詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「肉体」と「頭」と「こころ」(秋亜綺羅との対話から)

2014-08-04 12:09:16 | 詩(雑誌・同人誌)
「肉体」と「頭」と「こころ」(秋亜綺羅との対話から)

 先日、秋亜綺羅の詩の感想を書いたら、フェイスブックに次の反応があった。最初の発言はツイッターらしいけれど……。で、私が応えて、また秋亜綺羅が書きついでいるのだが。(以下のように。)

Retweeted 秋亜綺羅 (@akiakira _):
谷内修三が「詩と思想」8月号の秋亜綺羅の詩「折原みおへ」を取り上げてくれています。「秋亜綺羅は一種の『反面教師』なのか、あるいは『鏡』と書いているけれど。うん。鏡は、左右反対に映るから、ね。

谷内修三「鏡は、左右反対に映る」。
それはそうだけれど。
たとえば「三角形の内角の和は180 度である」という「定理」はなんのためにあるのだろうか。
「定理」がなくても、それはかわらない。
なぜ、ことばにするのだろうか。

ことばは、運動の仕方(動き方)を探している。
自立と、自律。
それを「人間(肉体)」とどう結合させてつかみとるか。

秋亜綺羅「定理」がなくてもかわらない。って。数学者は普遍の部分を定理といっているだけでしょ。血液が心臓を中心に動いているように、ことばはまず脳に突き刺さって、そこから肉体に供給されると思っています。肉体にはいろいろな機能があるけれど、脳は他者のことばを消化し、じぶんのことばにする役割があると思う。もちろん脳だって、肉体の一部ですよね。定義もせずに使うとわけがわからなくなるけれど、「肉体」に対抗することばは「頭」じゃなくて、ふつう、「こころ」「たましい」じゃないですか。

 当たり前のことだけれど、ことばの「定義」はひとそれぞれ。私と秋亜綺羅では「頭」「肉体」「こころ」の「定義」がまったく違う。
 私は「肉体」と「こころ(精神)」を分けては考えない。(分けて考えると、途中で考えていることが矛盾してしまうので、分けて考えない方を選んでいる、というのが正しい言い方かもしれないが。)だから「肉体」と「こころ」は対抗しない。けれど「頭」と「肉体」は分けて考えている。「頭」と「肉体」は対抗するかどうかはわからないけれど、一体ではない。
 こういう話は抽象的に語りはじめると、どこまでも抽象的になるので、具体的に言いなおそう。
 「頭」のある位置(肉体に占める場所)はどこか。誰もが「頸」の上の方、眼や耳や鼻や口がある部分を「頭」と呼ぶ。でも、「こころ」はどこにあるか。「心臓」の位置? 「頭」と同じところ?
 好きなひとといっしょにいる。手が思わず、胸に触れる。いや、意図的に胸に触れる。そのとき「こころ」は「手」にある、と私は考える。そして、胸にさわって、それが受け入れられるとキスをする。そのとき「こころ」は唇や舌にある。そのとき勃起したら「こころ」はペニスにある。(途中を省略して)さらに進んで射精したら、「こころ」は射精という自分ではどうすることもできない動きのなかにある。精子のなかにあるのか、ペニスの内部の感覚にあるのか特定できないが、どこか「そのあたり」にある。
 「こころ」は瞬間瞬間、場所を変えて「肉体」を感じさせる。「肉体」が感じると「こころ」も感じる。これは「一体」のもの。分離できない。「感じる」という「動詞」のなかで「肉体」と「こころ」は一つになっていて、それは「部位」として特定できない。「こころ」は「心臓」にある、という具合には言い切ることができない。それはけっして「肉体」とは対抗しない。「肉体」がないと動かないのが「こころ」だ。「こころ」は「肉体」と同じように、たったひとつの「こと」である。事件である。
 「頭」の仕事は「感じる」ではなく「考える」「判断する」「わかる」かもしれない。その「考える」「判断する」「わかる」にも、少しおもしろい言い方がある。職人が金属の丸い棒を削っている。その直径をメジャーで測らなくても指でさわって、眼で見て、それがミリ以下の単位で正確にわかる。このとき職人は眼で「わかる」。(あとでメジャー詩で計測して、数字をあわせ「頭」でそれが正しいと判断する。)いちいちメジャーを出さずに、指で障って、ここはもう少し削った方がいいと「考える」ということもある。あるいは他人の仕事を見て、眼で「それは少し削り方が足りない」と助言したりする。「肉体」でひとは考える。こういう「肉体」になった「考え」「判断」「理解」は、とても重要だと私は思っている。「頭」の仕事は、あくまでも「追認」である。他人と何かを共有するための「方法」であると私は思っている。
 「追認」の「方法」に過ぎないものを、「運動の基準」にしてしまうと、何かおかしくなってしまう、と私は考えている。「肉体」の制御といえば聞こえはいいけれど、外部からの制御は「自由」とは相いれない。(「ものづくり」はそれでもいいかもしれないが、それ以外のときは厳しい問題になる。--これは、書くと長くなりすぎるので省略。)
 直径10センチの棒を造るにしても、つくり初めは何度も何度もメジャーで計測しながら造るのだろうけれど、それをいつまでも機械に頼るのではなく「肉体」そのものの「感覚」でつかみとっていくとき、それは「完成」する。つまり、何かあったとき、自在に対応できる。「肉体」が「自由」に動いて、そこに起きていることを修正する。そういうことができるようになると「職人」と呼ばれる。こういう「自由」を私は大切にしたい。
 「肉体」で「運動の基準」そのものをつかみとることを「おぼえる」という「動詞」で私は表現している。「おぼえる」は「つかえる」でもある。
 「頭」で「おぼえる」ではなく、「肉体」で「おぼえる」。そして「肉体」をつかって、何かをする。「頭」で何かをするのではなく。
 言い換えると、そこにある直径10センチの棒を、メジャーをつかってそれが10センチであると測定することは私にもできる。そのとき私は「頭」をつかっている。メジャーは外部化された頭脳だ。でも、職人は手でその棒に触り、手で判断する。手で測定する。「頭」は「肉体化」されている。私は「肉体化」しているものを信じている。
 食べ物は特にそうだな。実際に自分の「肉体」のなかに入れるものなので、舌がおぼえているものを頼りにする。塩を何グラム、砂糖を何グラムつかっているから、この味は「正しい」ではなく、舌が「これでいい」というものを信じている。

 話は、ずれたのか。ずれていないのか。よくわからないが……。

 数学の定理。三角形の内角の和は 360度。それは定理する前から 360度だけれど、そして永遠に変わらないのだけれど。なぜ、定理する必要があるのか。きっと頭の動かし方を「学ぶ」ためにある。こんなふうに「ことば」を動かせば、その「ことば」は他人と共有されるものになるということを「学ぶ」ためにある。「学ぶ」そして、「おぼえる」。つまり「つかえる」ようにするためにある。なんでも「つかえる」かどうかが問題なのだ。どう「つかう」かが問題なのだ。
 直観でいうしかないのだけれど(感覚の意見でしかないのだけれど)、この「ことばの動かし方」の根底に「音楽」がある。音の響きへの「肉体」の反応がある。どんな音の組み合わせでも、それはそれで「音楽」なのだろうけれど、長い歴史のなかで一定の「和音」感覚のようなものが共有されてきていて、その「和音」を引き継いでいるものは、私には「聞きやすく」感じられる。そういう「ことば」を私は直感的に選んで読んでしまう。秋亜綺羅のことばも、とても読みやすい。だからこそ、私は何か警戒してしまうのだけれど。それを読みやすいと感じる私は何か重要なことを見落としているのじゃないかと不安になるのだけれど。

 なぜ、警戒するかというと。

 秋亜綺羅のやっていることは、「定理」を利用している。利用するといっても、それをそのまま「証明」につかうのではなく、「定理」をひっくり返してみせて、そのとき見えてくるものを「これは、どう?」とみせる類のものである。「定理」の解体、「定理」が生まれる以前の混沌のようなものが一瞬、そこにひらめく。それはそれでいいのだけれど、そういう「手法」というのは、「肉体」を裏切らないだろうか。言い換えると、秋亜綺羅の「逆転の定理(裏返しの定理)」というのは、自分の「肉体」で反芻できるものなのだろうか。自分の「肉体」にしてしまうことができるのだろうか。
 私は「頭」が活性化される悦びのようなものを秋亜綺羅のことばに感じるけれど、「肉体」のどの部分もそのとき反応していない。私が鈍感なだけなのかもしれないが、うーん、警戒してしまうなあ。

 秋亜綺羅のやっている「ことば」で「想像力」を解放する(「想像力」を暴走させる)というのは、「肉体」を置き去りにした「頭」の仕事という感じがする。それはそれで刺戟的なんだけれど……。
 「頭」で「肉体」を制御するのではなく、「肉体」で「頭」の暴走を制御しないといけないのではないかな、と思っている。「肉体」にできないことを「頭」がこれは可能といってるから、そうしてしまう、というのは、どうも違うと思う。この頃は、特に。
 誰かがどこかで書いていたが、原発の近く(30キロ圏内?)の「避難計画」が完成したから原発を再稼働させる--って、変な論理でしょ? 「頭」は確かにそれで「安全」と言う。「頭」が言うことって、何か奇妙だ。

 秋亜綺羅自身も、実際の行動を見ていると「頭」じゃない部分で動いている部分があって、そういうところは信頼できる。
 先日東京で会ったとき、秋亜綺羅は次の詩集の色校正を見ていた。二度塗りしたバックの色と一度塗りの色を比較して、二度塗りの方を「妙に明るい感じは何だ、ということにもなるね」云々と言いながら、一度塗りの方を選んでいた。このとき「一度塗り」「二度塗り」という区別は「頭」でしている。しかし、色の感じは「肉体(眼)」でしている。眼でおぼえている「暗さ」あるいは「明るさ」というものを頼りにしている。その「基準」をつかっている。
 ひとは最後は「肉体」で動く。
 そうであるなら「肉体」のことばを鍛え上げることが、あらゆる文学の仕事だと私は思う。






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池井昌樹『冠雪富士』(43)

2014-08-04 10:28:51 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(43)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「寒雀」。池井は詩集の最後の、小さな「歌」で締めくくっている。

いつかまた
しあわせなひのくることを
いつかまた
ともにあるひのくることを
おもっていまは
まいりましょう
めぐりくるそのときまでは
こんなけわしいひとのよの
ひとのころもをぬぎすてて
いまはとびたつ
ひとりひとりで

 ここにはいくつかの「時間」がある。最初に書かれている「いつか」。それは「しあわせのくるひ」「ともにあるくひ」と言いなおされ「めぐりくるそのとき」とも言いなおされている。
 最後に出てくる「いま」もまた「時間」である。
 「いつか」は未来、「いま」は現在。
 いくつかの時間と書いたが、この詩に書かれているのはそのふたつの時間かもしれない--と言おうとして、私はつまずく。

 池井の書いている「時間」は「いつか」でも「いま」でもない。
 「また」が池井の「時間」なのだ。
 反復すること、と言い換えられるかもしれない。
 池井はただひたすら反復する。繰り返す。「過去」を「いま」に、「いま」を「未来」に。そうすると、「未来」のなかに「過去」が生まれ出る。「未来」へゆけばゆくほど「過去」があらわれる。「根源」が姿をみせる。「根源」を「必然」あるいは「正直」と言い換えてもいい。
 人の世が「こんなけわしい」ものであっても、「正直」へひとりで突き進めば、その「正直」は「必然」なのだから、かならず「永遠」になる。



 今回の詩集には傑作と駄作が入り混じっている。駄作なんかない、と池井は怒るだろうが、駄作がある。(どれであるかは、それとなく書いてきているので「名指し」はしないが……。)
 そしてそれでもと言おうか、あるいはそしてそれだからこそと言おうか、この『冠雪富士』は池井の代表作である。いちばんいい。『晴夜』から池井の詩はすばらしい展開(深化)で私を魅了するが、今回の詩集がいちばんの傑作だと思う。
 理由は単純である。
 「未完成」の部分があるからだ。「駄作」があるからだ。
 「未完成」の部分は読者が完成させるしかない。完成することによって、読者は「池井昌樹」になる。大詩人になる。そういう興奮がある。
 どんな詩でも小説でもそうだが、「完璧」につくられていると「傑作」とはいえない。「完璧」なものは閉ざされている。そこで完結してしまっている。それでは読者は「ことば」に参加できない。「ことば」とセックスして、互いに変わっていくということができない。それでは、そこから「愛」が生まれようがない。
 人間、生きてきたからには誰かを好きになって、自分が自分でなくなりたい。自分でなくなる「わくわく」を楽しみたい。そういう「わくわく」は、やっぱり嫌いなところ(未完成で、いやなところ)があるときの方が、なんというか、興奮する。「完璧」が相手だと、自分が削られていく。削られることでととのえられる--そういうことを求める人間には「完璧」が「重要」だろうけれど、私は間違いながら、間違えることで自分の知らなかった世界へ踏み込むことが好きなので、そう思うのかもしれない。

 別なことばで言いなおしてみよう。
 私はいつでも「池井の詩は大嫌いだ。あんなくだらないものはない」と言える。大声で言える。どんなに私が批判しようが、否定しようが、池井の詩は私のことばなんかには傷つかず、いつでも私のそばにいる。それがわかっているから、「大嫌いだ、死んじまえ」と言うこともできる。
 それは子どもが親に対して、そう言うのと同じである。
 いつだって、「大嫌い、死じまえ」と言ったことを忘れて、「大好き」と言えば、その瞬間から「大好き」が戻ってくる。「大嫌い」と言ったのは「大好き」の気持ちをより強くするために、そう言ったに過ぎない。
 私は池井の詩の前では、甘えん坊の駄々っ子だ。そうなれることが、私にはとてもうれしい。





谷川俊太郎の『こころ』を読む
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(135) 

2014-08-04 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(135)        2014年08月04日(月曜日)

 「青年詩人、二十四歳」はカヴァフィスの二十四歳のときの記憶だろうか。

脳髄よ、今こそ力の限りを尽くして働けよ。
一方的な情熱であいつは壊れてゆくじゃないか。
気も狂う状況にいるじゃないか。

 「あいつ」と書かれているが、他人ではないだろう。自分を「あいつ」と客観的に見ようとしている。「客観」へとカヴァフィスを駆り立てているのが「脳髄」である。「頭」に対して呼びかけている。冷静に状況をみつめてみろ、と。

なるほど、日々、崇める顔にキスしているし、
手を絶妙な四肢の上に載せてはいる。
だが、これまでにない烈しい愛し方をしながら
こころよい満足がないじゃないか。
ふたりが同じ強さで求めあう時の
あの満ち足りた感じがかけているじゃないか。

 「満足」は「本人」にしかわからないものである。それを、わかって、そして批判している。これは「あいつ」が「あいつ」ではなくカヴァフィス自身であることの証拠である。「あの満ち足りた感じ」の「あの」は、本人にしかわからない「あの」体験である。
 さらに、ことばはつづく。

(ふたりは異常の愛への傾きが同じ強さじゃなくて
まったくの虜はあいつだけだ)

 カヴァフィスは相手が冷めかけているのに気づいている。それだけではなく、相手が冷めかけているのに、カヴァフィス自身は、まだその「愛」の虜になっている。「あいつだけ」と二人を明確に区別して、その「だけ」と激しく見つめたものに呼びかけている。
 この様子をカヴァフィスは、括弧のなかにことばをとじこめて、そのことばを芝居の「ト書き」か何かのように、つまり、それまでの「客観」よりももう一段上の「客観」で描写しようとしている。
 そうせざるを得ないほど、深刻な状況なのだ。カヴァフィスは愛に(肉欲に)溺れ、相手は知らん顔。どうしたら愛と官能を取り戻せるか。

あいつは疲れ、神経はずたずた。

 どんなことをしたって、もう回復はできない。だからこそ、カヴァフィスは最後にもう一度「脳髄よ、今こそ力の限りを尽くして働けよ。」と自分に向かって呼びかける。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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