詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和田まさ子「鯛だった」

2014-03-03 10:07:56 | 詩(雑誌・同人誌)
和田まさ子「鯛だった」(「地上十センチ」6、2014年02月22日発行)

 和田まさ子「鯛だった」は、いつのも和田の明解さに欠ける。それが少し気になる。

少女は非常階段に座っている
彼女がこの世から隠れているのは
新しい細胞を増殖する自分に
馴染めずにいるからだ
わたしの細胞はほろびつつある
美しいものを見たときには
何かを思い出す

 「少女」と「わたし」の関係が、たとえば同じ号の「トカゲ」の「小夜子さん」と「わたし(水茄子さん)」のようにはっきりしないからである。(「トカゲ」もはっきりしないと言えば、はっきりしないのであるけれど、とりあえず名前が違っている。名前が違っているからといって別人であるとは言えないけれど……。)
 「少女」に名前がないのは、それが「わたし」の「少女時代」だからだろう。
 「少女」は、美しいものを見たときに、何かを思い出す。美しいものとは別の何か。それは、言い換えると「比喩」かもしれない。「思い出す」というのは「思いつく」ということでもある。何かを見たとき(体験したとき)、いま/ここで見ているものとは違った何かがふいにあらわれる。その「いま/ここにない何か」が比喩である。そして、そのとき「少女」は「比喩」へむかって増殖していく。それは楽しいけれど、一方で「少女」は増殖していく自分(細胞)に馴染めずにいる。これでいいのかな、と疑問に思っているということだろう。
 なんだか、和田自身の「自画像」のようである。(少女時代に比べると、「比喩」が次々に出て来なくなっている--というのが「わたしの細胞はほろびつつある」ということばになっている。)

はじめは正月の鯛だったから
よろこばれたが
骨になって捨てられ
庭の花になったことなど
人間には注意深く接したが
ある人を怒らせ
ある人を笑わせ
起伏が激しさを増したので
わたしの容量では足りず
気持ちがあふれている

 「比喩」にはいろいろあった。「正月の鯛」のようによろこばれるものもなあるが、その「鯛」だっていつまでも同じ状態ではいられない。「比喩」もなまものである。いや、比喩こそなまものである。で、鯛は骨になって、庭に埋められて肥料になって、それが美しい花になって……と輪廻転生する。比喩は人を怒らせることもあれば、笑わせることもある。比喩がぴたっと決まらずに、その比喩を越えて、生の自分があふれることもある。
 で、ほら、ここまで読むと最初の「隠れている」が、よくわかるでしょ? 「比喩」を読むとき、ひとは「比喩」に夢中になって、その「比喩」を言ったひとを一瞬忘れるからね。
 比喩は実は自分を隠すものだった。比喩はもちろんそのひとの気持ちを表す特別な「道」であるけれど、あるひとつのことを選べば他のものはその陰に隠れるからね。一部を明確に見せることで、他の部分を隠すのが比喩。比喩にならなかった何かが。
 そして、その比喩はときには暴走して違ったものになる。たとえば「正月の鯛」は最初は見事な美しさ(おいしさ)だったが、食べ終わったら「骨」になってじゃまなだけ……とか。そして、比喩が変質してしまったころ、ふいに比喩を発した「少女」が思い出され、変な子だねえ、と言われたりする。比喩は、「危険」と隣り合わせなのである。比喩が「鯛」のままで終わればいいけれど、ついつい違うところまで行ってしまう。危険だねえ。

 と、こんなふうに読んでくると、すべてが「意味」になってしまう。
 「意味」になったぶん、それは不透明さを欠いてしまう。最初に書いたことと逆じゃないかと思うひともいるかもしれないが--詩の場合、透明になってしまうと逆に明解さが欠如してしまう。詩は、何か分けのわからないところがあって、その分けのわからないものを自分勝手に「誤読」する。その「誤読」のスピードが速いとき「明解」という印象になる。
 いいかげんな話かもしれないが、詩は「誤読」したものの価値なのだ。勝手に、これはこんな意味。この人はこんなことを考えている--とどんどんことばを暴走させて、何かを語れば、それが詩を読んだことになる。
 読んだときの感想を暴走させることができずに、その人の書いたことの周辺をうろうろして、「意味」めいたものを書いてしまうとき、それは、私に言わせれば詩を読んでいることにならない。書いたひとの「言い分」を聞いているだけ。おもしろみに欠ける。「へえ、あんたこういう人間だったの」と言われれば、言われた本人は言い気持ちがしないときがあるかもしれないけれど、「誤解(誤読)」というのは一種の「共感」なのである。読者が作者に近づいていく方法なのである。「言い分」を聞いていると、自分から作者に近づいていく感じがしない。「好き」になるというより、「わかりました」とうなずかされているような気持ちになってしまう。「正しい理解」というのは、おもしろくない。
 正しくなくても、おもしろい方が、私は「好き」。おもしろい、と感じたい。

 脱線したけれど、こんなふうに「意味」や「詩の構造」について何か書いていると、「好き」という気持ちが減ってくるのである。私は。

きょうは気温が低くて
血のめぐりがわるい
いいというべきところがいえず
よくないといってしまう
わたしの地軸は斜めになっている
中途半端な物語を生きてきたから
わたしを意味づけられないで困っていると
もう夜がきた
答えられない問いに
正しく答えようともがいている

 「意味づけられないで困っている」と書いているが、意味づけするからそうなる。意味づけしなければいいのだ--と言ってもしようがないね。
 わたしのこの感想も「意味づけ」になってしまう。
 「いいというべきところがいえず/よくないといってしまう」は、和田が書いたことばだけれど、なんだかきょうの私の感想のことを代弁してくれているような感じがする。
 きっと「いいというべきところ」が、この詩にある。
 たとえば、それは論理的なところ、あることばがきちんと別のことばに言いなおされ「意味」がつたわるように書いているところ……とか、ね。

 私ではないだれか別なひとなら、きっと和田のこの詩についてもっと適切なことが書けると思う。私は不透明な、不透明ゆえに私の「誤読」をのみこんでそのまま動いてくれる和田の詩が好きなので、今回はあえて、好きになれなかったと書いておく。
 私は和田のことばをとおして、いままで気がつかなかった私をみつけたい。「共感」のなかで、別な人間になってしまいたい--そういう欲望をもっている。欲望で他人を見てはいけないのかもしれないけれど、私は、単なる読者(ファン)だから、欲望にしたがい、妄想するのが好きなのだ。





わたしの好きな日
和田 まさ子
思潮社
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西脇順三郎の一行(105 )

2014-03-03 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(105 )


「桃」

道玄坂にヒヤ麦のでるころに

 西脇の書き出しはどれも魅力的だ。この一行の「意味」は道玄坂にある店が冷や麦が料理として出すころに、ということだろう。「出す」ではなく「出る」というのは一般的かどうかわからないが、私は、おもしろいと思う。冷や麦が自分で出てくる感じが、「もの」が主役として動くところが印象的だ。
 一行の音も好きだ。冷や麦の出回ること、それはたいてい一緒である。道玄坂で出るなら、丸の内や八王子でも出るだろう。でも、そうなると、音が違ってくる。
 西脇は、ここでは単にある「季節」を記しているのではない。ある季節を書くと同時に、一行の音楽をつくっている。「どうげんざか」という濁音の多い音から、「ヒヤ」麦へと動くとき、その「ヒヤ」がとても美しい。
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