詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

劉暁波『牢屋の鼠』(3)

2014-03-08 11:17:00 | 詩集
劉暁波『牢屋の鼠』(3)(田島安江・馬麗 共訳)(書肆侃侃房、2014年02月15日発行)

 きのう劉暁波の抒情詩について批判を書いたので、きょうは気に入っている作品について書いてみよう。「追悼王小波」はタイトル通り、追悼詩である。この詩は、私はとても好きだ。大好きだ。

彼の死を君からの手紙で知った
荒れ果てた風景の向こうに見える彼の姿は
僕には本当のこととは思えない
一つの命はこんな簡単に消えていくものなのだろうか
こんなにとつぜんぱっさりと

 「本当のこととは思えない」。この「思えない」がいい。何かが「事実」になるためには「思う」ことが必要なのだ。でも、それは簡単には「思えない」。劉暁波の抒情詩が私には何かいやな感じがするのは、もしかすると、そこでは劉暁波は簡単に「思っている」のかもしれない。「事実」を思わずに、「感情」を思っているために--「感情」と「思う」ということが似通っているために、ことばの経済学がスムーズに動きすぎて、何かが抜け落ちるのかもしれない。うまく言えないが……たとえば、「肉体」が。
 で、この詩の「思えない」は「わからない」でもある。実際、劉暁波は王小波の遺体を見ているわけではないから、それを納得するには時間がかかる。(遺体を見たってなった得できないことがある。)
 で、「わからない」とき、どうするか。「わからない」まま、ひとは、こういうときどうするのだろう。

僕のように外界と隔絶された囚人にとって
彼の死を推測する権利などないかもしれないが
僕は自分の考えに固執する
小波の訃報は間違いなく
街頭で売られている小新聞の
鮮やかな広告の隅にひっそりと載っているだけだ
まるで彼の率直でユーモアあふれる文字のように
賛美と誹謗とがいさかいの間でもがきながら

 「わからない」ときこそ、ひとは「自分の考えに固執する」。自分が「わかっている」ことを積み上げる。そして、想像する。他人に頼るのではなく、自分に頼る。信じられるものは自分だけである。
 この「本当とは思えない」から「僕の考えに固執する」というところにたどりつくまでの、むだな(?)時間が、なんともいえない。そこに「本当」がある。自分の考えに固執して想像した「世界」のあり方--王小波の訃報記事に対する想像は現実とあっているかどうかは問題ではない。そういうふうに固執し、そういうふうに想像してしまうときの、その「ことばの運動」のなかに劉暁波がいる。
 何か劉暁波にだけ「わかる」ことがあって、それは「世の中」の姿とは違っているかもしれないが、その「わかる」ことにこだわり、「わかる」ことを繰り広げていく、ことばにしていくことをやめることができない。その「欲望」。そこに「本当」がある。
 この詩では、その「本当」の想像力は王小波と「世の中」の関係に向けられているが、別の機会には市民と国家の関係に向けられる。そうやって「08憲章」は生まれたのだということを想像させてくれる。劉暁波には「わかっている」ことがある。その「わかったいること」は「世の中」が「わかっている」と思っていることとは違うかもしれない。「世の中」の動きとは違うかもしれない。けれども、劉暁波は自分が「わかっている」ことを、ことばにせずにはいられない。
 「おまえにその権利はない」と言われても、「わかっている」ことをことばにする以外に、劉暁波のしたいことはないのだ。「わかっている」ことのすべてを、ことばにしたい。その欲望と悲しみが、せつない形でここには動いている。

僕らが小波と一緒に食事をしたのは
記憶のずっと向こう、もう二年も前のことだ
彼の明るいおしゃべりさえ
もう不鮮明になってしまった
ただそびえ立つように大きな体と
僕らが好きな文字は
永遠に僕らに寄り添っている
彼の突然の死は
たくさんの空白を残した

 ひとが他人から「わかる」ことは実に少ない。劉暁波が王小波について「わかる」と明確に言えることは「大きな体」。それから、王小波をいつでも思い出せるということ(王小波がいつでも自分のそばいると感じることができること)。あとは「わからない」。王の「思想」となると、もう、語りようがない。それは「空白」だ。何か聞いたが、それは王のことばであって劉暁波自身のことばではない。劉暁波のことばは、王小波のことばにはなりえない。王小波のことばを繰り返し、そこに何かがあると思ってはならない。自分のことばで、そのあるはずのことば(空白)を埋めなければならない。劉暁波が、切実にそう感じていることが「わかる」。

ただ、僕は彼のために喜ぶ
羨望さえ感じる
唯一の慰めは
死神がなんの約束もしなかったことだ
彼が息を引き取る間際
後世の人に残した苦痛
自分勝手に解釈する遺言を残す必要はなかった
彼ははからずもすべての同情から逃れ
孤独に目を閉じた
まるで生前の分断の騒ぎを避けるかのように
一人白い紙に面と向かって

 これらのことばも、とても美しい。
 変な希望を与えない。王小波の死によって、世界がどうかわってくか。その「遺志」(遺言)を、どう人は引き受けるべきか--そんなことは、王小波は望んではない、というと言い過ぎなのだろうけれど、王小波は気にしない。ひとのため(後世のため)に王小波は生きたのではない。ただ自分が生きたかったから生きた。王小波は、王小波に「わかる」ことをことばにし、「わかる」ことを行動にした。それだけである。王小波が死んでしまえば、それはすべて「消える」。
 もし、それを「復活」させることができるとしたら、それは王小波のことば、行動をなぞるのではなく、ただひとりひとりが自分の「わかっている」ことを、さらに突き進めるしかない。そうやって「わかっている」ことをことばにして、動くときだけ、王小波の「大きな体」はがそばに寄り添っていると感じられる。
 人が自分の「わかっている」とこをことばにし、行動しないかぎりは、王小波は「孤独」である。--そう「わかる」から、劉暁波はことばを書く。
 ここには、全体に会うことのできない人間に会うための、具体的な方法が間接的に書かれていると言えるだろう。「約束」や「遺言」など、どこにもない。「孤独」だけがある。「孤独」だけが、人と人を結びつけ、その連帯はだれにも切り離すことができない。それは「ことばの肉体」、あるいは「行動という肉体(運動の肉体)」としてのみ存在する連帯だからである。
 同情も、哀れみもない。
 ある意味では「追悼」さえもない。
 死は、人間の死は、それくらいに絶対的で、さっぱりしたものなのだ。
 「感覚の意見」としていうしかないのだが、劉暁波は王小波から、死の全体性(いのちの絶対性)というものを直に感じ取り、それに向き合っている。「命知らず」の生き方というものを「目撃」し、「命知らず」と同時代を生きてきたことを誇りに思っている。
 その「誇り」が「彼のために喜ぶ」、その「喜ぶ」ということばになっている。「わかっている」ことがありながら、その「わかっている」ことをことばにすることも、行動に移すこともできずに死んだのなら、それは無念というものだろう。だが、「わかっている」ことをことばにして、「わかったいる」ことにしたがって行動をつらぬくことができなたら、それは喜ぶべきことなのだ。

 この喜び。--私は、ことばで追ってみたが、現実にそういうことが起きたなら、私は喜びということばで何かが言えるか。言えないなあ。--そういう私には言えないことば、しかも、それを聞いた瞬間、はっと目がさめるような絶対的なことば、そういうものに出会ったとき、あ、これは詩だ、と私は思う。
 私のことばは、劉暁波のことばの「意味」を十分にとらえきっていないだろうけれど、うーん、美しい、と私はこの連で唸ったのである。
 で、最後も、とても美しい。

親愛なる霞よ
小波の死ときみの追悼の詩は
僕を悲しく感じさせない
僕は一人思い描く
彼が酒を飲みながらのんびりとお喋りする姿を
すると牢屋はぱっと明るくなり
まるで雨があがったばかりの庭のようになる

 この一篇の詩を読むためにも、この詩集は買うべきである。
 王小波の姿を思い浮かべ、ぱっと明るく感じる劉暁波を感じるために、この詩集は絶対に読むべきである。初版は1500部とか。売り切れにならないうちに、どうぞ。


詩集 牢屋の鼠
劉暁波
書肆侃侃房
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