川田果弧「ピアノフォルテ」(追加)(「現代詩手帖」2014年03月号)
きのう川田果弧「ピアノフォルテ」について書いた。そのとき書きそびれたこと。定型詩は、どうしてもことばに無理がかかる。不要なことばが入って間延び(?)したり、逆に凝縮せざるを得なくて窮屈になったり。
その緩急を川田は口語とセンチメンタル流通言語でバランスをとりながら動かしていた。私にはセンチメンタル言語が目につきすぎて、おもしろいと思う気持ちがだんだん減って言った。
で、この緩急について考えるとき。
杜牧「江南春絶句」(岩波文庫)がおもしろい。
三行目の「四百八十寺」。これは寺が多いことをあらわしているのだと思う。実際に四百八十の寺があったというわけではないだろう。で、その寺が多いという言い方はたくさんあると思うけれど、「四百八十寺」という文字に出会ったとき、私は驚いた。一行が七字なのに「四百八十」で四文字もつかっている。四文字つかいながら、それがあらわすイメージはひとつ。「千里」とかわらない。あるいは「鶯啼」と変わらない。「鶯啼いて」にはまだ「動詞(動き)」がある。「緑映紅(緑紅に映ず)」にはふたつの色、「映ずる」という動詞がある。情報量が多い。「四百八十寺」は、情報量が少なすぎる。
少なすぎるのだけれど。
ここが、この詩のいちばん不思議なところ。盛り沢山のイメージ、ひしめき合う運動が、この「四百八十」ですっきりする。それまでの凝縮していたことばが、風で吹き払われたように広々とする。ここには「緩急」の「緩」がある。この「ゆるんだ」広がり(それを想像するとき、そんなに想像力を必要としない)があって、ことばがおもしろくなっている。
定型詩から吸収しなければならないのは、こういう緩急だろうなあ、と思う。
俳句にもこういう緩急があるね。(具体的に思い出せないけれど、何か、異質なものがぶつかり、そこに広がりがあるものが……。)
川田の作品は、その「緩」の部分を口語で表現しようとしていたのだと私は思っているのだが、その口語の「緩」に対抗する「急」がセンチメンタルでは、全体が甘くなる。もっと異質なことばがぶつかれば、定型詩としていっそうおもしろくなったと思う。
きのう川田果弧「ピアノフォルテ」について書いた。そのとき書きそびれたこと。定型詩は、どうしてもことばに無理がかかる。不要なことばが入って間延び(?)したり、逆に凝縮せざるを得なくて窮屈になったり。
その緩急を川田は口語とセンチメンタル流通言語でバランスをとりながら動かしていた。私にはセンチメンタル言語が目につきすぎて、おもしろいと思う気持ちがだんだん減って言った。
で、この緩急について考えるとき。
杜牧「江南春絶句」(岩波文庫)がおもしろい。
千里鶯啼緑映紅 千里 鶯啼いて 緑紅に映ず
水村山郭酒旗風 水村 山郭 酒旗の風
南朝四百八十寺 南朝 四百 八十寺
多少楼台烟雨中 多少の楼台 煙雨の中
三行目の「四百八十寺」。これは寺が多いことをあらわしているのだと思う。実際に四百八十の寺があったというわけではないだろう。で、その寺が多いという言い方はたくさんあると思うけれど、「四百八十寺」という文字に出会ったとき、私は驚いた。一行が七字なのに「四百八十」で四文字もつかっている。四文字つかいながら、それがあらわすイメージはひとつ。「千里」とかわらない。あるいは「鶯啼」と変わらない。「鶯啼いて」にはまだ「動詞(動き)」がある。「緑映紅(緑紅に映ず)」にはふたつの色、「映ずる」という動詞がある。情報量が多い。「四百八十寺」は、情報量が少なすぎる。
少なすぎるのだけれど。
ここが、この詩のいちばん不思議なところ。盛り沢山のイメージ、ひしめき合う運動が、この「四百八十」ですっきりする。それまでの凝縮していたことばが、風で吹き払われたように広々とする。ここには「緩急」の「緩」がある。この「ゆるんだ」広がり(それを想像するとき、そんなに想像力を必要としない)があって、ことばがおもしろくなっている。
定型詩から吸収しなければならないのは、こういう緩急だろうなあ、と思う。
俳句にもこういう緩急があるね。(具体的に思い出せないけれど、何か、異質なものがぶつかり、そこに広がりがあるものが……。)
川田の作品は、その「緩」の部分を口語で表現しようとしていたのだと私は思っているのだが、その口語の「緩」に対抗する「急」がセンチメンタルでは、全体が甘くなる。もっと異質なことばがぶつかれば、定型詩としていっそうおもしろくなったと思う。
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