誌・同人誌)
白井知子「落とし主はだれでしょうか/お母さん」(「幻竜」19、2014年03月20日発行)

 白井知子「落とし主はだれでしょうか/お母さん」は5つの部分から成り立っている。そのうちの「(エルベ河をさかのぼる)」。

ドイツ東部のドレスデン
第二次大戦末期 連合軍から 徹底した無差別爆撃をうけ
中心部は ほぼ灰塵にきした街
あなたは ドレスデンを流れるエルベ河を
船でさかのぼったとき
花柄の大判のスカーフを手すりに巻きつけてしまい
そのまま忘れてきたと 残念がっていた
それを 大事にたたんで
とあるリトアニアの青年が自宅まで持ちかえり
ユリさんかしら リナさんかな 母親への誕生日 驚かせようと
錆びた電気スタンドを磨き
あなたのスカーフは
息をのむような
華やかなショールになっている

 「あなた」と呼ばれているのは、詩の全体を読むと、最初の部分に書かれている「マダム・ヴィオレ」ということになるかもしれない。しかし、名前にこだわる必要はないだろう。詩のなかでも、青年の母親は「ユリさんかしら リナさんかな」と特定はされていない。「お母さん」でいい。お母さんは、方々で忘れ物(落とし物)をする。してしまった。そういう話を娘に語る。娘はそれを思い出して、ことばに書きこめた。それが、この詩。詩を書きながら、白井はだれであるかわからないひとから聴いたことを思い出しているのかもしれない。もしかしたらその娘に会って、母の思い出話を聞かされたのかもしれないが、それはほんとうにその娘の母の話だったのか、あるいは娘が母から聴いただれかの話だったのか、わからない。わからなくてもいいのである--と書くと、白井に叱られるかもしれないけれど、実際にあったことを書いているのだと抗議を受けるかもしれないけれど。
 わからなくてもいい。だれの体験かわからなくてもいい。
 スカーフを船の手すりに巻きつけて(風が強かったのか、あまりにも晴れ渡っていて暑かったのか)、それをそのまま忘れてしまった。その忘れていったスカーフが拾われてスタンドのシェードになった。その「こと」と「スカーフ」がわかればいい。スカーフがシェードにしたくなるような美しいものだった、と想像できればいい。スカーフの美しさを、なんとかスカーフ以外の形にしてあらわしてみたいと思った青年がいた、ということがわかればいい。
 それでは、スカーフを忘れてしまった「おかあさん」がかわいそう? そうかもしれない。しかし、違うことも考えられる。

 世界は 未知の人と人とのつながりが
 ほのかに さりげなく ひそんでいる
 淡い微光が さらさらと 流れてくる

 「もの(スカーフ)」が動いていくとき、そこに「人と人とのつながり」がある。その「人」が互いに「未知」であっても、つながっていく。そのとき、人は人を知らないだけではなく、実は、その「つながり」そのものをも知らない。スカーフが「どんな形」で利用されているか、スカーフが何に変化しているかも知らない。世界は「未知」へと動いてく。その動きに人は知らずに参加している。
 こういう理屈(説明?)は書かなくてもいいことかもしれない。書かずに、読者の想像に任せればいいことかもしれない。
 けれども、白井は書きたいのだ。
 「未知の人と人とのつながり」を書きたい。だから、そのあとの部分でも、ある物語が書かれたあと「未知の人と人とのつながり」に似たことばが必ず書き添えられる。一度書けばわかることでも、何度でも何度でも書きたい。
 人のキーワードにはあまりにも肉体になってしまっているために書き忘れてしまうものと、何度書いても書いたことを忘れてしまうほど繰り返してしまうものがある。「さっき、それ聞いたよ」「えっ、そうだった?」という感じである。ことばにした感覚がない。ことばという感覚がない--という意味では、一度も書かれないことばと同じなのである。
 では、なぜ、書いたことを忘れてしまうのだろう。
 「未知の人と人とのつながり」と白井は書いているが、そこには「他人」が動いているだけではないのだ。スカーフを忘れたお母さんと、それを拾った青年が互いに未知であり、その二人が「つながり」をもっただけではないのだ。そこには青年の「おかあさん」もつながってくる。そして何よりも、そのことを書くことで白井自身が「つながり」のなかに含まれてしまう。この無意識の白井こそ、白井のことばこそが「つながり」なのである。「つながり」ながら、でも、そのとき白井は消えるのである。白井は、いない。無意識だから、消えてしまってもそのことに気がつかない。
 白井は、スカーフを忘れたお母さん、スカーフを拾った青年、シェードをプレゼントされたお母さん、スカーフそのものになっている。「つながり」、「つながる」という「こと」になってしまっている。
 「つながり」が白井の「肉体」。「つながり」に「なる」ということが白井の肉体のあり方。
 「つながり」という「肉体」になりたい、その、ことばにしないかぎり存在しない「肉体」、そういうものに突き動かされているから、何度でも書く。その瞬間その瞬間の「欲望(本能)」なのだ。本能は何度でも押し寄せる。
 「本能(欲望)」というのは隠していても見える。それは逆に言えば、「本能」というのは剥き出しにしていても、本人は剥き出しにしているとは気がつかないもののことである。
 こういう正直って好きだなあ。裸よりももっと裸でつややかだ。
 正直な本能というものは、iPS細胞のように、どんなものにもなりうる。別な存在になって、いちばん美しい形になって動いていく。別なものに「なる」というのがiPS細胞の本能であり、それを人は「可能性」と呼ぶ。
 本能(欲望)は可能性と同義語なのである。
 こういう正直というのは、それこそ「未知の人」にも直接つたわる。その人が「頭」で何を考えているかわからなくても、人は他人の本能(肉体)がわかる。腹が減っているとか、血を流して苦しんでいるとか、そういう肉体の動きは「動詞」そのものとしてつたわってくる。何になりたいかが、わかる。何か自分の知らないものに変わりうる「可能性」だとしたら、それに触れてみたくなるよね。それに触れれば、自分も変われる。iPS細胞を自分の肉体に組み込めば、自分の肉体の不十分なところがかわっていくという可能性……。その夢。
 そういうことにつながる「本能」を無防備のままさらして(?)、白井は世界の人と出会っているのだなあ、その出会いが詩のことばになるのだなあ。白井のあった人で、白井を嫌いという人はいないだろうなあ。私は白井とは面識がないけれど、白井のことばを読むと、そういう「正直」だけが触れあう出会いを目撃している(出会いに参加している)ような気持ちになる。                          



地に宿る
白井 知子
思潮社
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