詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(7)

2014-03-29 23:59:59 | 詩集
中井久夫訳カヴァフィスを読む(7)          2014年03月29日(土曜日)

 「第一段」は青年詩人エウメネスがこぼした「愚痴」に大詩人エオクリトスが答えるという形の詩。カヴァフィスは自身をエウメネスに見立てているのか。若い詩人をエウメネスに見立て、エオクリトスになりかわって青年を励ましているのか。後者と読みたい。エウメネスは詩の第一段にたどりついただけで、詩の高みにのぼれない、と愚痴を言う。

「ことばをつつしめ、
神をけがすことばぞ。
段一段にいることを
幸せとし誇りに思え。
ここまで来るのもよくせきこと。
きみの仕事はさてもあっぱれ。」

 「ぞ」ということばの強い響きがこころよい。さらに「よくせきこと」「あっぱれ」という代言止めのことばが、きっぱりとした印象を与える。よくせきこと「である」、あっぱれ「である」の「で・ある」が省略されている。省略することで、それがエウメネスの状態をあらわすだけではなく、テオクリトスの「意思」であることを証明する。テオクリトスが「よくせきこと」「あっぱれ」というから、それが「よくせきこと」「あっぱれ」になる。「ある」が「なる」にかわる。その「なる」にテオクリトスが深く関係している。この関与が対話の神髄だ。

市の理事会はりっぱな立法家ぞろい。
ヤクザな人物 歯牙にもかけぬ。

 最後の部分の、この二行がおもしろい。特に、「ヤクザな……」という行に「を」という助詞が省略されているところが、とてもおもしろい。「を」はあってもなくても、「意味」はかわらない。ところが「を」がないと印象が変わる。
 「を」がある方が「散文」に近い。「意味」がすっきりする。「を」がないと「歌」になる。「意味」以上のものがあらわれてくる。「わかりきった断定」(共有された断定)というものが、そこにあらわれる。
 きみはすばらしい詩人なんだ、ということがテオクリトスだけの判断ではなく、人々に共有された「認識」として、そこに浮かび上がる。「歌」は共有された認識である。
 そういう共通認識を、テオクリトスは彼自身のことばとして繰り返す。

ここまでくるのも並たいていじゃない。
きみの仕事はすばらしいんだ」

 ここを読むと、いままで書いてきたこととは逆になるが、カヴァフィスがカヴァフィス自身を鼓舞しているという気にもなる。どちらと読んでもいいのだろう。


カヴァフィス全詩集
コンスタンディノス・ペトルゥ カヴァフィス
みすず書房
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池井昌樹「内緒」

2014-03-29 10:48:31 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「内緒」(「破氷船」24、2014年02月28日発行)

 池井昌樹「内緒」は、わかるのか、わからないのか、よくわからないけれど、そういうあいまいさこそが「わかる」ということかもしれない。

いなかのいえのひだまりに
しんぶんがみひろげ
あつあつコロッケたべたっけ
かあちゃんと
くすくすわらってたべたっけ
まだかえらないとうちゃんや
じいちゃんばあちゃんいぬのコロ
みんないっしょでたべたっけ

 これは田舎の家でのある光景。家族でコロッケを食べている。「ひだまり」というから縁側かどこかだろう。なんとなく幸せで「くすくすわらって」いる。何が楽しいかわからないけれど、きっといっしょに食べるということがうれしいのだ。
 そういう「うれしい」がわかる。コロッケを「食べる」がわかる。
 でも、「まだかえらないとうちゃん」は、どうしたの? まだ帰らないなら、コロッケを食べられない。それなのに「みんないっしょでたべたっけ」。矛盾しているねえ。ことばを論理で追うと矛盾しているが、感覚的には矛盾しない。「とうちゃん」はいるときもあれば、いないときもある。ほかの家族もいるときもあれば、いないときもある。そして、いないときも、そこにいる感じがする。
 いま、ここにいなくても、いる。この矛盾が家族であり、その矛盾を「ひとつ」の世界にしてしまうのが、コロッケを「食べる」という動詞。「いっしょ」にという感覚。とうちゃんがいないときは、とうちゃんにも食べさせたいね、とうちゃんには内緒だよ、という矛盾した会話が家族。まだかえらない「とうちゃん」は、ときには「かあちゃん」であったり、「じいちゃん、ばあちゃん」であったりするかもしれないが、そういう「入れ換え」が可能なのが家族。だれかを思い、だれかには「内緒」で、それでも「みんないっしょ」というのが、「家族」。
 池井にとって「内緒」の「緒」は「一緒」の「緒」、「内証」と「証」の漢字をあてると違ったものになるのだろう。

いなかのいえのひだまりに
それからなにがあったのか
それからコロはいなくなり
そふぼもちちもいないくな
ははをしせつにおいやって
いまはもぬけのからのいえ
いなかのいえのひだまりを
いまごなぼくはおもうのだ
あとかたもないこのぼくは
かあちゃんと

 「それからなにがあったのか」。何があったかは、池井が書かなくても誰もがわかっている。「コロハいなくなり」「そふぼもちちもいなくなり」の「いなくなり」がどういうことか、だれもが「わかる」。わかっているから、ことばでは書かない。
 ひとは、わかっていることしか書けないが、同時にわかっていることは書かない。書かなくてもわかることは、書く必要がない。
 それでも、それのまわりのことは書いてしまう。
 何を書いているのだろう。
 「あったこと」を書いているのかな? まわりに「あったこと」。田舎の家で「あったこと」。でも「なにがあったのか」。うーん、ここでも循環してしまう。この循環は矛盾?

 その一方で、最後の「あとかたもないこのぼくは/かあちゃんと」。このしり切れとんぼの2行をどう読む? あとに、どんな「動詞」を補う?
 動詞を補う前に、「あとかたもないこのぼく」をどうとらえるといいのか。「ぼく」は詩を書いている池井。それなのに「あとかたもない」というのは矛盾。いや、これは、田舎の家にはいないということなのだから、矛盾ではないのかも。
 えっ、そうなのか?
 では「かあちゃん」は、どこに? 施設に? そうではなく、「いなかのいえのひだまり」に「いる」。そして、そのとき「いなかのいえのひだまりに」は「あとかたもない」はずの、このぼく(東京にいる池井)の、その「コロッケをいっしょにたべた」という「思い出」が「かあちゃん」と「いっしょに」「いる」。
 「なにがあったのか」書かなくてもわかるように、「いっしょにいる」がわかるから、書かないのだ。いや、池井の場合は、それは「本能」として「書けない」のだ。「本能」は「書けない」を選んでしまうのだ。

 私の書いた感想が正確がどうかわからない。書きながら、わからない。けれど、池井が田舎の家を思い出し、日だまりを思い出し、コロッケを家族でいっしょに食べたことを思い出し、「かあちゃん」もそれを思い出しているだろうなあ、ということはわかる。
 池井の肉体のなかで、そして「かあちゃん」の肉体のなかで起きている「こと」は、わかる。
 「わからない」があるからこそ、逆に、つよく「わかる」。

 私は実は大学受験のかえりに、坂出の池井の家に遊びに行ったことがある。「かあちゃん、とおちゃん、ねえちゃん」がいたことをおぼえている。顔はおぼえていない。そこで、「かあちゃん」から「食べ物では何が好き?」と聞かれ「キャベツの刻んだものが好き」と答えたら、夕食にとんかつが出た。えっ、そういうつもりで言ったのではなく、ほんとうにキャベツを刻んだ、単なる野菜が好きだったのだが。私の田舎の家ではとんかつなんか食べないから、とんかつを食べたいとは思いもしなかった。そうか、池井の家ではとんかつを食べるのか、と思った。そのとんかつのおかげで、私は旺文社のテストで合格率4%以下の大学に合格することができた。(時系列が逆?)そんなふうに、ときどき思い出す。「とおちゃん」は厳格で、「ねえちゃん」はピアノが上手だった。風呂はなぜか浴槽がふたつあった、ということもおぼえている。その思い出と「いっしょ」に、池井の田舎の家は、私の肉体になっている。
                          
これは、きたない (1979年)
池井 昌樹
露青窓
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(7)

2014-03-29 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(7) 
         
 「第一段」は青年詩人エウメネスがこぼした「愚痴」に大詩人エオクリトスが答えるという形の詩。カヴァフィスは自身をエウメネスに見立てているのか。若い詩人をエウメネスに見立て、エオクリトスになりかわって青年を励ましているのか。後者と読みたい。エウメネスは詩の第一段にたどりついただけで、詩の高みにのぼれない、と愚痴を言う。

「ことばをつつしめ、
神をけがすことばぞ。
段一段にいることを
幸せとし誇りに思え。
ここまで来るのもよくせきこと。
きみの仕事はさてもあっぱれ。」

 「ぞ」ということばの強い響きがこころよい。さらに「よくせきこと」「あっぱれ」という代言止めのことばが、きっぱりとした印象を与える。よくせきこと「である」、あっぱれ「である」の「で・ある」が省略されている。省略することで、それがエウメネスの状態をあらわすだけではなく、テオクリトスの「意思」であることを証明する。テオクリトスが「よくせきこと」「あっぱれ」というから、それが「よくせきこと」「あっぱれ」になる。「ある」が「なる」にかわる。その「なる」にテオクリトスが深く関係している。この関与が対話の神髄だ。

市の理事会はりっぱな立法家ぞろい。
ヤクザな人物 歯牙にもかけぬ。

 最後の部分の、この二行がおもしろい。特に、「ヤクザな……」という行に「を」という助詞が省略されているところが、とてもおもしろい。「を」はあってもなくても、「意味」はかわらない。ところが「を」がないと印象が変わる。
 「を」がある方が「散文」に近い。「意味」がすっきりする。「を」がないと「歌」になる。「意味」以上のものがあらわれてくる。「わかりきった断定」(共有された断定)というものが、そこにあらわれる。
 きみはすばらしい詩人なんだ、ということがテオクリトスだけの判断ではなく、人々に共有された「認識」として、そこに浮かび上がる。「歌」は共有された認識である。
 そういう共通認識を、テオクリトスは彼自身のことばとして繰り返す。

ここまでくるのも並たいていじゃない。
きみの仕事はすばらしいんだ」

 ここを読むと、いままで書いてきたこととは逆になるが、カヴァフィスがカヴァフィス自身を鼓舞しているという気にもなる。どちらと読んでもいいのだろう。

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