詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小池昌代『たまもの』

2014-08-31 10:18:27 | その他(音楽、小説etc)
小池昌代『たまもの』(講談社、2014年06月26日発行)

 小池昌代『たまもの』を読みながら、あ、ことばが楽になってきたなあ、と感じた。私は、それほどていねいに小池昌代を読んできているわけではないので印象批評になってしまうが、何かをことばで追い詰めていくという感じから、ことばをその場その場で動かして、それが動くがままにしている、という感じがする。この小説では。
 昔つきあったことのある男を思い出す部分。(62ページ)

 なにせうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ。--「閑吟集」の世捨て人はそう言った。狂わずして、なんの人生か。とはいえ、あいつはくずだった。くずに狂った、わたしもくずだ。女というものは、過去なんか引きずらないものだと言うひとがいて、いや違う。わたしも女だが、厚手の絨毯のようなそれを、ずるずる引きずっている。執念深い。けれど最近、そういうものが、ようやくひとつひとつ、ぷつりぷつりと切れてきた。
 さよなら、くず、さよなら、かこ。

 「閑吟集」を引きながら、「狂う」ことについて思いめぐらしている。
 「女というものは、過去なんか引きずらないものだ」という観念的なことばがある。「観念的」というのは、まあ、頭ではわからないことはないが、私の実感とは違うということである。
 「厚手の絨毯のような」のような「過去」をもった個性的なことばがある。そうか、この小説の女は「過去を厚手の絨毯のようにずるずると引きずっている」と感じているのか。いつか「厚手の絨毯」を引きずったことを「肉体」が覚えていてい、それがことばになって動いているのか。私は厚手の絨毯を引きずったことはないが、「ずるずる」という重い感覚が「肉体」を刺戟してくる。わからないと言ってしまいたいが、この「ずるずる」が強烈である。「実感」として、わかってしまう。私の思い出ではないのに。
 その、観念と個性(実感)のあいだで、うーんとうなっていると、改行して、

 さよなら、くず、さよなら、かこ。

 ぱっと、ことばが飛躍する。「いま」がぱっと過去を振り捨てる。「過去」が「かこ」とひらがなになって「意味」を捨て、音、音楽になった飛び散る。
 「閑吟集」の「狂う」から「過去」へ、「過去」から「厚手の絨毯を引きずる」への動きには、なにか粘着力を感じさせる「接続」があるのだが、「ぷつりぷつりと切れてきた」から、この「さよなら、くず、……」のあいだには、「接続」ではなく「断絶」がある。いや、それはたしかにつづいているのだが、つづき方が「粘着力」とは別の力である。「接続」ということばをつかって「断絶」を言いなおすと、それまで書いてきたことを「踏み切り台」にして飛躍するということになる。「踏み切り台」は、それまでのことばと地続きである。けれど、踏み切り台を踏んでしまうと、体が宙に浮く。飛躍する。そういう感じの「断絶」がある。「かこ」というひらがな、音になったことばがそれを強調する。
 で、この「断絶(飛躍)」が、「さよなら、くず、……」で終わらない。

 神輿はだんだん遠くなる。遠くなる。そしてだんだん透きとおる。どこまでいくのか、見届けようとして、眼をあけると、わたしはひとり。雨だった。雨の音は、遠いところをゆく、神輿の音に似ている。

 ここは、散文というより、詩である。
 ことばが「過去」を振り捨てて、「いま」という時間の中で、「いま」そのものを耕している。楽しんでいる。感覚が解放され(敏感になり)、それまで見えなかった「いま」が、永遠になってあらわれている。
 「永遠」と思わず書いてしまうのは、それが「いま」なのに、「過去/かこ」のようにも見えるからである。時間が「透きとお」って、「いま」「かこ」「みらい」がなくなるのかもしれない。「時間」を区切って見せる「観念(?)」が消えて、感覚が新しく生まれてくる。生まれて、動いていく感じ。

 こういうことばの変化が、この小説には随所にある。
 何かの具体的な、リアリティーのある描写が、ことばにすることで、別のことばを呼び寄せ観念的になる。「小説」から「随想(エッセイ)」かのようになる。そう思っていたら、それがぱっとはじけて「詩」になる。
 ことばが「固定化」していない。一つの運動法則に従っていない。
 これは、乱れというものかも知れないが、私は、この変化をとてもおもしろいと感じた。軽くていいなあ、と感じた。
 そして。
 私はここから飛躍して「感覚の意見」を書いてしまうのだが……。
 あ、これが「いま」の小説のスタイルなのか、とも思った。私は小説は「芥川賞受賞作」くらいしか読まないが、最近の「芥川賞」の小説はへたくそな現代詩のまねごとのように見えて仕方がなかった。それは、そうか、いま小説は小池の書いているような詩を含んだ文体をめざしているのか、とようやくわかったような気持ちになった。
 詩から出発しているだけに、小池の方が、そういう「文体」にははるかに長けている。なるほどなあ。こんなふうにして小池は詩をいかしているのか。
 さて、次の作品では、この文体はどんな具合に変化するかな、--そういう期待をさせる小説である。

たまもの
小池 昌代
講談社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(162)(未刊9)

2014-08-31 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(162)(未刊9)   

 「ポセイドニア人」は、前書きにアテーナイオス『ディプノソピスタイ』を引用している。その散文を詩に書き直したものである。

ポセイドニア人はギリシャ語をなくした。
何百年も外人に混じって暮らしたからだ。
エトルリア人、ローマ人その他その他だ。

 ギリシャから離れて暮らし、その暮らしのなかで外国語を覚える。外国語で暮らすようになる。そのことを「ギリシャ語をなくした」ということばからはじめるのは、カヴァフィスが詩人だからだろう。ギリシャ語を話して、はじめてギリシャ人である。

祖先から受けついだものはただ一つ。
さるギリシャの祭り。その美しい儀式。
竪琴ひびかせ、笛吹かせ、競技を行い、花づなを飾る。
祭りの終わり頃に祖先の習慣を教えあい
ギリシャ式の名を名乗る、
わかるやわからずやの名を--。

 ことばが変わると名前も変わる。名前が変わるようになると、もうその人間はギリシャではなくなる。この改名のことは『ディプノソピスタイ』の引用にはないので、名前にカヴァフィスが強い思い入れをもっていることが窺い知れる。母国語と母国を感じさせる名前。--名前は、常に口に出して呼ばれるものであることを思うと、カヴァフィスにとってはことばとは「声」だったということがよくわかる。口に出してつかうことば。「声」となって届けられることば。音の響き。
 カヴァフィスの詩には口語が多いが(中井久夫は口語を巧みにつかって、ひとの「声」の特徴を引き出しているが)、その「声」への嗜好は、こういうところにも窺い知ることができる。
 さらに、

竪琴ひびかせ、笛吹かせ、

 このことばの動きの「音楽」。
 「竪琴をひびかせ、笛を吹かせ、」が正確な「文章語」なのだろうけれど、中井は「を」を省略することで、祭りの高揚したリズム、音楽をとらえている。カヴァフィスの「口語」好みを、こんなふうに日本語にするのはとても刺戟的だ。


リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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