木村るみ子『断章の木』(七月堂、2014年08月01日発行)
木村るみ子『断章の木』には書き出しが魅力的な作品が多い。たとえば「Step the future 」。
「夜の和音は半音階を滑る」が美しい。なぜ、美しいか。具体性を欠いているからである。抽象的であるために汚れようがない。拒絶だけがある。「触れようとして 触れない指」の「ない」、「何も書かれていない楽譜」の「ない」が、拒絶を象徴している。
この木村の「ない」は「不在」ではなく、あくまで「拒絶」である、ということが特徴である。
「秘密が隠されている」ということばがあるが、「拒絶(ない)」を木村は「隠す」ということばであらわしている。「隠す」は「表に出して見せない」ということであり、それは「ある」ことが前提である。「隠す(見せることを拒絶する)」ことによって「秘密」は生まれる。
「拒絶」によって、何かが隠され、なおかつ、拒絶するという行為(隠すという行為)を見せることで「隠されたもの(秘密)」が存在するということを暗示する。
でも何を拒絶し、何を隠しているのか。
「流通言語」で語ることを拒絶し、「流通言語」で語れないものを隠している。隠すことによって、「流通言語」では語れないものがあると暗示する。それが木村にとっての詩なのだ。
なんだかめんどうくさい、矛盾した行為だが、この矛盾がしっかりと結託し、ことば結晶化したとき、そこに詩が現れる。矛盾を正確にことばの運動のなかで再現することが詩である。
木村は「もの」よりも、「拒絶」によってはじまることばの運動を書こうとしていると言いなおすことができるかもしれない。矛盾によって動く「こと」をことばで再現しようとしている。そのことばの運動としての詩、それはたしかに魅力的だ。
それは、
という矛盾にしかたどりつけないのだけれど。(あ、堂々巡りの罠にはまってしまったかな?)
言いなおそう。
書かれていない楽譜なら、何かを読み取るということは不可能である。しかし、読み取るということを「楽譜」にではなく、「楽譜」を見たときの「私」自身のことばのなかに、ことばの運動の中にということなら可能かもしれない。
自分を読み取るのだから。
こうやって、木村は「流通言語」では語れない「自分自身」の内部(哲学)を語り、それを詩であると宣言しようとする。
「拒絶する(隠す)」という運動をする「私」--その「内部」に何があるか。これは「書かれていない楽譜」だけではなく、「矛盾」を発見したときには必ずはじまる運動である。
木村は「矛盾」を発見するというよりも、「矛盾」を作り出して、そこへ動いていくようでもある。「矛盾」をつくりだして、その内部へ深くは入り込むこと、「矛盾」を動かして新しい何かを生み出すこと--そういう運動をしようとする。
「視えているようで視えていないもの/聴こえているようで聴こえていないもの」というのは「流通言語」では「矛盾」であり、存在しないものなのだが、それ「矛盾」と言わずに、それに対して「喚起を促す」という動詞で働きかけるとき、その「動詞」自体は木村の行為なので、動詞を通して存在しないものが存在させられてしまう。さらに、「この領域の音域には限界はない」という状況までつくりだされてしまう。そして、それまで拒絶であった「ない」は、突然「限界はない」の「ない」のなかで絶対的な肯定に変わる。「動詞」によって、木村は絶対的肯定をつくりだそうとしている。
これを「自己肯定」ととらえ直せば、「自己思想の確立」ということになる。
矛盾というか、「日常の流通言語」ではとらえられない運動、「日常の流通言語」を拒絶することではじまる運動は、どうしても、「繊細」で「構造的」にならざるをえない。ことばが入り組んで、入り組むことで内部をつくりだすような運動になる。
この例を「或る秋の日に」に見ることができる。
うーん、秋に鳴りだす琴のような「遺体」だが、こういう書き方が、木村は「好き」なのだろう。その「好き」こそ、私は思想(肉体)と思っているのだが。だから、これはこれでいいと思うのだが。
しかし、あまりにも「人工的」すぎることばの動きだなあ、とも思う。
でも、これはまた別の問題。次の機会に書くことにしよう。
木村るみ子『断章の木』には書き出しが魅力的な作品が多い。たとえば「Step the future 」。
人々のざわめきを声に乗せて 夜の和音は半音階を滑る
触れようとして 触れない指
そこに秘密が隠されているとしたら その迷彩に縁取られた楽譜に
何を読み取る?
何も書かれていない楽譜に
「夜の和音は半音階を滑る」が美しい。なぜ、美しいか。具体性を欠いているからである。抽象的であるために汚れようがない。拒絶だけがある。「触れようとして 触れない指」の「ない」、「何も書かれていない楽譜」の「ない」が、拒絶を象徴している。
この木村の「ない」は「不在」ではなく、あくまで「拒絶」である、ということが特徴である。
「秘密が隠されている」ということばがあるが、「拒絶(ない)」を木村は「隠す」ということばであらわしている。「隠す」は「表に出して見せない」ということであり、それは「ある」ことが前提である。「隠す(見せることを拒絶する)」ことによって「秘密」は生まれる。
「拒絶」によって、何かが隠され、なおかつ、拒絶するという行為(隠すという行為)を見せることで「隠されたもの(秘密)」が存在するということを暗示する。
でも何を拒絶し、何を隠しているのか。
「流通言語」で語ることを拒絶し、「流通言語」で語れないものを隠している。隠すことによって、「流通言語」では語れないものがあると暗示する。それが木村にとっての詩なのだ。
なんだかめんどうくさい、矛盾した行為だが、この矛盾がしっかりと結託し、ことば結晶化したとき、そこに詩が現れる。矛盾を正確にことばの運動のなかで再現することが詩である。
木村は「もの」よりも、「拒絶」によってはじまることばの運動を書こうとしていると言いなおすことができるかもしれない。矛盾によって動く「こと」をことばで再現しようとしている。そのことばの運動としての詩、それはたしかに魅力的だ。
それは、
何を読み取る?
何も書かれていない楽譜に
という矛盾にしかたどりつけないのだけれど。(あ、堂々巡りの罠にはまってしまったかな?)
言いなおそう。
書かれていない楽譜なら、何かを読み取るということは不可能である。しかし、読み取るということを「楽譜」にではなく、「楽譜」を見たときの「私」自身のことばのなかに、ことばの運動の中にということなら可能かもしれない。
自分を読み取るのだから。
こうやって、木村は「流通言語」では語れない「自分自身」の内部(哲学)を語り、それを詩であると宣言しようとする。
「拒絶する(隠す)」という運動をする「私」--その「内部」に何があるか。これは「書かれていない楽譜」だけではなく、「矛盾」を発見したときには必ずはじまる運動である。
木村は「矛盾」を発見するというよりも、「矛盾」を作り出して、そこへ動いていくようでもある。「矛盾」をつくりだして、その内部へ深くは入り込むこと、「矛盾」を動かして新しい何かを生み出すこと--そういう運動をしようとする。
燃える木の焔の縁からアリアが高く舞い上がる
視えているようで視えていないもの
聴こえているようで聴こえていないもの
そんなものに喚起を促すため
この領域の音域には限界はない
(「大地の歌--アリア、そのふるえ)
「視えているようで視えていないもの/聴こえているようで聴こえていないもの」というのは「流通言語」では「矛盾」であり、存在しないものなのだが、それ「矛盾」と言わずに、それに対して「喚起を促す」という動詞で働きかけるとき、その「動詞」自体は木村の行為なので、動詞を通して存在しないものが存在させられてしまう。さらに、「この領域の音域には限界はない」という状況までつくりだされてしまう。そして、それまで拒絶であった「ない」は、突然「限界はない」の「ない」のなかで絶対的な肯定に変わる。「動詞」によって、木村は絶対的肯定をつくりだそうとしている。
これを「自己肯定」ととらえ直せば、「自己思想の確立」ということになる。
矛盾というか、「日常の流通言語」ではとらえられない運動、「日常の流通言語」を拒絶することではじまる運動は、どうしても、「繊細」で「構造的」にならざるをえない。ことばが入り組んで、入り組むことで内部をつくりだすような運動になる。
この例を「或る秋の日に」に見ることができる。
光の粒子がきめの細い陰影を影に与えてあたりを揺らめかせている
その静止した風景はこの世のものとは思えない明るさに満ちていて
明度も彩度も衰える前の束の間の絶頂
この光のなかで呼吸することが永遠を暗示するものなら
わたしは付加された一個の遺体としてこの風景の中に身を置くだろう
うーん、秋に鳴りだす琴のような「遺体」だが、こういう書き方が、木村は「好き」なのだろう。その「好き」こそ、私は思想(肉体)と思っているのだが。だから、これはこれでいいと思うのだが。
しかし、あまりにも「人工的」すぎることばの動きだなあ、とも思う。
でも、これはまた別の問題。次の機会に書くことにしよう。
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