石毛拓郎「六根、リヤカーを引け!」(「パーマネントプレス」6、2014年01月10日発行)
私はいま風邪を引いていてとても体調がわるい。私の風邪は鼻腔と口蓋のつなぎ目くらいに刺戟があるところからはじまり、のど、気管支、肺の末端へと進む。そこまでたどりつかないと回復しない。途中で症状が止まらない。いまは、その最後の段階。咳が出る。咳をするたびに肺の背中側がずきん、と痛む。こういうときは新しいひとの作品を読むのがつらい。なれ親しんだひとの作品をうろうろと歩き回る。
で、石毛拓郎「六根、リヤカーを引け!」。わからないところがずいぶんあるのだが、そういうことは気にしない。病気の男が、病気の男の臨終に間に合うように面会につれていけ、と騒いでいる。彼はリヤカーに乗っている。リヤカーを速く引っぱれと叫んでいる。
石毛は、この作品では「私」を捨てている。「私」はリヤカーを引いているのかもしれないが、この作品の主な登場人物は「六根」と「富蔵」である。そして、そこに語られているのはもっぱら「六根」のことばである。いわば、「小説」風のことばの運動である。
で、こういう「他人」のことばは、ではいったい、詩人・石毛とどこでどんなふうにつながっているのか。
--と質問すること(考えること)は、私がこの詩のどのことばに私自身を結びつけて実感するか考えることとほとんどかわりがない。
私はまず、
これに反応した。砂利道でリヤカーを引けば、そういう音がする。石と車体(?)というか荷台というか、車輪というか、そういものがぶつかりあい、抵抗しあい、そういう音を出す。石が軋むだけではなく、荷台も軋む。石がガキガキいっているのに、リヤカーそのものがガキガキいっているような感じになる。それはリヤカーを引くときに感じる重さ、ものの抵抗というものが、私の肉体のなかでリヤカーと砂利道を分離しないからである。それは「ひとつ」である。リヤカーと砂利道は名詞にすると別々だが、リヤカーを砂利道で「引く」という動詞でつなぐと「ひとつ」になってしまう。そのときの感じが「ゴロゴロ、ガキガキ」。「ゴロゴロ」は多くの人がいうが、「ガキガキ」まではなかなか言えない。リヤカーを引いたことがある人間、引きながら怒りをおぼえた人間の「肉耳」が聞きとる音である。
私はまず、この音に感激して、あ、石毛はリヤカーを引いている、と信じてしまった。こうなると、あとはもうすべて受け入れてしまうなあ。わかる/わからないは関係がない。リヤカーを引いている「事実」が「真実」だからである。
で、そのあと、
これに、どきりとする。
私は、そこに書かれている「粗っぽい」人間である。木の名前なんか知らない。どんな木でもひっくるめて「樹木」。--で、これが「無差別/差別」の根底である。たしかにそうなのである。それぞれをそれぞれの名前で呼ぶこと、きちんと識別することというのは、その存在を正確に把握することである。そういうことを手抜きしてしまうから、差別がはいり込む。個を認める前に、全体を優先する。そこから差別が始まる。
リヤカーを引くときの、リヤカーと砂利道を「一体感」と感じるときの「一」と「あらゆる木を「樹木」と「一括り」にするときの「一」は違うのである。「一括り」にするとき、そこに働いているのは「ことばの経済学(区別しない方が簡単に流通にのせられる)」である。で、こういう「ことばの経済学」というのは「頭」で処理される。
すこし言いなおすと、たとえば白木蓮を伐る、ケヤキを伐る、白樺を伐るということを考えてみる。樹木を伐るとき、鋸(チェーンソウ)とか斧とか、さまざまな道具が考えられるが、そのつどつかう道具が違う。そのときにつかう肉体の動かし方が違う。実際に肉体で木に接するひとは「樹木」と一括りにして木と向き合うことはできない。肉体を基本にして対象と向き合うとき、肉体はどうしても個別的である。個別的でしかありえない。
リヤカーを引くときだって、砂利道とアスファルトでは違う。ぬかるみの道でも違うし、坂道でも違う。こべつにしっかり向き合い、肉体の動かし方を変える。
でも、「頭」はそういうことを無視して「リヤカーを引く」ということばを発することができる。「ゴロゴロ、ガキガキ」という音なんか、聞こうともしない。そこには他人の肉体の軽視、無視があり、そういうことが「差別」につながっていく。
石毛のことばは、そういうものに対し、ばかやろう、と叫んでいる。
「頭」で何かすることに対して、ばかやろう、と行っている。
旧友の危篤に会いに行くなら、リヤカーでなくて、もっと便利なものがあるはずである。でも、リヤカーでゆくのだ。それはひとつには、「世の中」がリヤカーしかつかわさせてくれない、タクシーに乗ることを許してくれないということもあるが、肉体で(人力で)生きていくというのが、「頭」に対する「肉体」からの反撃の方法なのである。「肉体」で生きてやるぞ、と叫んでいるのである。
ことばも、だから、あくまで口語である。不経済に同じことを繰り返すのである。その繰り返しの不経済のなかに、肉体がなまなましく動く。
かっこいいじゃないか。このリズム。このリズムを聞けば、富蔵は会わずに死ぬわけにはいかない。このリズムで叫んでいるのだから、それは遠く離れた富蔵にきっと届く。おれの声を聞いて生き延びろ、そう祈っている熱い魂の声が聞こえる。魂なんて、私は信じていないのに、思わず魂ということばをつかってしまう。そういう読者を酔わせる力がこの肉体のリズムにある。
こういう強い声を聞くと、ちょっと私の肉体も楽になる。書いているあいだ、咳がでなかった。私は、とっても単純な人間なのだ。
私はいま風邪を引いていてとても体調がわるい。私の風邪は鼻腔と口蓋のつなぎ目くらいに刺戟があるところからはじまり、のど、気管支、肺の末端へと進む。そこまでたどりつかないと回復しない。途中で症状が止まらない。いまは、その最後の段階。咳が出る。咳をするたびに肺の背中側がずきん、と痛む。こういうときは新しいひとの作品を読むのがつらい。なれ親しんだひとの作品をうろうろと歩き回る。
で、石毛拓郎「六根、リヤカーを引け!」。わからないところがずいぶんあるのだが、そういうことは気にしない。病気の男が、病気の男の臨終に間に合うように面会につれていけ、と騒いでいる。彼はリヤカーに乗っている。リヤカーを速く引っぱれと叫んでいる。
松も、竹も、梅も、リヤカーを、はやく引け!
東村山全生園、清瀬松竹梅の町の寿ぎに
隠された、陸の孤島
そこの塞ぎを、突破して
ゴロゴロ、ガキガキ
ゴロゴロ、ガキガキ
やくさむリヤカーを、はやく引け!
白木蓮も、ケヤキも、白樺さえも
無差別に、木をひとくくりして
それは樹木だ、と粗っぽさで片づけてしまうように
街にあらわれる、癩者のからだ
あからさまに受け入れ、息をすることをきらったか
俗世間、このよきものかよ
急げば、六根、からだがうずきます
つつしみふかくありたいと
小さく祈る余生園、旧友の危篤
富蔵よ
おまえに、あわねばならない
あって、言わねばならない
富蔵よ
肺病カタリの、息にのけぞる
おまえの霊気は、秩父おろしの砂塵に
耐えているか
石毛は、この作品では「私」を捨てている。「私」はリヤカーを引いているのかもしれないが、この作品の主な登場人物は「六根」と「富蔵」である。そして、そこに語られているのはもっぱら「六根」のことばである。いわば、「小説」風のことばの運動である。
で、こういう「他人」のことばは、ではいったい、詩人・石毛とどこでどんなふうにつながっているのか。
--と質問すること(考えること)は、私がこの詩のどのことばに私自身を結びつけて実感するか考えることとほとんどかわりがない。
私はまず、
ゴロゴロ、ガキガキ
ゴロゴロ、ガキガキ
これに反応した。砂利道でリヤカーを引けば、そういう音がする。石と車体(?)というか荷台というか、車輪というか、そういものがぶつかりあい、抵抗しあい、そういう音を出す。石が軋むだけではなく、荷台も軋む。石がガキガキいっているのに、リヤカーそのものがガキガキいっているような感じになる。それはリヤカーを引くときに感じる重さ、ものの抵抗というものが、私の肉体のなかでリヤカーと砂利道を分離しないからである。それは「ひとつ」である。リヤカーと砂利道は名詞にすると別々だが、リヤカーを砂利道で「引く」という動詞でつなぐと「ひとつ」になってしまう。そのときの感じが「ゴロゴロ、ガキガキ」。「ゴロゴロ」は多くの人がいうが、「ガキガキ」まではなかなか言えない。リヤカーを引いたことがある人間、引きながら怒りをおぼえた人間の「肉耳」が聞きとる音である。
私はまず、この音に感激して、あ、石毛はリヤカーを引いている、と信じてしまった。こうなると、あとはもうすべて受け入れてしまうなあ。わかる/わからないは関係がない。リヤカーを引いている「事実」が「真実」だからである。
で、そのあと、
白木蓮も、ケヤキも、白樺さえも
無差別に、木をひとくくりして
それは樹木だ、と粗っぽさで片づけてしまうように
これに、どきりとする。
私は、そこに書かれている「粗っぽい」人間である。木の名前なんか知らない。どんな木でもひっくるめて「樹木」。--で、これが「無差別/差別」の根底である。たしかにそうなのである。それぞれをそれぞれの名前で呼ぶこと、きちんと識別することというのは、その存在を正確に把握することである。そういうことを手抜きしてしまうから、差別がはいり込む。個を認める前に、全体を優先する。そこから差別が始まる。
リヤカーを引くときの、リヤカーと砂利道を「一体感」と感じるときの「一」と「あらゆる木を「樹木」と「一括り」にするときの「一」は違うのである。「一括り」にするとき、そこに働いているのは「ことばの経済学(区別しない方が簡単に流通にのせられる)」である。で、こういう「ことばの経済学」というのは「頭」で処理される。
すこし言いなおすと、たとえば白木蓮を伐る、ケヤキを伐る、白樺を伐るということを考えてみる。樹木を伐るとき、鋸(チェーンソウ)とか斧とか、さまざまな道具が考えられるが、そのつどつかう道具が違う。そのときにつかう肉体の動かし方が違う。実際に肉体で木に接するひとは「樹木」と一括りにして木と向き合うことはできない。肉体を基本にして対象と向き合うとき、肉体はどうしても個別的である。個別的でしかありえない。
リヤカーを引くときだって、砂利道とアスファルトでは違う。ぬかるみの道でも違うし、坂道でも違う。こべつにしっかり向き合い、肉体の動かし方を変える。
でも、「頭」はそういうことを無視して「リヤカーを引く」ということばを発することができる。「ゴロゴロ、ガキガキ」という音なんか、聞こうともしない。そこには他人の肉体の軽視、無視があり、そういうことが「差別」につながっていく。
石毛のことばは、そういうものに対し、ばかやろう、と叫んでいる。
「頭」で何かすることに対して、ばかやろう、と行っている。
旧友の危篤に会いに行くなら、リヤカーでなくて、もっと便利なものがあるはずである。でも、リヤカーでゆくのだ。それはひとつには、「世の中」がリヤカーしかつかわさせてくれない、タクシーに乗ることを許してくれないということもあるが、肉体で(人力で)生きていくというのが、「頭」に対する「肉体」からの反撃の方法なのである。「肉体」で生きてやるぞ、と叫んでいるのである。
ことばも、だから、あくまで口語である。不経済に同じことを繰り返すのである。その繰り返しの不経済のなかに、肉体がなまなましく動く。
富蔵よ
おまえに、あわねばならない
あって、言わねばならない
富蔵よ
肺病カタリの、息にのけぞる
おまえの霊気は、秩父おろしの砂塵に
耐えているか
かっこいいじゃないか。このリズム。このリズムを聞けば、富蔵は会わずに死ぬわけにはいかない。このリズムで叫んでいるのだから、それは遠く離れた富蔵にきっと届く。おれの声を聞いて生き延びろ、そう祈っている熱い魂の声が聞こえる。魂なんて、私は信じていないのに、思わず魂ということばをつかってしまう。そういう読者を酔わせる力がこの肉体のリズムにある。
こういう強い声を聞くと、ちょっと私の肉体も楽になる。書いているあいだ、咳がでなかった。私は、とっても単純な人間なのだ。
子がえしの鮫―よみもの詩集 (1981年) | |
石毛 拓郎 | |
れんが書房新社 |