詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(4)

2014-03-26 23:59:59 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(4)
          
 「祈り」は嵐の日の遭難と、息子の無事を祈る母の姿を描いている。

背の高いローソクに火をともした。
はやく帰ってきますように 海がなぎますようにと

祈り 風の音にも耳をそばだてた。
母がいのり こいねがう その間、

母の待つ子の永久に帰らぬを知るイコンは
じっと聴いていた、哀しげに 荘重に。

 「背の高い」ろうそく。そのその高さ(長さ)は母親の気持ちの深さと一致する。こころが「もの」として具体的に描かれている。気持ちを「もの」に代弁させている。ここに「劇」のはじまりがある。
 祈る母とその祈りを聞くイコンとの劇。
 イコンの方の描写でおもしろいのは、「母の待つ子の永久に帰らぬを知るイコン」という部分。「帰らぬを知る」が強い。これは「帰らぬことを知る」の「こと」が省略された形だが、「こと」という名詞が省略されているために、その「こと」が固まらない。不定形のまま「動いている(事件が起きている)」という印象が強くなる。
 中井久夫の訳には、こういうことばの省略が多い。論理的な印象を最小限に抑え、何が起きているのかを直接あらわそうとする姿勢が見える。
 その直前の「母の待つ子の」という「の」の連続が、また、興味深い。「母が待つ子の」「母の待つ子が」とは印象が微妙に違う。格助詞「が」がないと、だれが主格なのか一瞬わからなくなる。母と子が一体化して、分離できないということが、直につたわってくる感じがする。
 先に書いた「こと」のなかには、この「母と子」の一体となったものが含まれている。嵐の沖で起きていることは、世の中の「現象」としては息子の遭難(息子の溺死)であるけれど、母親にとっては、それは自分の溺死なのである。自分の溺死であるからこそ、「こと」という名詞で客観化できないのだ。
 そこでは、まだ事件は「完了」していない。つづいている。
 つづいているから、イコンは「じっと」している。「荘重」にならざるを得ない。

 二行一連の詩の構造だが、最後の連をのぞいては倒置法になっている。一行目に句点がある。最後だけ逆になっている。ただし、その最後の一行は、その行自体が倒置法になっている。このリズムの変化もおもしろい。「哀しげ」「荘重」というふたつのことばが、最後にろうそくの明かりのように浮かび上がる。

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高塚謙太郎「夏の思い出」

2014-03-26 11:02:52 | 詩(雑誌・同人誌)
高塚謙太郎「夏の思い出」(「ウルトラ」15、2014年03月20日発行)

 高塚謙太郎「夏の思い出」には、非常に印象的な1行がある。

うら声のひびきのいろとりどりは傘とひらくさ

 「意味」は、……考えない。「意味」というのはつくりだそうとすれば、いくつでもつくりだせる。この1行だけではな何のことかわからないのだけに、どこまでも気楽に「誤読」できる。
 とはいうものの。
 「誤読」したいという気持ちを起こさせる行と、そういう気持ちにならない行というものがある。この行は、非常に「誤読」をそそる。だから、こまっている。こまったまま、この1行が印象的と書いたのだが。
 何が印象的か。音である。
 「ら行」のゆらぎ、「ら行」が「ど」という濁音とまじりあい、音につややかさがあふれる。ひとによって発声(発音)の仕方はちがうだろうけれど、そしてT(D)の音は「ら行」をL、Rのどちらとも馴染むけれど、私の場合濁音(D=ど)のときはRの方がはるかに発音しやすい。Rの方が子音の発声する場所がのどの奥に近い。舌は口蓋の奥にひっこむ。濁音はのどの奥を膨らませる感じがあり、そのためにRが近しい感じになる。いっぽう清音(T=と)の方はLが馴染みやすい。TもLも、両方とも舌が歯の近くにやってくる。
 さらにいえば、私の場合、ら行をL、Rでつかいわけるとき、あとに来る母音によって発音の難易度(?)がかなりちがう。Rを巻き舌で発音しようとすると、「り」はかなり意識してしまう。「り」はLの方が発音しやすい(省力的に発音できる)。ただし、その前にDがあるとRの方が楽である。ひらがなで書いてしまうと、そしてそれを五十音図にあてはめてしまうと、この発声器官の問題はごちゃごちゃになるのだが……。アルファベットで書いてみると、「いろとりどり」は、私の発音では

I・LO・TO・LI・DO・RI

になる。「I・RO・TO・LI・DO・RI」もありえるけれど、「ろ」のつぎの「ど」を考えるとLの方が省エネ発音ができる。最後の「り」を「LI」で発音するときは、濁音の「ど」の子音「D」はかなり弱い音になってしまう。

 あ、なんだか、ごちゃごちゃと、わけのわからないことを書いているのだけれど。
 この音の交錯する感じ(音といっしょに肉体が微妙に交錯する感じ)が、「意味」そのものをもかきまぜる感じにつながる。「意味」を考える前に、私は、そこにある音に反応して「快感」を感じている。「肉体」の快感が先にあって、それから「意味」を考えるのである。(ここでは、まだ「意味」については何も考えていないけれど。)
 「うら声」が「ひびき」という濁音を含む音によっていったん「肉体」の内部にも反響したあと、「ひらくさ」と解放されるのも楽しい。
 --この「肉体のよろこび」(声を出すときよろこび、聞くときのよろこび)を、なんとか、この1行にからませたいなあ、どうすればからんでくるのかなあ……というようなことを考えたくなるのである。(と、書きながら、私は、まだ「意味」を考えていない。たぶん、これからあとも考えない。)

 その前の1行は

壷はいろがみの暗さにそうて笑うが

 なのだが、これも不思議だなあ。私の好みとしては、「いろがみ」の「が」、「笑うが」の「が」は鼻濁音でなければならないのだが、高塚はどう発音するのかな? 鼻濁音の場合、音がゆっくり「肉体」に広がっていくね。息といっしょに外に出るだけではなく、鼻腔に振動がしばらく残る。この感じと「そうて」の「う」がとても似合う。「そって笑うが」だったら「が」は破裂音でもいいけれど。

 どんどん脱線してしまうが。
 私は黙読しかしないのだが、黙読しながらも、その音を目以外の肉体は読んでいて、音が肉体に気持ちよくないと先へ進めない。音の聞こえて来ないことばは読むことができない。そして、音が聞こえると、それだけで何かを「誤読」したくなってくる。

くちびるが散ったのでつゆのあとさきも捻れて
はなびらを思い出し晴れに白くしろく吸いつく

 よくわからないが、そこには男と女がいて(同性であってもいいけれど)、肉体が近づいたり離れたりしている。ふれあっている。この「ふれあい」のなまなましい感覚が、発音の音の交錯にとても似ている。
 高塚が何(どんな意味)を書いているか、私にはわからないが、そのことばの「音」そのものが肉体となって、ふたりの人間をつないでいる。
 そう「誤読」してしまう。

まぶしい日曜日の朝のくらいいつも白いみたいに
そこまでさらっていくとぬれた微熱が折られて

 という3連目の2行は、それまでのふれあって、互いの体温を感じるような軟らかさを欠いていて(音もざらざらしていて)好きになれないが、

われたばかりの壷をひろって花ともえよう

はだらいろにいろづいた紙のほそいのどにふるえてろ

 というのも、音が肉感的だなあ。

 「お家たんじょう」の次の2行、

お米をといでおいてくださいなおこめをくださいな
念じるなかからひろがるわっわたしたちの家が

 の「おこめ」は「おめこ」と読んでしまいそう。読みたい。とういようなところから、「家」が見えてくる。「おめこ」ではな、「おこめ」だ、と高塚は叱るかもしれないが、私は気にしない。書き出しの、

目をこすって立っていろよ姉のゆびすじのごとく
入り婿をひらいたり閉じたりするそのゆびの

 これって、どうしたってセックスを連想させるからね。高塚の詩の、あることばの響きは「誤読」を誘ってなまめく力を持っている。
 これは高塚の魅力のひとつだね。
                          


さよならニッポン
高塚 謙太郎
思潮社
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