中井久夫訳カヴァフィスを読む(4)
「祈り」は嵐の日の遭難と、息子の無事を祈る母の姿を描いている。
「背の高い」ろうそく。そのその高さ(長さ)は母親の気持ちの深さと一致する。こころが「もの」として具体的に描かれている。気持ちを「もの」に代弁させている。ここに「劇」のはじまりがある。
祈る母とその祈りを聞くイコンとの劇。
イコンの方の描写でおもしろいのは、「母の待つ子の永久に帰らぬを知るイコン」という部分。「帰らぬを知る」が強い。これは「帰らぬことを知る」の「こと」が省略された形だが、「こと」という名詞が省略されているために、その「こと」が固まらない。不定形のまま「動いている(事件が起きている)」という印象が強くなる。
中井久夫の訳には、こういうことばの省略が多い。論理的な印象を最小限に抑え、何が起きているのかを直接あらわそうとする姿勢が見える。
その直前の「母の待つ子の」という「の」の連続が、また、興味深い。「母が待つ子の」「母の待つ子が」とは印象が微妙に違う。格助詞「が」がないと、だれが主格なのか一瞬わからなくなる。母と子が一体化して、分離できないということが、直につたわってくる感じがする。
先に書いた「こと」のなかには、この「母と子」の一体となったものが含まれている。嵐の沖で起きていることは、世の中の「現象」としては息子の遭難(息子の溺死)であるけれど、母親にとっては、それは自分の溺死なのである。自分の溺死であるからこそ、「こと」という名詞で客観化できないのだ。
そこでは、まだ事件は「完了」していない。つづいている。
つづいているから、イコンは「じっと」している。「荘重」にならざるを得ない。
二行一連の詩の構造だが、最後の連をのぞいては倒置法になっている。一行目に句点がある。最後だけ逆になっている。ただし、その最後の一行は、その行自体が倒置法になっている。このリズムの変化もおもしろい。「哀しげ」「荘重」というふたつのことばが、最後にろうそくの明かりのように浮かび上がる。
「祈り」は嵐の日の遭難と、息子の無事を祈る母の姿を描いている。
背の高いローソクに火をともした。
はやく帰ってきますように 海がなぎますようにと
祈り 風の音にも耳をそばだてた。
母がいのり こいねがう その間、
母の待つ子の永久に帰らぬを知るイコンは
じっと聴いていた、哀しげに 荘重に。
「背の高い」ろうそく。そのその高さ(長さ)は母親の気持ちの深さと一致する。こころが「もの」として具体的に描かれている。気持ちを「もの」に代弁させている。ここに「劇」のはじまりがある。
祈る母とその祈りを聞くイコンとの劇。
イコンの方の描写でおもしろいのは、「母の待つ子の永久に帰らぬを知るイコン」という部分。「帰らぬを知る」が強い。これは「帰らぬことを知る」の「こと」が省略された形だが、「こと」という名詞が省略されているために、その「こと」が固まらない。不定形のまま「動いている(事件が起きている)」という印象が強くなる。
中井久夫の訳には、こういうことばの省略が多い。論理的な印象を最小限に抑え、何が起きているのかを直接あらわそうとする姿勢が見える。
その直前の「母の待つ子の」という「の」の連続が、また、興味深い。「母が待つ子の」「母の待つ子が」とは印象が微妙に違う。格助詞「が」がないと、だれが主格なのか一瞬わからなくなる。母と子が一体化して、分離できないということが、直につたわってくる感じがする。
先に書いた「こと」のなかには、この「母と子」の一体となったものが含まれている。嵐の沖で起きていることは、世の中の「現象」としては息子の遭難(息子の溺死)であるけれど、母親にとっては、それは自分の溺死なのである。自分の溺死であるからこそ、「こと」という名詞で客観化できないのだ。
そこでは、まだ事件は「完了」していない。つづいている。
つづいているから、イコンは「じっと」している。「荘重」にならざるを得ない。
二行一連の詩の構造だが、最後の連をのぞいては倒置法になっている。一行目に句点がある。最後だけ逆になっている。ただし、その最後の一行は、その行自体が倒置法になっている。このリズムの変化もおもしろい。「哀しげ」「荘重」というふたつのことばが、最後にろうそくの明かりのように浮かび上がる。