詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(8)

2014-03-30 21:39:06 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(8)          2014年03月30日(日曜日)

 「老人の魂」の、肉体のとらえ方が私にはよくわからない。

擦り切れ、ボロになった身体の中に
老人の魂が座っている。

 この書き出しは、最終行で言いなおされている。

糸の見えるまですりきれた年代ものの皮膚の内側に。

 「身体の中」と「皮膚の内側」が重なり合う。そして、その皮膚は「糸の見えるまで」と具体的に「ボロ」の状態が説明される。
 布は新しいとき(若いとき)、目がつまっている。たしかに糸は見えない。
 「ボロ」というとき、私は、破れたりほつれたりしているものを想像するが、「糸の見えるまで」というのは、そういう状態とは少し違うようである。乱暴に扱ったためにボロになったのではなく、丁寧に扱ってきたけれど、だんだんやせて、糸そのものが細くなって織り目が見えてくる。それはほんとうにボロなのだろうか。年代物の貴重な品物のように思えてくる。

 そう思ったとき、詩のなかほどにある行が輝いて見える。

生活をいたく愛し

 「愛する」とは大切にすること。ただ愛するのではなく「いたく愛する」。「甚し」、激しく--これは真剣にということかもしれない。「とても」を超えている。「貴重なものとして」という価値判断が働いているかもしれない。
 そして、この「いたく」は「甚だしく」という意味を超えて、私には「痛く」という具合にも感じられる。自分の身体が「痛む」くらいに真剣にと読みたい。自分の肉体を犠牲にしても守り抜いた価値、という印象がある。
 肉体の痛みのように、魂の痛みを感じている。老人の魂の「痛み」が、老人の肉体をすかして見えると言いたくなる。
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セバスティアン・レリオ監督「グロリアの青春」(★★★★)

2014-03-30 20:52:38 | 映画
監督 セバスティアン・レリオ 出演 パウリーナ・ガルシア、セルヒオ・エルナンデス、マルシアル・タグレ

 この映画を楽しむには、かなりの度胸がいる。
 離婚した女が主人公。58歳。子供は独立して、距離を置いている。アパートに独り暮らし。金は、まあ、ある。困らない。でもさびしい。子供たちは相手にしてくれない。男も相手にしてくれない。恋愛がしたい。男がいない。で、ディスコに通っているのだが、そこで海軍の将校だった男と出会う。彼もまた離婚している。(している、はずである。離婚したが元の妻や子供たちの面倒をみている、という「ずるずる」した現実がある。)
 で、妻子に度胸を試されるのが、セックスシーン。女(グロリア)の体も、もう58歳なので、見ていてきれいとは言えないのだが、男の方も醜い。太った腹をコルセット(?)で固くしめつけて肥満を隠している。それがセックスのとき、グロリアに「これ、何?」と言われて、それをはずして(当然か)ベッドに入るのだが。
 セックスというものは別に他人にみせるためのものではないのだから、醜かろうが、コッケイだろうが関係ないはないのだが……それは「現実」の話であって、これが映画になると、ちょっと違うよねえ。実際に性交するかどうかではなく、それが官能的に見えるかどうか、つまり観客に、セックスはやっぱり重要、楽しい、美しい、してみたいと思わせることができるかどうかが大切。
 ここでこんな例が適切かどうかわからないが、ジェーン・フォンダとジョン・ボイトの「帰郷」。ジョン・ボイトは戦争で負傷して性器が勃起しない。そのジョン・ボイトとジェーン・フォンダのセックスシーン。ジェーン・フォンダが実に美しい。その官能に満ちた姿態に、ジョン・ボイトが「きれいだ」と声を洩らすのだけれど、そうか、セックスというのは性器の結合にこだわるわけではないのだ、ということを教えてくれる。官能は性器の結合だけではないと、わかる。
 それに比べると、いやあ、比べてはいけないのだけれど、ほんとうにがっかりする。こんな醜い体を引き合わせて、快楽をつかみださなければならないのか、快楽のために肉体はこんなにみっともない現実を生きているのか……。
 このシーンを、やっぱりセックスは美しい、と感じて見ることができるならば、まあ、印象はずいぶん違ってくるだろうなあ。
 しかし、ね。
 実は、このセックスシーンは、どうも醜く撮ってある。わざと美しくない形で映像化されている。二人はセックスはするはするのだが、そしてちゃんと絶頂に達するは達するのだが、どうも不全感がある。気持ちが完全に一致したのではない。(ここが「帰郷」の美しさとまったく違うところ。)その気持ちのすれ違いがセックス以外のところでも少しずつ出てきて、それがどうしようもなく積み重なって、ふたりを引き離してしまう。そういうリアリティーあふれる映画なのである。
 で、ちょっと逆戻りする形になるが、もう一度セックス描写。二人が実際にセックスをしてみせるシーンは、もう一度出てくる。グロリアが男を椅子に押し倒して、コルセットをはずし、女性上位の形で男を犯す(?)。このシーンが、とても官能的なのである。醜くない。一体になった、という輝かしさがある。
 男は押し倒されるまでで、その後はグロリアしか見えないから、これは女が主導権を握っているとき、男を支配しているとき、この恋は美しいという、映画の「根幹」を暗示しているのでもあるけれど。--グロリアは男を支配しつづけられない。男は、元の妻と子供たちのことをどうしても気にかけてしまう。グロリアが男をかまってくれないと、すねて、ひとりでホテルから帰ってしまうというようなところもある。チェックアウトもしないで、ひとりで帰ってくような子供っぽいところがある。
 それやこれやで、まあ、二人はわかれてしまう。わかれてしまって、また孤独になったグロリアは男を探しにまたディスコへ出かけていく……。ストーリーとしては、そういう感じ。ハッピーエンドではないのだ。
 度胸がいるでしょ? これを見て、「よし、幸福になるぞ」、男をあさって生きていくぞ、と思う女性が何人いるか。離婚して、あたらしい女と暮らしはじめるぞ、女を幸せにして自分も幸せになるのだと夢をもつ男が何人いるか。

 しかし。しかし、なのである。
 奇妙に引き込まれてしまう。グロリアを演じたパウリーナ・ガルシア。何だか演技を見ている気がしない。58歳の孤独な女の肉体をそのまま見ている感じ。手触りがある。男のまなざしに触れて、「私って、まだもてるかも」と顔が輝く瞬間とか、「あの男、嘘をついた、裏切った」と気づいて急に体の芯ががっしりと屹立する感じとか。絶品(?)は、昔の夫、息子、娘との食事のシーン。(息子の誕生日のパーティー)いまの恋人を連れていったにもかかわらず、昔の家族の雰囲気に溶け込んで、「ああ、家族って幸せ」と感じる表情とか。女の七変化。これを完全に演じきっている。なりきっている。
 この肉体を引き受けて生きる度強があるなら、この映画は傑作だろうなあ。度胸のない人は、見ないことをお勧めする。
                     (2014年03月30日、KBCシネマ1)





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林芙美子「歴史」

2014-03-30 10:13:00 | 詩(雑誌・同人誌)
林芙美子「歴史」(「現代詩手帖」2014年04月号)

 林芙美子「歴史」を読みながら、とても不思議な気持ちになった。「未収録詩篇」の一篇である。

悠々と来たり 悠々と去りゆく 夏の雲よ
私達に様々なおもひを植ゑるて流れてゆく夏の雲よ
疲労と成熟と そして再び
秋の新しい雲が流れて来ようと してゐる
刈草の愉しいすえた匂ひ
雁のさゞざき
夏の雲よ もうお前はかなり遠くまで行つてしまつた
入道雲 うろこ雲 鰯雲
悠々と彼方へ去つてゆく
思想を残して 観念を残して
白い虹の向うへ               (「あらくれ」一九三八年十月)

 書いてあることばは全部わかる。情景もそのまま思い浮かぶ。「夏の雲よ もうお前はかなり遠くまで行つてしまつた」というのは美しい行だなあ、と思う。
 思うのだが。
 さて、このとき私が思い浮かべている情景というものはどういうものだろう。遠いところ、目に見える空のいちばん遠く、たとえば水平線の方向とか山の端っことか、そういうところに夏の雲が見えるのか--違うなあ。この行を読むとき、私には夏の雲は見えない。そこには存在しない。ただ澄みきった青い空がある。大げさに言うと、「無」がある。夏の雲という興奮が去ってしまって、無がある。
 存在しないから「遠くへ行つてしまつた」と思う。想像する。見ているのではなく、想像している世界--それが、詩、ということになる。
 読み返してみると、すべてが「想像」なのだとわかる。「写生」ではなく、「現実」ではなく、頭の中で構成された世界だとわかる。
 私は、「悠々と来たり 悠々と去りゆく 夏の雲よ」というものを見たことがない。夏の雲というと「入道雲」がすぐに思い浮かぶ。それがむくむく沸き上がるのを見たことはある。その沸き上がる漢字を「来る」と言い換えることには違和感はない。けれど、それは「悠々」かなあ。私は、言わないなあ。そして、それは「悠々と去りゆく」というのとも違うなあ。でん、と居すわっている。入道雲は「流れて」はゆかない。「私達に様々なおもひを植ゑるて」ということはあっても、「流れてゆく」とはつながらない。
 もし「流れてゆく」とすれば、それは目の前の空を流れていくのではなく、「様々なおもひ」のなかを流れていく。意識のなかを流れてゆく。去ってゆく。
 「刈草の愉しいすえた匂ひ」をかいだときに、「雁のさゞざき」を聞いたときに--つまり、目ではなく、ほかの感覚器官が新しい何か(雲以外のものにふれたとき)、言い換えると夏の雲がそこにないと認識したときに、「夏の雲が去りゆく」。
 これは、おもしろいなあ。
 ほんとうに、そうだなあ。
 「秋の新しい雲が流れて来ようと してゐる」という行は、秋の雲がそこにはまだ存在していないと語っている。存在するのは「刈草の愉しいすえた匂ひ/雁のさゞざき」であって、秋の雲ではない。
 存在しないものが、存在するものと交錯しながら動いている。その「動き」が見えるのだ。「動き」を肉体が感じるのだ。
 これは、とても観念的なことばの運動だ。繰り返しになるが「写生」のことばではない。書かれていることばがあまりにもわかりやすいので、実際の夏の雲(入道雲)や秋の雲(うろこ雲、鰯雲、--どう違う?)を思い浮かべ、「去りゆく」「流れる」「遠くまで行ってしまう」というようなことばに刺戟されてセンチメンタルな気分にそまるが、そのセンチメンタルというのは、とても観念的なものだ。

思想を残して 観念を残して
白い虹の向うへ

 「思想」「観念」というあからさまに観念的なことばが、この世界が観念そのものであると語っている。さらに「白い虹」がそれを補う。「白い虹」って見たことある? 私は虹色(七色)の虹しか知らないし、それがはっきり七色かといわれると五色くらいしかわからないのだけれど、みんなが七色と言っているので、ついついそれにあわせて七色と言うだけである。
 自分の目に見えないことでも、ことばにできてしまうし、ことばにしてしまうと、それに思考をあわせてしまう。いや、肉体をねじまげてしまう。虹は、七色に見える、と肉体を説得してしまう。--これは、私だけの癖なのかもしれないけれど。
 
 で、詩にもどると。
 あ、そうか、「歴史」か……と「タイトル」にぶつかる。林は最初から夏の雲、秋の雲という「日本の風景」を描いているわけではないのだ。そういう意識はないのだ。季節の変化ではなく、「歴史」を見ている。
 大雑把に言ってしまうと、季節の変化というのは「期間」が短い。日本では1年で季節が一巡する。ところが「歴史」というのは「期間」が長い。1年で繰り返される(一巡してきたと勘違いする)ことも起きるかもしれないが、もっと長い十年、二十年、あるいは百年という単位で何かが交錯し、そういうことに出合うと「歴史は繰り返す」というようなことを実感する。
 林は、そういう「長い時間」を見ている。「時間の流れ」、事件の関連を見ている--ということが、ふっとわかる。
 そういう感じで、時間を感じる瞬間が、たしかにあるなあ、とも思う。
                          






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