詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

川田果弧「ピアノフォルテ」

2014-03-16 11:22:49 | 詩(雑誌・同人誌)
川田果弧「ピアノフォルテ」(「現代詩手帖」2014年03月号)

 川田果弧「ピアノフォルテ」は「新人作品」の一篇。「定型詩」である。

誰も乗らない観覧車が回り続ける海沿いの町
にせものの野望を見透かされてしまったので
ちょうど逃げようと思ってたところだったの
嘘をつくのは得意だけれど今度ばかりは本当

 行のそろった4行がこのあともつづいていく。
 こういう「定型」を見ると、ちょっとごまかされる。ごまかされるというと川田に申し訳ないが、読んでいるとき変なことが起きる。簡単に言ってしまうと、「ふーん、よく行をそろえたなあ」という感想がふっとはいり込んでしまう。どの行を読んでも、気持ちが半分、ことばではなく「形」の方へ行ってしまう。
 そして、たとえば「ちょうど逃げようと思ってたところだったの」の「ちょうど」と「の」という口語の係り結び(?)みたいな口調の甘さは、この「定型」を守ろうとして生まれたんだな、と感じる。「思っていたところだった」ではなく「思ってたところだったの」なのは、同時に「定型」を内部から崩してみせる口調なのだな、とも感じる。「定型」にしばられてるのではなく、口調という肉体にしたがっているふりをしてみせているのだとも感じる。巧妙だなあ。ずるいなあ、という感じ。
 「嘘をつくのは得意だけれど今度ばかりは本当」という体言止めの1行も、形を守りながら、形の内部で「文語」ではなく「口語」が動く。
 さて、これをどう読むか。
 言い換えると、騙されてみるか、という気持ちになれるかどうか。ごまかされてみる気持ちになれるかどうか。--これは、言い方をかえると、いい年をしたおじさんが、若い女にたぶらかされるときの感じだね。「意味(愛)」を楽しんでいるのではない。「愛」なんてないと知りながら、そこにある「欲望」(甘ったるい感じの、自分の失ったもの、自分をもう一度感じさせてくれるもの)を、いま、ここで味わえばいい。あとはどうなってもかまわない、という感じでことばを読み続けられるかどうか……。
 まあ、誘いにのってみるのも、悪くはないね。

店の片隅でピアノにおずおずと手を伸ばして
愚かな指先にじゃれつく音を夢想する終演後
この店の誰もが私を酔っ払いだと思っている
そのほうが好都合なので否定はしないけれど

 「愚かな」とか「じゃれつく」とか、口先だけの自己観察としまりのない口語。口ぶり、と言った方がいいかな? そこには、もちろん「意味」があるのだけれど、「意味」以上に、口語の「思わせぶり」が充満している。「肉体」が裸で動いている。
 1連目では「思ってた」と書かれていた動詞が、2連目では「思っている」と「い」がきちんと書かれ、その「きちんと」を踏まえて、「そのほうが好都合なので否定はしないけれど」という「投げやり」を、あたかも「客観的(冷静な判断?)」と思わせる小さな小さな工夫--うーん、うまい。
 でも、3連目。

ちょっとした悪戯のつもりで鳴らす不協和音
見知らぬ酔客が上着の釦をかけちがったまま
グラスの割れる音と同時に左足から店を出た
それが古い言い伝え通りの手順だったなんて

 こうなると、どうかな? 「定型」の内部を崩して「定型」を否定していた「甘ったるい口ぶり」が「文語」の「甘さ(雰囲気?)」にすりかわっていない? それとも、最初からこの文語(意味)の甘さを輪郭(定型)で隠すことが目的だったのかな?

 ことばは、何かをあらわすと同時に何かを隠すものだから(ひとつのものを指し示すとき、ほかのものは一瞬除外されるものだから)、どっちでもいいのかもしれない。

 しかしね、

バド・パウエルになれず調教師になった父と

青いライトのステージはさながら深い海の底
人影のまばらなフロアに探すのはも会えぬ人

 こうなってしまうと、「歌」だ。
 「口語」が「文語」を借りて、歌を歌っている。それも何というのか、若い女の歌ではなく、おじさんのセンチメンタルをくすぐる、昔の若い女の歌。私は、ちょっと身構えてしまう。誘われてもいいかな、騙されてもいいかな、と思っていた「すけべ心」が消えてしまう。
 なんだよお、こんなふうに騙すつもりなのか。「すけべ心」を見透かして、「定型」と「口語」をミックスさせてみせたのか、と気持ちが覚めてしまうなあ。

 あ、だんだん、最初に書こうとしていたことと違うことを書いてしまう。
 最初は「定型」を利用しながら、その内部で「口語」をちらつかせる文体が刺激的でおもしろい。その「口語」にセンチメンタルをまぜあわせ、おじさんを騙す手口が老練(年増女みたい)でおもしろい、と書こうとしていたのだけれど、書いているうちに「年増女」が、古くさい女、嫌いになってしまった女のように思えてきたのだった。
 私の感想は、いい加減だねえ。



 「新人作品」のもう一篇。福田臨未「臨月」。

春先、突然殴られるような空気のなかで
話し方を忘れたい
落とし穴みたいな月の下
ティッシュ配りのバイトにまぎれて詩を配る
戦争も告白も着てしまう時代だ
夢中で聞いたバンドはすでに解散していた
大学校内という春画
精も卵も拡散する
あなたたちの恋愛に共鳴もコーヒーもない
牛丼屋の紅生姜に与謝野晶子の気配
使い古された世界の終わりで
本日も存在がゆらぎだす
一九六八の夕日に刺される
あのこはこういうこと、興味ない

 あ、この「口語」の方が新鮮でいいなあ。「定型」に頼らずに「文体」になっている。文体は、やっぱり外側にあるのではない、ことばを内部から突き破る力が生み出すものなんだと思った。「与謝野晶子」はいやだなあと思ったが、すぐに「使い古された」ということばで洗い流していくから、まあ、いいか。





現代詩手帖 2014年 03月号 [雑誌]
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