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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

河瀬直美監督「2 つ目の窓」(★★)

2014-08-06 19:02:09 | 映画
監督 河瀬直美 出演 村上虹郎、吉永淳



 映画の前半にふたつ見どころがある。ひとつは冒頭の波。台風の波なのだが、色が静かで美しい。海のはらわたがふくれあがりつややかにうねる。その上に砕けた白い波が覆いかぶさる。海のなかで、海が動いている感じがなまなましくて、冒頭のシーンだけで私は 100点を付けたくなった。そのあとの山羊を殺すシーンもいいなあ。殺したあと、「よくがんばった」というふうに老人が山羊の首筋を手でぽんぽんと叩くのだが、これも涙がでるくらい美しい。 100点+ 100点で 200点。さらに、奄美の緑がとても美しい。緑のなかに「黒(闇)」ではなく「銀(光)」があって、それが内部からあふれてくる感じ。もう 100点追加して 300点。
 こういうどんどん 100点の要素が増えてくる映画は、あとはその 100点がいかに「減点」のないまま持続するかという変な見方になってしまいがちなのだが……。どきどき、不安を抱えながら見てしまうことになってしまうのだが。川瀬直美が自分の最高傑作と言ったのもよくわかる。なぜカンヌで賞をもらえなかったのか、よくわからないなあ。
 しかし、すごいなあ。そのあともいいシーンがあるなあ。
 もう一度山羊を殺すシーンがあって(冒頭のシーンは、まあ予告のようなものだ)、そのとき山羊がなかなか死なない。いつまでも生きている。で、たまりかねて少年が「いつまでつづくんだよ」というようなことを、ふと洩らす。彼は島にはいるけれど島で生まれ育ったわけではない。その「違い」がこの瞬間に、どん、と出てくる。これがいいなあ。(脚本に、そうあったのか、あるいは撮影中に思わず少年が洩らしてしまった瞬間をそのまま映画に取り込んだのか--たぶん後者だと思うが、それはそれでとてもいい。偶然を必然に変えていくとき、映画はいっそう豊かになるからね。)
 それから少女の母親の臨終のとき、親類や近所のひとがあつまっている。母親が島唄を聞きたいという。その要望に応えて島のひとが歌う。それが踊りになっていく。死んでゆくのだが、なんともエネルギッシュだ。山羊のと比較してはいけないのだが、つなげてみるべきだろうなあ。死ぬというのは簡単ではないのだ。だから、それを一生懸命応援する、悲しむのではなく励ます--そういう「生き方(思想)」が、ごく自然に描かれている。これも、とてもすばらしい。
 もう、これは大傑作、文句の付けようがない。
 そう思っていたのだが、少女の母が死んだあと、少女と母親(生と死)の主題(?)が終わったあと、もう一つの主題(?)が出てくる。少年と母親との関係。ここからが実につまらない。母親は何人もの男とセックスをしている。それが少年には許せない。で、少年は少女に「セックスしよう」と誘われたあと、それを断り、女性不信のようなものを母親にぶつける。それを追いかけてきた少女が批判する……というところから、これは映画ではなく「意味」の構築というばかげたものになってしまう。せりふの言い回しに、すこし「肉体」の要素は出てくるが、そんなものは「演技」であって、ぜんぜんおもしろくないなあ。舞台が奄美である必然が消えてしまって、どこかの「舞台劇」になってしまっている。
 それまでは 100点満点どころか 500点くらいの映画という感じで見ていたのだが、一気に興奮がさめてしまった。30点くらいの映画になってしまった。
 きっと冒頭の波の影像(海の影像)がうまく撮れすぎたんだなあ。奄美の緑(自然)も思っていた以上に完璧に撮れてしまって、その影像に飲み込まれてしまった。奄美に飲み込まれてしまった。そのため気がついたら自分のエネルギーがなくなっていた、ということかな? それならそれで、少女の母親が死んだところで映画を終わってしまえばよかったのだ。少年にあれこれ語らせなくても、前半の部分だけで母親がいろんな男とセックスをしている、それについて少年がいやな気持ちをもっている、ということは充分に描かれている。いやでありながら、母親のことが気がかりである、というのも充分わかる。変な「決着」(結論)をつけくわえたために、映画が台無しになってしまった。書いた脚本は書いた段階で終わり。撮影がはじまれば、そのとき撮れた影像を基本に脚本を捨てて、映画が動くままに動いていくという覚悟が欠けている。
 母親が死ぬところまで見たら、映画館を出てください。そうすれば「傑作を見た!」と興奮できます。
                     (2014年08月06日、KBCシネマ1)





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中井久夫訳カヴァフィスを読む(137)

2014-08-06 09:50:17 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(137)        

 「同年の友(素人画家)の描いた二十三歳の肖像」は誰の肖像だろう。カヴァフィスの肖像か。あるいはカヴァフィスの恋人の肖像か。カヴァフィスの恋人の肖像と読むと、とてもおもしろい。

グレイのジャケツのボタンを外し、
チョッキもネクタイもなしで、
バラ色のシャツを着せ、
胸をはだけさせて、
美しい頸と胸がかいまみられるようにし、

 こういうスタイルが「男色」の、誰かを誘うときの合図だったのだろう。

ひたいの右側を髪で隠した。
美しい髪。
(この子が最近はじめた髪型だね)

 描かれている青年は、仲間うちではすでに馴染みなのだ。だから細部の変化も、みんなに共有されている。きっと胸のはだけさせ方も共有された合図なのだろう。
 その肖像の最後、唇を描くときの苦悩と悦びを、カヴァフィスは次のように書く。

ああ、あの子の口、くちびる、
特殊な性の快楽の渇きを今すぐにでも医してくれそうなくちびるよ。

 ここに書かれているくちびるの描写はかわっている。具体的な「形」が示されていない。「特殊な性の快楽の……」では、「特殊な性の快楽」を知らないひとにはどんなくちびるか想像できない。
 このことは裏返して言えば、カヴァフィスは、「男色」の詩を一般のひとに向けては書いていないということだろう。「男色家」全体にも向けては書いていないのかもしれない。「あの子」とわかる仲間うち、髪型の変化に気がつくかぎられた仲間うちに向けて書いている。

 「わかる」と書いて、ふと思い出すのだが、「スパルタにて」のクレオメネスの母は「ラギデス家のような成り上がりには/スパルタ魂はわかるまい」と書いていた。わからない相手は相手にしない--それがカヴァフィスの「思想(肉体)」かもしれない。
 クレオメネスの母のことばを、「男色家ではないひとには/私(カヴァフィス)の魂はわかるまい」と書き直せば、詩人のことばが「修飾語」をもたない理由も納得がいく。「修飾語(美の説明)」を共有しているかぎられた人間に向けてのみ、カヴァフィスは詩を書いた。「主観」をそのままさらけだした。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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