詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋亜綺羅「折原みおへ」

2014-08-02 10:12:16 | 詩(雑誌・同人誌)
秋亜綺羅「折原みおへ」(「詩と思想」2014年08月号)

 秋亜綺羅「折原みおへ」には秋亜綺羅を「誤読」するための要素(仕掛け)がふんだんに折り込まれている。

透明な画びょうがあってね
それを部屋の壁に押し込むと
壁の奥までが透明になる
画びょうから覗くと
宇宙の果てまで見えるというわけだ
そんなものないさと誰もがいう
そんなものないよ

 「透明な画びょう」の「透明」が仕掛けのひとつ。「透明」の反対は「不透明」だろうか、「汚れた」だろうか、「汚い」だろうか。いろいろ考えることができるが「透明」は「美しい」と思う。「弱々しい」(傷つきやすい/汚れやすい)とも思う。それは、何と言えばいいのか、思春期の「自分のこころ」に似ていると思う。あっていると思う。--という具合に、思春期をくすぐる。
 ここで、こころそのものにのめりこんでいくのではなく、秋亜綺羅は「頭」を刺戟する。
 透明な画鋲壁に押し込むと、そこに「透明」な穴ができる。これは、透明な画鋲の「透明」に視線を固定するからであって、現実にはそういうことは起きない。現実は「透明」のなかに「不透明」が割り込んでくるから、透明な画鋲は不透明な壁の内部につつまれ、「真っ暗」しか見えない。その「真っ暗」しか存在しないとこころで、秋亜綺羅は「頭」を働かせ「真っ暗が見えるというのは、そこに透明があるからだ」と主張する。そして、その「透明」をそのまま動かしていけば、どこまでも「透明」はつづいていって、宇宙の果てまで見えるという。
 この「不可能」な運動を、秋亜綺羅は「想像力」と呼ぶ。ほんとうはありえないことを、その「現実」を歪めてみてしまう力を「想像力の暴力」と呼ぶ。「想像力の暴力」は、思春期(青春期)には、なかなか刺激的である。「現実」を壊して違うものを現実にしてしまいたいと欲望するのが思春期だからね。
 こういう「想像力」と、その「想像力が描き出す世界」に対して、「そんなものないさ」と誰かが言う。たとえば、私は「そんなものない」と言う。「頭」ででっちあげただけのものだ、と批判する。
 秋亜綺羅は、そういうことは承知している。だから「そんなものないよ」と即座に「自己否定」してみせる。
 で、この「自己否定」が、秋亜綺羅の「仕掛け」の二つ目。
 問題は「何を否定」しているか、ということ。秋亜綺羅は「透明な画鋲」を否定したのか、壁に押し込むと「壁の奥が透明になる」を否定したのか、あるいは「透明な画鋲をのぞくと透明が見える」を否定したのか。秋亜綺羅は透明な画鋲という「存在」は否定していない。(ガラスタイプの画鋲は実際にある)。「壁の奥が透明になる」という「こと」は否定しているかもしれない。「透明なものをのぞくと、そこに透明が見える」ということは、どうだろう。この「論理」は否定していない。「宇宙の果てまで見える画鋲」は否定しても、透明をのぞくと透明が見えるという「論理」はまもりとおしている。「論理」を貫き通す、「論理」が描き出す「運動」をまもりとおす。
 「そんなものない」と批判されれば「そんなものない」と表面の論理を相手に譲り、そこから逆にもう一度引き返し「でも、透明をのぞいたとき、透明は見える。いや、そこに透明が存在する」と「論理」をずらしながら、「透明」という「存在」がもっている「運動の可能性」をまもる。--あ、こんなことを書いていない? 書いていなくてもかまわないのだけれどね。私は、秋亜綺羅はそんなふうに「頭」を動かしていると「誤読」するのである。

 秋亜綺羅は、あくまで「ことばの論理運動」が描き出すもの、ことばがそんなふうに動いて行けるということを書く。「現実」ではなく、「ことばの論理」の自由を暴走させる。「想像力の暴力」を優先する。想像力が暴走する瞬間に見える、「ことばの論理」を大切にしている。

光を反射しない鏡なんて鏡じゃない
透明な鏡なんて鏡じゃない
そんなものはないけれど
世界も宇宙も透明だからやっかいなのだ
何も見えないということだからね

 透明な鏡なんてない。ないけれど「ことばの運動」で、それがあるかのように書くことができる。「透明な鏡」と書いたときから(言ったときから)、それは「想像力」のなかには存在してしまう。「現実」に存在しなくても、「想像力」のなかには存在する。
 「想像力」のなかに存在するなら、それはやがて「世界」に「現実」として存在するようなる。いまない「存在」を存在させる(つくりだす)というのが、人間の運動であり運命だからね。それは「透明な鏡」というような「もの」だけではなく、「領土」とか「国境」なんかも同じだ。「領土(国境)」などというものも、実際は「透明」だ。肉眼では見えない。肉眼で見えるのは「国境」に気付かれたフェンスや、入国(出国)管理の建物、そこで働く人間にすぎない。そういうものしか見えないのに、私たちはそれを「見える国境」のように錯覚している。そこには、やはり「想像力」が働いていて、それは存在しない「国境」を存在する確固としたものと「誤読」しているということになる。
 あ、こんなことも秋亜綺羅は書いていないのだけれど、書いていると私は「誤読」する。「論理」はいつでも、どんなふうにでも「誤読」が可能である。変更が可能である。「ことばの暴力」はいつでも自由自在である。

 別の形でも言いなおしている。

なぜあなたはあなたで
わたしはわたしだったのか
あなたがわたしで
わたしが宇宙であってもよかったのに
わたしはあなたの影に潜み
あなたの実存を追いかける
あなたはいま歌っているかもしれない
いまわたしはあなたの吐息のなかにある

 歌っているあなたの吐息のなかに、いまわたしはいる--というのは、なかなか美しいイメージだ。そこには不思議な「肉体」がある。何か「頭の論理」を超えるものがあって、刺戟的だ。でも、それはわきにおいておいて。
 この連にある秋亜綺羅の「仕掛け」について書いておく。
 「わたしが宇宙であってもよかったのに」の「……であってもよかったのに」が秋亜綺羅の「頭」の基本である。あらゆるところに「……であってもよかったのに」を補うことができるし、重要な行を「……であってもよかったのに」に書き換えることができる。
 透明な画鋲があって、それを壁に押しつければ透明が見え、透明の果てに宇宙が見えるということが「あってもよかったのに」。透明な鏡なんて鏡じゃないが、透明な鏡が「あってもよかったのに」。
 そして「あってもよかったのに」のあとを、さらにことばを動かしていく。「あってもよかったのに」は、それは「なかった」(ない)ということを論理の裏側から語り直すことだが、この「論理」の裏側から「論理」を利用してことばが動くとき、そこに実現されなかった現実が欲望として噴出してくる。
 このときの「論理」ではなく。
 このときの「噴出のリズム、スピード、エネルギー」が、秋亜綺羅の詩である。(と、私は、ここで飛躍して書いておく。)リズムがあるから、それは「音楽」でもある。そこに、不思議な「内在律」のようなものがあって、それが好きで私は秋亜綺羅の詩を、批判しながらも読みつづけているのだけれど……。
 あ、なんだか、書いていることが少しずつずれていくようだが。

 端折って書いておくと、「論理の欲望」を解放するということを「想像力の暴走」と呼ぶこともできるし、ほかのあれこれで言いなおすこともできるのだが、こういうことを私は「頭の運動」に過ぎなくて「肉体の運動」ではないと批判している。ただし、秋亜綺羅の「頭の運動」は、秋亜綺羅の場合は「頭」が「肉体」になってしまっているので、「頭の運動」と批判しても秋亜綺羅には通じない。
 「論理」というのは科学の世界では「必然」である。(頭の世界では必然である。)でも、私は「論理」というのは「偶然」であり、「偶然」を強固なものにするでっちあげに過ぎないと考えている。つまり、権力の嘘だと考えている。「意味」の暴力だと考えている。
 まあ、秋亜綺羅は、権力の意味と戦うために「想像力の暴力」が必要だと考えているのだと思うけれど、それはそれとして「論理」的には正しいと思うけれど、私は、そういう「頭」の戦いにはうさんくさいものを感じている。
 それと戦う方法を、私は「うさんくさい」と呼ぶことしかできない、どこかに「嘘」があると感じているとしか言えないのだけれど。
 それじゃあ、そういうものはほうっておけばいいじゃないか、と言われそうだが。
 ほうっておくのは、まずい。私自身、どこかで秋亜綺羅の「論法」に魅了させられる部分があって、それはなぜなんだ、それをどうしたらいいのか、ということは常に意識しないと、自分のなかにある「問題点」を突き破れない。
 秋亜綺羅は一種の「反面教師」なのか、あるいは「鏡」のようなものかもしれないなあ。


透明海岸から鳥の島まで
秋 亜綺羅
思潮社
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池井昌樹『冠雪富士』(41)

2014-08-02 09:00:29 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(41)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「夢」は池井の「いま」を書いている。そしてその「いま」というのは、たとえば2014年08月02日であって、同時にこれまでのすべての「時間」である。これから先のすべての「時間」でもある。

ほら あなた
ユメミテイルメ
おや そうか
なにをユメみていたのかな
あとへあとへとゆきすぎる
きのうおとといさきおととい
バスのまどにはきょうのそら
ゆううつなそのくもまから
けさもきれいなひがさして
ああそらのおくそらのおく
あなた また
ユメミテイルメ
いくらそんなにいわれても
あとからあとからきもりない
あしたあさってしあさって
ゆううつなそのくもまにも
さしこんでくる
ひとすじのユメ

 「きのうおとといさきおととい」と「あしたあさってしあさって」が「ゆううつな」「くもま」ということばのなかで一体になってしまう。区別がない。そこには「きれいなひ」が射してくる。「きれいなひ」は「ひとすじのユメ」と言いなおされている。
 池井はそれをみている。
 「あなた」と呼びかけたひとには、その「きれいなひ(ひとすじのユメ)」は見えない。呼びかけたひと(妻?)に見えるのは、池井の「ユメミテイルメ」である。池井の「目」が見える。それは「現実」を見ないで「夢」を見ている。そう思うのは、繰り返しになるが、妻には池井の見ている「光景」が見えないからである。

 妻は池井が見ている「光景」(あるいは「現実/真実」)が見えない。見えないけれど、それが大切なものであることはわかっている。ただ、わかっているといっても、それでは何ができるか--ということになると、なかなかむずかしい。どうすればいいのか、よくわからない(のだと思う。わかっているかもしれないけれど。)
 わからなくても、ひとにはできることがある。
 いっしょにいることだ。「あなた」と呼びかけることだ。この呼びかけによって、池井は妻の世界とつながり、同時に、池井の「無時間」の世界とつながっていることも自覚する。
 これは、妻にあてられた感謝のラブレターかもしれない。

谷川俊太郎の『こころ』を読む
谷内 修三
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(133)

2014-08-02 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(132)        2014年08月01日(金曜日)

 「一九〇一年の日々」も男色の詩。二連構成の詩で、内容としては一連目を二連目で言いなおしている。あらゆる放蕩、広範な性体験のある男のことを書いている。普段は年相応に見えるのだが、

にもかかわらず こういう瞬間がある、
むろんごく稀だけど、つまりあいつの肉体が
ほとんど童貞って感じがすることだな。

 「肉体」が「童貞」に見える--それに対して違和感がある。童貞ではないのを知っているから。その違和感が「つまり」ということばに要約されている。何か言いたい。それを言い当てることばを探している感じが「つまり」。
 そして「童貞」というだけではうまく表現できていると思えないので、二連目でそれを言いなおしている。
 ほんとうは一連目と二連目のあいだに「つまり」があるのだが。その二連目。

あいつの二十九歳という年齢の美、
快楽に磨き抜かれた美、
ところがふしぎに時にはするんだなあ、
少年って気が、どこかぎこちなく、
からだをはじめて愛にゆだねるきよらかな子って気が。

 「童貞」の「意味」は「少年」。それだけでは言い足りない。「性体験がない」ではなくて、「からだをはじめて愛にゆだねる」ということ。力点は「はじめて」か「ゆだねる」か。「はじめて」だから「きよらかな」なのか、「ゆだねる」から「きよらか」なのか。なかなか見きわめるのがむずかしいが、「ゆだねる」からだろうと思う。
 「快楽に磨かれた」というくらいだから、快楽は知り尽くしている。それでも、自分から快楽をむさぼるのではなく、相手に任せている。ここにはカヴァフィスの「好み」が書かれているのかもしれない。ただ快楽を求めるのではなく、快楽に肉体を「ゆだねる」。むさぼるのではなく「ゆだねる」。そういう相手と出会ったとき、カヴァフィスは生まれ変わるのかもしれない。「童貞」に会ったとき、カヴァフィス自身が何度童貞を相手にしていようが、その相手にとってはカヴァフィスが「はじめて」、身を「ゆだねる」男なのである。そういう男に出会うとき、カヴァフィスもまた生まれ変わるのだろう。
 いやそうではなくて、「愛に」がカヴァフィスの求めているものかもしれない。「からだ」ではなく、まだ「からだ」の快楽を求めているという感じではなく、「愛」を求めている感じ。精神的な感じ。それが「少年」であり、それがカヴァフィスの探しているのもかもしれない。「愛」を求めるというのは、あまりにも抒情的か。
 「ところが……」の一行の不思議なことばの捩じれと、そのあとの倒置法の、あれもいいたい、これもいいたいということばの調子がおもしろい。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
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