中井久夫訳カヴァフィスを読む(7) 2014年03月29日(土曜日)
「第一段」は青年詩人エウメネスがこぼした「愚痴」に大詩人エオクリトスが答えるという形の詩。カヴァフィスは自身をエウメネスに見立てているのか。若い詩人をエウメネスに見立て、エオクリトスになりかわって青年を励ましているのか。後者と読みたい。エウメネスは詩の第一段にたどりついただけで、詩の高みにのぼれない、と愚痴を言う。
「ぞ」ということばの強い響きがこころよい。さらに「よくせきこと」「あっぱれ」という代言止めのことばが、きっぱりとした印象を与える。よくせきこと「である」、あっぱれ「である」の「で・ある」が省略されている。省略することで、それがエウメネスの状態をあらわすだけではなく、テオクリトスの「意思」であることを証明する。テオクリトスが「よくせきこと」「あっぱれ」というから、それが「よくせきこと」「あっぱれ」になる。「ある」が「なる」にかわる。その「なる」にテオクリトスが深く関係している。この関与が対話の神髄だ。
最後の部分の、この二行がおもしろい。特に、「ヤクザな……」という行に「を」という助詞が省略されているところが、とてもおもしろい。「を」はあってもなくても、「意味」はかわらない。ところが「を」がないと印象が変わる。
「を」がある方が「散文」に近い。「意味」がすっきりする。「を」がないと「歌」になる。「意味」以上のものがあらわれてくる。「わかりきった断定」(共有された断定)というものが、そこにあらわれる。
きみはすばらしい詩人なんだ、ということがテオクリトスだけの判断ではなく、人々に共有された「認識」として、そこに浮かび上がる。「歌」は共有された認識である。
そういう共通認識を、テオクリトスは彼自身のことばとして繰り返す。
ここを読むと、いままで書いてきたこととは逆になるが、カヴァフィスがカヴァフィス自身を鼓舞しているという気にもなる。どちらと読んでもいいのだろう。
「第一段」は青年詩人エウメネスがこぼした「愚痴」に大詩人エオクリトスが答えるという形の詩。カヴァフィスは自身をエウメネスに見立てているのか。若い詩人をエウメネスに見立て、エオクリトスになりかわって青年を励ましているのか。後者と読みたい。エウメネスは詩の第一段にたどりついただけで、詩の高みにのぼれない、と愚痴を言う。
「ことばをつつしめ、
神をけがすことばぞ。
段一段にいることを
幸せとし誇りに思え。
ここまで来るのもよくせきこと。
きみの仕事はさてもあっぱれ。」
「ぞ」ということばの強い響きがこころよい。さらに「よくせきこと」「あっぱれ」という代言止めのことばが、きっぱりとした印象を与える。よくせきこと「である」、あっぱれ「である」の「で・ある」が省略されている。省略することで、それがエウメネスの状態をあらわすだけではなく、テオクリトスの「意思」であることを証明する。テオクリトスが「よくせきこと」「あっぱれ」というから、それが「よくせきこと」「あっぱれ」になる。「ある」が「なる」にかわる。その「なる」にテオクリトスが深く関係している。この関与が対話の神髄だ。
市の理事会はりっぱな立法家ぞろい。
ヤクザな人物 歯牙にもかけぬ。
最後の部分の、この二行がおもしろい。特に、「ヤクザな……」という行に「を」という助詞が省略されているところが、とてもおもしろい。「を」はあってもなくても、「意味」はかわらない。ところが「を」がないと印象が変わる。
「を」がある方が「散文」に近い。「意味」がすっきりする。「を」がないと「歌」になる。「意味」以上のものがあらわれてくる。「わかりきった断定」(共有された断定)というものが、そこにあらわれる。
きみはすばらしい詩人なんだ、ということがテオクリトスだけの判断ではなく、人々に共有された「認識」として、そこに浮かび上がる。「歌」は共有された認識である。
そういう共通認識を、テオクリトスは彼自身のことばとして繰り返す。
ここまでくるのも並たいていじゃない。
きみの仕事はすばらしいんだ」
ここを読むと、いままで書いてきたこととは逆になるが、カヴァフィスがカヴァフィス自身を鼓舞しているという気にもなる。どちらと読んでもいいのだろう。
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