詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リテーシュ・バトラ監督「めぐり逢わせのお弁当」(★★★★)

2014-08-17 23:26:04 | 映画
監督 リテーシュ・バトラ 出演 イルファン・カーン、ニムラト・カウル、ナワーズッディーン・シッ



 この映画テーマは「待つ」である。
 弁当の誤配からはじまる恋を描いている。弁当が配達され、そのシステムにのって手紙が配達される。手紙をとおして、「恋」も配達される。気持ちが「配達」され、恋が育っていく、という感じだが……。そして、映画の中では、「間違った電車に乗っても、やがては目的地に着く」というようなことが語られるので、間違いからはじまったことも最終的には目的地へつく(恋が成就する)という印象があり、「配達」がテーマであるように見えるのだが。(列車は客を目的地へ「配達する」。)
 この「配達」の不思議なところは、「主役」は自分では動かないということである。「配達」するのは「他人」。当人は、ひとつの場所にとどまり、「配達される」のを「待っている」。この「待つ」が、この映画の描いていることである。

 女と男は、互いに自分の気持ちを相手に届けようとするというよりも、相手からの「手紙」を待っている。自分の気持ちをいうよりも、相手が何を言ってくるかを「待つ」。待っている。
 待っているから、そこに「時間」というものが生まれる。待たなくても「時間」はあるのだが、「待つ」ときの方が「時間」が明確になる。そして、その「時間」のなかに、「待っていないこと(もの)」がいろいろ紛れ込んでくる。「暮らし」が紛れ込んできて、いままで気がつかなかったことを知らせてくれる。ほんとうはただ相手からの手紙を「待つ」ことだけに専念したいけれど、女の「時間」には夫の浮気という不機嫌なことがまぎれこみ、男の「時間」には仕事を引き継ぐはずの男のあれこれが紛れ込んできて、「現実」を印象づける。そしてそれが手紙をいっそう魅惑的なものにする。
 さらには、女の上の階にすむおばさん、女の母親の「待つ」も描かれる。ふたりは昏睡の夫、死にかけた夫と暮らしている。ふたりは、冷酷な言い方になるが夫が死ぬのを「待っている」。「時間」のすごし方はおばさんと母親では対照的だが、死を待っている、死が「時間」の区切りになることを知っている。ふたりに死を運ぶ(配達する)ことはできない。死がくるのを「待つ」ことしかできない。
 だれもが経験したことのある、この「待つ」ということ、「待つ」という時間を丁寧に描いているのが、この映画のおもしろいところである。見ていて、とてもわくわくしてしまう。

 で。
 この映画のハイライトは、「待つ」が崩れた瞬間にやってくる。女は「待つ」ことができなくなる。
 そのときひとはどうするか。気持ちを「配達」してくれるのを「待つ」、「配達」されるのを「待つ」のではなく、「自分自身」を「配達」してしまう。自分で動いて、相手に会いに行く。そこでも相手が「来る」のを「待つ」には待つのだが、それは「手紙」をやりとりしていたときとは状況が違う。
 相手を思いやるというよりも、自分の欲望の方が優先する。
 男の方も「待つ」に違ったものがまぎれこむ。男は自分の年齢に気づき(列車では席を譲られる--他人から見れば、年寄りなのだ)、女の若さにも気づく。年の差に気づいて、待ち合わせの場所にいっても会うことを避け、遠くから女を見ているだけである。嫌われるかもしれないと恐れたのだ。
 そんなふうに二人が「待つ」ことをやめ、相手のことを思いやるよりも自分の欲望を優先した瞬間、この恋は、そこで破綻する。
 映画は、恋を破綻させることで、それまでの「時間」の充実をより強調する。あの、「待つ時間」はなんと美しかったのだろう。なんと人を輝かせたのだろう。「待つ」を利用して、女は料理に腕をふるい、男は過去の思い出、死んだ妻との充実した時間を女に語りかける。男と女は、美しい時間をすごせるはずだと語った。あの「待つ」は、なんとすばらしい思い出なのだろう--というわけである。「過去」の美化、恋のノスタルジーの美化である。(主演の女の少し太め?の、大柄な風貌が、この古風な味の映画にぴったりである。)
 映画は、その「待つ時間」の充実を強調するだけではなく……。
 映画なので、そのあと、「ブータンで待つ」という「夢」が、思い出としてもう一度でてきて、それが「希望(ハッピーエンディング)」の形で描かれるが、それはあくまで「希望(観客の映画の見方)」に任されている。

 これはこれで、とてもいい映画なのだと思うのだが。
 一方で、私は何となく、うさんくさいなあ、とも感じてしまった。
 「待つ」ことの美しさを感じてしまうのは、私の現実が「待つ」ということからかけ離れているせいではないのか。「待つ」ということに対してノスタルジーを感じているからではないのか。
 たとえば、この映画にもEメールは出てくるが、主役の女と男は使わない。メールを書いて、すぐにメールの返信を要求するというようなわずらわしい現実がない。カフェでの待ち合わせも、いまなら携帯電話や携帯メールで即座に連絡し確認できるが、このふたりはそういうことをしない。
 何か「待つ」がもっているノスタルジックでロマンチックな視点で映画が統一されているようで、それがなんとも気持ち悪くも感じられる。同じことが日本やアメリカ、ヨーロッパで起きるだろうか。韓国や中国でも起きないだろう。インドを嘘のために利用してはいないだろうか。それが気がかりだなあ。
 インドの列車の混雑、街の喧騒、弁当配達の様子さえ、インドの匂いがしない。いや、インドの匂いがするのかもしれないが、そのフレームはどうもヨーロッパ的である。ヨーロッパの映画の影像の切り口にとても似ていると感じる。うーん、こういう影像はインド人以外に撮れないぞ、と感じさせるシーンがない。
 ノスタルジックがあまりにもヨーロッパ的である。


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中井久夫訳カヴァフィスを読む(148)

2014-08-17 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(148)        

 「玄関の広間の鏡」は「同じ空間で」の続編として読むことができるかもしれない。ここではカヴァフィスは「玄関の広間の鏡」になって男色の世界を書いている。「同じ空間で」はカヴァフィス自身が「街」になったが、「街」ではあまりにも「世界」が広すぎる。「感覚」が絞りきれない。「鏡」では、その「感覚」が「視覚」に限定されて、男色の世界が繰り広げられる。
 豪奢な屋敷の玄関の広間に、買い入れて八十年はたつ鏡がある。ある日、洋裁師の女子が包みをもってやってきた。領収書が来るまでの間、少年は鏡に向かって、少し身繕いをした。そして、去っていった。

だが古い鏡は悦ばしく嬉しい。
長い生涯にずいぶんさまざまなものを眺めたけれど、
今日までの幾千幾万の事物や顔貌はメじゃない。
一瞬ではあるが一分のすきもない美しさを今抱擁した誇り--。

 鏡の中に少年をすっかり取り込んだ。全身をくまなく映し出すことで、彼を自分のものにした。それは眼によるセックスである。
 そういうことはカヴァフィスには実際にあったのかもしれない。セックスはしていないが、眼でしっかりと理想の美しさをつかみ取って、そのことに興奮したということが。あるいは日々、「幾千幾万の事物や顔貌」を超える真実の美を探していたのかもしれない。「メじゃない」という「口語」は、視覚の眼をつよく意識した中井久夫の訳語だと思う。原文は「眼」とは違うことばかもしれない。

 この詩には、いま書いた「意味」を超えて、とてもおもしろい「訳」がある。

ネクタイをちょっと直した。五分たって領収書が来た。

 この「領収書が来た」ということばのスピード。現実には領収書が自分でやってくるわけではないから、「領収書が運ばれてきた」あるいは「領収書をもって召使があらわれた」であろう。けれど少年にとって問題は領収書だけなのだから「領収証が来た」で充分なのである。
 この部分は森鴎外の「寒山」に似ている。そのなかに、たしか「水が来た」という短い文章があった。奥から水が運ばれてくるのだが、それを「水が来た」と言い切る。余分なものが削ぎ落とされ、ことばが早くなる。
 そういう速さのあとに「長い生涯に……」ではじまるゆっくりしたことばが動く。そうすると、緩急の変化のために書かれていることがいっそう印象的になる。「一瞬」と書かれている最終連の喜びが充実したもの、長くゆったりしたもののように感じられる。
 中井久夫は雅語、俗語、漢語などを自在に駆使しているが、多くの作家の文体をも下敷きにしてことばを動かしているかもしれない。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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