詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三井喬子「入射角三十五度」

2014-03-12 09:52:39 | 詩集
三井喬子「入射角三十五度」(「部分」51、発行日明記なし)

 三井喬子「入射角三十五度」は、「三十五度」が何を意味するか、私にはわからない。日本の北緯が三十五度程度だったろうか。
 で、入射角があるなら、反射角もあり、そこに内側と外側が必然的に生まれてくる。

誰だ! 外側にいるのは…

焼けるような痛みが湧きおこり
思ってもいなかった水が滲んでしまう
ぬるく湿った内側から

  (蛇もおいでよ
  (蛙もおいで

 この、外側、内側の対比、その変化が自然で、リズミカルだ。いまは春だが、この詩が書かれたのは冬で(晩秋で)、冬眠が連想されているのかもしれない。
 入射角というと、私はすぐに水を思い浮かべてしまうが、三井の水は土といっしょにある水分なのかもしれない。土のなかに入って、その土のなかでみつける水。土のなかにはたしかに水がある。土を掘ると水が出てくる。その水は「入射角」ということばに反して、内側から外へ出ていく感じがある。土のなかに入ったら、土のなかから水が出てくる。「入る」と「出る」が交錯するのだが、これが何かおもしろい。おもしろい感じがする。あ、ここに、頭だけで考えたものではない何か、事実があるという感じがする。土を掘った「肉体」の記憶、手触りの不透明な「実感」がある。手で掘って、手が濡れて、それを同時に目で確認する。手で「わかる」と同時に目でも「わかる」。手とを目をつないでいるもの--それは「わかる」けれど、ことばにならない何か、わからないものでもある。「わからない」から「わかる」のかなあ。
 それが「(蛇もおいでよ/(蛙もおいで」とつながっていく。蛇や蛙を呼び込んでしまうのは、手の感触、目の感触がそうさせるのだ。濡れたように光っている。水を纏っているというよりも、内部からがにじみ出ているかもしれない。蛇や蛙は、「外側」にある(生きている)「土の構造(内部に水をもっていて、それをにじみださせる)と同じなのだ。だから、土の「内側」へ入って、土といっしょになって、私といっしょになろうよと誘っている。
 三井は最初から「内側」にいたのではなく、「入射」して「内側」に入ってみたら、そこから外へ出ていく(にじみ出してきて、あふれていく)ものに出会い、その外に出ていくものにあわせて声を出しながら、逆に「内側へおいで」と言っている。
 このあたりの入り組み方というか、ねじれ方というか、反転の仕方が、なんとなくおもしろい。「冬眠」したら、ちょっとその眠りの中に仲間を引き入れたくなる。そういう感じが、「湧きおこり」「滲んでしまう」という「入る」とは逆の運動によって、おもしろくなっている。
 「反転」ということばは、三井自身も次の連でつかっている。(そういうことが、ことばの動きを自然に感じさせる。)

内側に 内側に内側に 反転していく
言葉の刺が 人知れず丸くなり
粘った内側性にくるみこまれ
嚢が形成される いつのまにか

  (蜂もおいでよ
  (ムカデもおいで
  (ヤモリよ ヤモリよ 可愛いヤモリ

 これは、最初の引用を、もう一度三井自身が言いなおしたもの。言い直しながら「土」(冬眠)が、言いなおすことによって、三井自身の「肉体」となる。ことばは、反復するとき(反復しながら、反転もするのだ)、「肉体」の内部とより強い関係を描き出す。
 蛇、蛙ということばにさそわれて、「冬眠」ということばを私はつかったのだけれど、その「冬眠」の「場」は土のなかではないとわかってくる。これは私の「誤読」なのだが、「嚢」から「子宮」ということばを想像してしまう。「肉体」がぐいっと立体的に、「肉感」として迫ってくる。三井は「子宮」へかえること(子宮を思うこと)で、子宮のなかで「冬眠」できるのだ。三井には帰る「場」があるのだ。
 三井は子宮の中に蛇も蛙も、それから蜂やムカデ、ヤモリも誘い込み、新しいいのちとしてもう一度生み出したいのだろう。三井自身が生まれ変わりたいのだろう。
 「内側」で「丸くなった」ことばを、蛇や蛙の力を借りて、刺のあるものとして生み出したい/生まれ変わりたいということかもしれない。
 ことばが「意味」になるというよりも、連想として、次々に広がっていく。その感じがリズミカルである。「入射角」という物理用語(?)が、形にならない感情を鋭角的に刻んで、その結果、蛇、蛙、ムカデ……というような、いわば「エッジ」の強い「もの」になっているのかもしれない。
 どろどろじゃないところが、おもしろくないと感じる人もいるかもしれないけれど、私は、そうなのか、三井という詩人は、こんなふうにしてことばとものの関係をつくるのかと、ふと思った。

 で、この関係がちょっと変化するところがある。

外側からの光りが
とある角度を持つとき管は裂け
おびただしい悪意の世界汚染を開始する
夕刻
トマトを切れないナイフで切って
崩してしまう負の身体
美しい終焉だ

 ちょっと変化すると書いたのは、このトマトの部分。その3行自体はとても魅力的だが、何か蛇や蛙の世界とは違う。「冬眠」とも違う。
 「悪意の世界汚染」というような「流通言語」をつかったために、世界が分離しているのかもしれない。
 せっかく「子宮」にまで「身体」がたどりついているのだから、「悪意の世界汚染」というようなことばは別な形にかわっていかないと嘘っぽいと私は感じる。その嘘っぽさをトマトの具体的に描写が救っている。ナイフの「入射角」のためにトマトがくずれる、くずれて内部からはみだしていく感じを、「崩してしまう」と肉体の側から言いなおしているところに、この詩の最初に指摘した「ことばの交錯」(反対のものの交錯)があり、それがおもしろいのだけれど……。
 トマトは、もしかすると子宮の比喩かもしれない。
 トマトが比喩であるなら、蛇や蛙、ムカデ、ヤモリということばのなかでも、三井の身体と精神が交錯している。交錯することで、それが「比喩」にもなっている。
 あ、でもこの比喩は、後半に書いている「怨念」ということばのように、抽象化されてしまうとちょっと味気ない。(「悪意の世界汚染」というような「流通言語」をつかった後遺症だね)。「怨念」というのは読者が勝手に「誤読」すればいいことであって、作者が書いてしまうと「意味の押しつけ」になる。「意味」は読者のなかでかってに「増幅」するとおもしろいものなのだ。私は勝手に増幅させて(誤読して)、わあ、おもしろいとひとりで大騒ぎするのが大好きだ。


岩根し枕ける
三井 喬子
思潮社
コメント
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