宮尾節子『明日戦争がはじまる』(思潮社、2014年07月28日発行)
宮尾節子『明日戦争がはじまる』には東日本大震災について書かれた詩がたくさんある。とても印象的だ。いくつかについて感想を書きたいが、きょうは、「つけてください」の一篇を取り上げる。
読んで、申し訳なかった、と感じた。
私は「東電福島第一原発」と書いたことがなかった。「福島第一原発」と書きつづけてきた。「福島第一原発」ということばが「流通」しているので、それを安易に使っていた。「東電(東京電力)」は意識の中にぼんやりとは動いていたが、明確に存在していなかった。
それは、ある意味では「東電」を忘れることである。あるいは「東電」を隠蔽することである。
「肉体」は(「意識」は、とは私は書きたくない)、ことばをとおって動く。ことばがあるところにしか動いていかない。このことは、宮尾が他の詩篇で正確に書いているが、それについては後日触れることにして、きょうは「ほんとうに申し訳なかった」と書くことに専念する。
どうして「東電福島第一原発」と書かずに「福島第一原発」と書きつづけたのか。ひとつは、私の仕事がなるべくことばを短く使用するということにかかわっているからかもしれない。しかし、そんなことは「事実」とは無関係である。「真実」とも無関係である。単なることばの経済学の問題である。
「福島第一原発」というとき、そのことばとともに「福島の人々」は「福島」ということばといっしょに動いている。しかし、その人々の「声」を私は聞いていなかった。「声」に耳を傾けていなかった。福島の人々の「声」を聞かなくても、原発事故の重大性が判っているつもりになっていた。大変な事故だ。終息のめどがつかない……。
いろいろな情報が飛び交い、その情報を理解するのに手一杯で、福島で実際に暮らしている人の「声」を私は聞いていなかった。福島の人の「声」よりも科学者の「声」の方が重要に聞こえた。彼らの「声」は「原発事故」に集中していて、「福島第一」ということばを取り払って事故に対応している。当然「東電」ということばも省略して、原発の構造、炉心、汚染水など、物理(科学)のことに専念している。そうしなければ「科学」のことばは合理的に動かないから、そうするしかないのだが。
私は科学者でも何でもない。そして科学者の言うことばを聞き、それに対して何か言えるわけでもない。それなのに科学者の言うことだけが「真実」だと思い込んでいた。
だから「福島第一原発」で充分だと思っていたし、「原発事故」でも思考できると思い込んでいた。
東電福島第一原発の事故にかぎらず、東日本大震災によって起きたさまざまなことがらには、さまざまな局面がある。そのどれに向き合えるかは、ひとそれぞれによって違う。どんなことも、そのひとにとってはいちばん大事である。いま、目の前にあることがいちばん大事。そして、その「いちばん」は、そのひとにしかわからない。
どんなことも「一対一」で起きる。
私は一度も福島のひとと「一対一」で向き合ったことがない。「情報」のなかの「福島の市民」しか知らない。「情報」のなかでは「市民」は一定の姿に処理・加工されてしまっている。「声」を省略され、何かの事象(ことがら)との関係で語られている。--こんなふうに書いてしまうと、なんだかとても冷たい表現になってしまうが、「情報」のなかには一人一人の「声」は見逃されている。
その「声」のなかに「福島第一原発」ではなく「東電福島第一原発」と言ってほしいという「声」もあったはずなのに、他の「声」の陰に隠れてしまっている。見落とされている。
「福島第一原発」ではなく、「東電福島第一原発」と言うとき、そこに「東電」が解決しなければならない問題があることがわかる。「電力会社」が解決しなければならはない問題があることがわかる。「電気」が解決しなければならない問題があることもわかる。「肉体」は必ず「暮らし」(電力)をとおって、「東京電力」という会社にまで動いていく。そういうことばで「原発事故」のことを語らなければならない。
「東電」をつけてくださいと最初に言ったひとは「風評被害」を念頭においていたのか。東電の責任を明確にしろと怒っていたのか。怒りがいちばん大きい私は想像するが、はっきりしたことはよくわからない。しかし、ここには私は「風評」を超える問題、東電に対する怒り、東電の責任を追及するという問題を超える何かがあると思う。「生きる(暮らす)」と「ことば」をもつことの問題がそこにあると思う。何をことばにするか。何をことばにすれば「肉体」が動くのか。
この詩では、そういうことは声高に語られていないが、宮尾はそういうことに気がついているのだと思う。その後の詩の展開を読むと、そう思う。
きょうは、何はともあれ、ほんとうに申し訳ありませんでした、とそれだけを書いておく。これからは「東電福島第一原発」と必ず書きます。
宮尾節子『明日戦争がはじまる』には東日本大震災について書かれた詩がたくさんある。とても印象的だ。いくつかについて感想を書きたいが、きょうは、「つけてください」の一篇を取り上げる。
ただひとつ、
お願いがあります
福島第一原発に
東電をつけてください
東電福島第一原発にしてください
つくのと
つかないのとでは
大きくちがいます
福島第一原発に
東電をつけてください
東電福島第一原発にしてください
ちいさな
ことではありません
福島第一原発に
東電をつけてください
東電福島第一原発にしてください
風評被害に晒される
福島に
東電を
つけてください
東電福島第一原発にしてください
他に申し上げることは
何もありません
福島県在住一市民より。
読んで、申し訳なかった、と感じた。
私は「東電福島第一原発」と書いたことがなかった。「福島第一原発」と書きつづけてきた。「福島第一原発」ということばが「流通」しているので、それを安易に使っていた。「東電(東京電力)」は意識の中にぼんやりとは動いていたが、明確に存在していなかった。
それは、ある意味では「東電」を忘れることである。あるいは「東電」を隠蔽することである。
「肉体」は(「意識」は、とは私は書きたくない)、ことばをとおって動く。ことばがあるところにしか動いていかない。このことは、宮尾が他の詩篇で正確に書いているが、それについては後日触れることにして、きょうは「ほんとうに申し訳なかった」と書くことに専念する。
どうして「東電福島第一原発」と書かずに「福島第一原発」と書きつづけたのか。ひとつは、私の仕事がなるべくことばを短く使用するということにかかわっているからかもしれない。しかし、そんなことは「事実」とは無関係である。「真実」とも無関係である。単なることばの経済学の問題である。
「福島第一原発」というとき、そのことばとともに「福島の人々」は「福島」ということばといっしょに動いている。しかし、その人々の「声」を私は聞いていなかった。「声」に耳を傾けていなかった。福島の人々の「声」を聞かなくても、原発事故の重大性が判っているつもりになっていた。大変な事故だ。終息のめどがつかない……。
いろいろな情報が飛び交い、その情報を理解するのに手一杯で、福島で実際に暮らしている人の「声」を私は聞いていなかった。福島の人の「声」よりも科学者の「声」の方が重要に聞こえた。彼らの「声」は「原発事故」に集中していて、「福島第一」ということばを取り払って事故に対応している。当然「東電」ということばも省略して、原発の構造、炉心、汚染水など、物理(科学)のことに専念している。そうしなければ「科学」のことばは合理的に動かないから、そうするしかないのだが。
私は科学者でも何でもない。そして科学者の言うことばを聞き、それに対して何か言えるわけでもない。それなのに科学者の言うことだけが「真実」だと思い込んでいた。
だから「福島第一原発」で充分だと思っていたし、「原発事故」でも思考できると思い込んでいた。
東電福島第一原発の事故にかぎらず、東日本大震災によって起きたさまざまなことがらには、さまざまな局面がある。そのどれに向き合えるかは、ひとそれぞれによって違う。どんなことも、そのひとにとってはいちばん大事である。いま、目の前にあることがいちばん大事。そして、その「いちばん」は、そのひとにしかわからない。
どんなことも「一対一」で起きる。
私は一度も福島のひとと「一対一」で向き合ったことがない。「情報」のなかの「福島の市民」しか知らない。「情報」のなかでは「市民」は一定の姿に処理・加工されてしまっている。「声」を省略され、何かの事象(ことがら)との関係で語られている。--こんなふうに書いてしまうと、なんだかとても冷たい表現になってしまうが、「情報」のなかには一人一人の「声」は見逃されている。
その「声」のなかに「福島第一原発」ではなく「東電福島第一原発」と言ってほしいという「声」もあったはずなのに、他の「声」の陰に隠れてしまっている。見落とされている。
「福島第一原発」ではなく、「東電福島第一原発」と言うとき、そこに「東電」が解決しなければならない問題があることがわかる。「電力会社」が解決しなければならはない問題があることがわかる。「電気」が解決しなければならない問題があることもわかる。「肉体」は必ず「暮らし」(電力)をとおって、「東京電力」という会社にまで動いていく。そういうことばで「原発事故」のことを語らなければならない。
「東電」をつけてくださいと最初に言ったひとは「風評被害」を念頭においていたのか。東電の責任を明確にしろと怒っていたのか。怒りがいちばん大きい私は想像するが、はっきりしたことはよくわからない。しかし、ここには私は「風評」を超える問題、東電に対する怒り、東電の責任を追及するという問題を超える何かがあると思う。「生きる(暮らす)」と「ことば」をもつことの問題がそこにあると思う。何をことばにするか。何をことばにすれば「肉体」が動くのか。
この詩では、そういうことは声高に語られていないが、宮尾はそういうことに気がついているのだと思う。その後の詩の展開を読むと、そう思う。
きょうは、何はともあれ、ほんとうに申し訳ありませんでした、とそれだけを書いておく。これからは「東電福島第一原発」と必ず書きます。
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