詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

川田果弧「ピアノフォルテ」(追加)

2014-03-17 09:57:19 | 詩集
川田果弧「ピアノフォルテ」(追加)(「現代詩手帖」2014年03月号)

 きのう川田果弧「ピアノフォルテ」について書いた。そのとき書きそびれたこと。定型詩は、どうしてもことばに無理がかかる。不要なことばが入って間延び(?)したり、逆に凝縮せざるを得なくて窮屈になったり。
 その緩急を川田は口語とセンチメンタル流通言語でバランスをとりながら動かしていた。私にはセンチメンタル言語が目につきすぎて、おもしろいと思う気持ちがだんだん減って言った。
 で、この緩急について考えるとき。
 杜牧「江南春絶句」(岩波文庫)がおもしろい。

千里鶯啼緑映紅 千里 鶯啼いて 緑紅に映ず
水村山郭酒旗風 水村 山郭 酒旗の風
南朝四百八十寺 南朝 四百 八十寺
多少楼台烟雨中 多少の楼台 煙雨の中

 三行目の「四百八十寺」。これは寺が多いことをあらわしているのだと思う。実際に四百八十の寺があったというわけではないだろう。で、その寺が多いという言い方はたくさんあると思うけれど、「四百八十寺」という文字に出会ったとき、私は驚いた。一行が七字なのに「四百八十」で四文字もつかっている。四文字つかいながら、それがあらわすイメージはひとつ。「千里」とかわらない。あるいは「鶯啼」と変わらない。「鶯啼いて」にはまだ「動詞(動き)」がある。「緑映紅(緑紅に映ず)」にはふたつの色、「映ずる」という動詞がある。情報量が多い。「四百八十寺」は、情報量が少なすぎる。
 少なすぎるのだけれど。
 ここが、この詩のいちばん不思議なところ。盛り沢山のイメージ、ひしめき合う運動が、この「四百八十」ですっきりする。それまでの凝縮していたことばが、風で吹き払われたように広々とする。ここには「緩急」の「緩」がある。この「ゆるんだ」広がり(それを想像するとき、そんなに想像力を必要としない)があって、ことばがおもしろくなっている。
 定型詩から吸収しなければならないのは、こういう緩急だろうなあ、と思う。
 俳句にもこういう緩急があるね。(具体的に思い出せないけれど、何か、異質なものがぶつかり、そこに広がりがあるものが……。)
 川田の作品は、その「緩」の部分を口語で表現しようとしていたのだと私は思っているのだが、その口語の「緩」に対抗する「急」がセンチメンタルでは、全体が甘くなる。もっと異質なことばがぶつかれば、定型詩としていっそうおもしろくなったと思う。
現代詩手帖 2014年 03月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジャン=マルク・バレ監督「ダラス・バイヤーズ・クラブ」(★★★)

2014-03-17 09:55:19 | 映画
監督 ジャン=マルク・バレ 出演 マシュー・マコノヒー、ジャレッド・レト

 この映画について書くとき、どうしても触れなければならない問題がある。演技と肉体の関係である。マシュー・マコノヒー、ジャレッド・レトはHIVのキャリアを演じるために大変な減量をしている。これを、どう評価するか。肉体そのものをリアルに再現しているのだが、私は、役へのこうした接近が好きではない。かつてロバート・デニーロは「レイジングブル」で体重を増やしておちぶれたボクサーを演じたが、それも好きではない。ここまでやったんだ、という演じ方が好きではない。それは演技とは違うものではないか、と思ってしまう。
 ハリウッドでは、これに似たことがしばしば行なわれる。実在の人物を演じるとき顔(体つき)を本物に近づける。「そっくりさん」に扮する。
 体重を増やしたり減らしたりするのも、その「そっくりさん」と同じやり方だ。「そっくり」を演技だと思っているのかもしれない。でも、演技は、「肉体」がそっくりということではなく、肉体をとおしてあらわれてくる何か(精神、と書いてしまうと、これもちょっといやなのだけれど)が、「ほんもの」と感じられるとき、それがおもしろいのではないだろうか。
 映画は残酷な表現媒体であって、肉体の細部を拡大してみせる。そのためどうしても肉体そのものに視線があつまり、肉体の表面(外観)がそっくりであるかどうかが、演技と勘違いされる。これは、いやだなあ。肉体として動いている何かではなく、肉体そのものだけで役者を評価するようで、どうも落ち着かない。

 と、長い前置きになってしまったが。
 前の方の、激しくやせたマシュー・マコノヒーの演技は、私は好きではない。あまりにも肉体が露骨にさらされる。ジャレッド・レトもかなりやせてスクリーンにあらわれて、これではまるで減量合戦だぞ、と思っていると。
 マシュー・マコノヒーがメキシコに行き、治療薬(だけではないのだが)を大量に仕入れるあたりから少し状況が変わってくる。30日で死ぬはずが死なずに生き延びて、薬を売って金を稼ぐところから少し様子が変わってくる。たぶん最大に減量するまえに撮影したのだろうけれど(映画の中の時系列と撮影の時系列は逆なのだろうけれど)、表情もいきいきしている。生きていて、何が悪い、とでも言うように、エネルギーにあふれている。HIV感染者であることを忘れてしまう。余命30日と宣告された人間であることを忘れてしまう。
 そして、これが私の言いたいことなのだが。
 このマシュー・マコノヒーがHIV感染者であると忘れてしまうこと、観客に感じさせないこと--これこそが、この映画のテーマである。彼がHIV感染者であるのはたまたまのことであり、この映画のテーマは「生きる」ということ。どんな病気であるかがテーマなのではなく、どんな病気であろうとそれにめげずに生きてやろうとする貪欲な意欲。それも他人に頼って生きるのではなく、自分にできることを探して生きる。そのことに、夢中になってみてしまう。
 どうでもいいようなシーンなのだけれど、たとえばHIVキャリアとわかってから女とセックスするのを避けていた(セックスできないようになっていた)マシュー・マコノヒーが、「バイヤーズ・クラブ」にやってきた女とセックスするシーンがある。トイレに女を連れ込み、他人に声を聞かれるのを気にせずに、セックスする。この無軌道さというか、無秩序さというか、これがすばらしいね。他人がなんと思おうが関係ない。生きたいように生きる。
 で、マシュー・マコノヒーは、戦う相手が「病気」ではなく、だんだん「社会」そのもであることに気がついていく。FDR(だったっけ? なんでもいいんだけれど)、薬剤を取り締まる国家、「安全」を旗印に国民に薬剤を選択する自由を与えない国家こそが敵なんだと発見していく。
 このあたりになると、マシュー・マコノヒーは、もう完全に健康な人間とかわらない。彼はHIVと闘うふりをして、本当は国家と闘っている。健康な人間にもできないことを、いきいきとやっている。彼がHIVを忘れ、国家と闘うとき、私もマシュー・マコノヒーがHIVのキャリアであることを忘れる。
 このとき。
 「平等」というものが動いている。「差別」が消えている。
 HIV感染者であるということだけを描くと、そこにどうしても「差別」(同情)がはいり込む。でも、国家と個人の闘いになると、そこに病気があっても、一瞬、忘れてしまう。(ほんとうに忘れてしまってはいけないんだけれど。)「病気」の存在を乗り越えて、マシュー・マコノヒーと観客の「共闘」がはじまる。「連帯」がはじまる。
 こんな政治的メッセージを映画は強く打ち出しているわけではないが、それを感じる。押し付けではなく、楽しい感じで、その「共感」が動く。

 だからこそ、と言っていいのかどうか、わからないが。
 20キロも減量して「肉体」をHIVキャリアに近づけなくてもいいのだ。だいたいマシュー・マコノヒーはやせている。そのままHIVキャリアと言ってしまえばよかったのだ。「平常のマシュー・マコノヒー」を多くの観客は知っている。そういう観客は30日しか余命のない人間を演じるのにマシュー・マコノヒーはいつもと同じ肉体をしているじゃないかと思うかもしれないが、そんなことは一瞬のこと。肉体が動き、ことばが動けば、観客は「動いているもの」に集中する。動かない「外形」なんか関係がない。
                     (KBCシネマ1、2014年03月16日)

マジック・マイク DVD
クリエーター情報なし
東宝
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする