詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

宮尾節子『明日戦争がはじまる』(2)

2014-08-16 09:42:55 | 詩集
宮尾節子『明日戦争がはじまる』(2)(思潮社、2014年07月28日発行)

 詩は「ことば」である。ことばの発見。「石巻ボランティア日詩」には「ことばがない」という状況から出発して「ことばを発見する」過程が書かれている。特別新しいことではないのだが、いままで見すごしていたこと(あまり意識しなかったこと)が具体的に、丁寧に書かれている。
 瓦礫をバケツリレーのように建物(二階)から運び出す場面。

「重いもの行きます」と上から、声がかかって。その言葉が、物といっしょに申し送られていく。

「言葉の発見だ」とおもった。それを受けて、階段上部に居たわたしは、これはわたしの担当だなと感じて。もう少し、言葉に修辞(おひれ)を加えることをしてみた。おそるおそるだ……。たとえば。「上を持つと楽です」「角に釘が出ているので注意」。すると。こだまのように。「上を持つと楽です」「上を持つと楽です」……「角に釘が出ているので注意」「角に釘が」……伝言ゲームのように。わたしが上乗せした言葉が、人から人へとつぎつぎに申し送られていく。物といっしょに。

 宮尾は「言葉が、人から人へとつぎつぎに申し送られていく。物といっしょに。」と書くが、これは逆で、「物が、人から人へとつぎつぎに申し送られていく。言葉といっしょに。」であり、さらに言えば、「物が、言葉(ひとの声)から言葉(ひとの声)へとつぎつぎに申し送られていく。人の手で(人の肉体/声といっしょに)。」ということだと思う。ことば(声)が物を運んでいる。人の肉体はことば(声)になって、物を運んで行く。言い換えると、ことば(声)がないと、物は運ばれない。運ばれるにしても、スムーズではない。ことば(声)が「現実」を動かしている。ことばにはそうした力がある。--宮尾は、ことばの力を発見している。
 宮尾は「修辞(おひれ)」と書いているが、そのことばは「修辞」ではなく「核心(本質/思想/力)」である。「上を持つと楽」というのは「肉体」の声である。本音である。「角に釘が出ているので注意」も同じ。それは「肉体」が発見した「こと」の「本質」であり、そこには「思想」がある。他人への「配慮」がある。そのとき他人というのは、同じ「肉体」をもって、同じ「こと」をしている人間のことであり、そこでは「肉体」は複数あっても「ひとつ」である。「ことば」が複数の「肉体」をひとつにするとき、そこには「思想」がある。「思想」だけが「他者」と「自己」をひとつにする。「肉体の配慮」だけが「他者」と「自己」をひとつにする。
 これは、美しい。
 これに先立って、宮尾は「畳」を敷いて足場を安定される作業に触れて、「文体」の発見ということを書いているが、「上を持つと楽です」「角に釘が出ているので注意」というのも「肉体」のために開かれた「文体」である。「思想」の発見である。

 「きれいに食べている」もまた「声(思想/肉体)」について書かれた詩である。瓦礫の下から息子の弁当箱を見つけた母親は、

『きれいに食べている』と嗚咽(おえつ)したという。

 息子の元気な肉体(いま、そこにはいない)を見たからである。
 「生きていた」証を、見たからである。
 「生きている」証は、それと気づかずにいつも見ていた。見ていたけれど気がつかなかった。それが見えなくなった瞬間に、ふいにあらわれて、母親を嗚咽させた。

台所で、いつでもそばにあった、ことば。
お弁当箱を開けるだけで、いつも出てきた、ことば。
「あ、きれいに食べている」

胸の中で、くりかえし、つかった、普段のことば。
瓦礫の中から、弁当箱といっしょに出てきた、わたしのことば。
「きれいに食べている」

 母親は、いつも息子が弁当をきれいに食べていることを喜んでいた。それで元気を確認して安心していた。それは普段使っているときは「意味/思想」をもっているとは思っていなかった。暮らしに溶け込んでいた。普段の暮らしのなかに「思想」があるとは、ふつうは思わない。あたりまえのこととしか思わない。
 その「あたりまえ」こそが「思想」であり、人を結びつける。
 バケツリレーで瓦礫を運ぶ。「上を持つと楽」「釘があるので注意」というのは、そのことばが必要になったとき、突然、「普段の暮らし」の奥から「思想」というものの純粋な形としてあらわれてくる。
 「きれいに食べている」ということばといっしょに、母親が息子のために弁当をつくる、息子がそれをきれいに食べるという「あたりまえ、食べている息子は元気に生きているという「あたりまえ」が、いま、いちばん大切な「あたりまえ」のこととして甦ってきた。それは普段の暮らしの中では、こころのなかで思うだけのことばだったけれど、いま、胸を突き破って、肉体を突き破ってあらわれ、「あたりまえ」のことがそこにないことを厳しく訴えるのである。
 「あたりまえ」は普段は「あたりまえ」のことなので、よく見えない。「思想(キーワード)」が「肉体」に染みついていて、ふつうはよく見えない(無意識のまま動いている)のと同じである。それは、ある日、突然、「ことばになる」必要があって「肉体」の奥から突然あらわれる。「思想(ことば)」は遅れてやってくる。
 阪神大震災のあと、季村敏夫は『日々の、すみか』(書肆山田)で、「出来事は遅れてあらわれる」と書いたが、ことば(思想)は遅れてあらわれるしかない。思想はふつうは意識されないものなのだ。「上を持つと楽」「釘が出ているから注意」というようなことは、ふつうは人から人へと伝達するようなことではない。けれど、必要があって、いつもつかっていたことが「遅れて(いまになって)」突然明確な形となって動いていく。そういうことが「暮らし」では起きる。いつもは無意識に動いていた「思想」が「ことば」となって人から人へと伝わり、物を動かす力となっている。
 弁当を「きれいに食べている」ということばは、何もなかったら、そのまま「暮らし」のなかに隠れている。息子が不明になって、ふいに「きれいに食べる」ということばのなかに「肉体」が見えてくる。息子の「肉体」は、そのことばといっしょに「遅れて」あらわれたのだ。「肉体」をひきつれて、あらわれたのだ。
 もっと早く。
 そう、もっと早く、
 いや、違った、
 その「きれいに食べている」が「遅れて」あらわれたら、いや、「遅れて」あらわれることがなかったら、悲しみもあらわれない。母親の嗚咽もない。
 「思想」は遅れてあらわれる。「思想」はつねに遅れるしかない。

 ことばはいつでも「遅れる」。だからこそ、あらわれたときに、そのことばをしっかりと書き残さなければならない。書き残されたことばがあってこそ、つぎにことばが動くときの支えになる。
 肉体とことば、思想とことばの関係が、東日本大震災によって揺さぶられ、いま、まためざめて動きはじめている--そういうことを感じさせる詩集だ。

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(147)

2014-08-16 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(147)        

 「同じ空間で」も男色の詩である。ただし、ここには相手の男は出て来ない。「空間(家々、カフェなど)」が出てくるだけである。短い詩だ。全行を引用する。

家々、カフェ、そのあたりの家並み。
歳月の間にけっきょく歩き尽くし、眺めおおせた。

喜びにつけ悲しみにつけ、私は刻んだ、きみたち家々のために、
数々の事件で多くの細部を。

私のためでもある。私にとってきみたちすべてが感覚に変わった。

 これは多くのカヴァフィスの男色を描いた詩と同じように、感想を書くのが非常に難しい。「小説」なら「数々の事件」「多くの細部」を丁寧に書くだろう。詩も、そういうものを書くのが普通である。自分が体験した「独特のもの」、自分だけの視点をことばにする。そうすることで、体験が「自分の感覚」になる。そして、その「感覚」をこそ、読者は読むのである。自分ではつかみきれなかった「感覚」を詩人のことばをとうして、「あ、あれはこういうことだったのか」と遅れて発見する--それが詩にかぎらず、あらゆる文学との出会いである。
 ところがカヴァフィスは、彼自身の「独自の感覚」を少しも書かない。「感覚に変わった」と書くだけなので、そこにあるであろう「街」とカヴァフィス自身のなかの「感覚」がどういう関係にあるのか、読者にはさっぱりわからない。
 ただカヴァフィスが、その「街」で体験したことを自分の経験にしたという「こと」を抽象的に知るだけである。その「街」で長い年月をすごした。その街を歩き回った。家は安い宿かもしれない。そこでカヴァフィスは自分の体験を豊かにしただけではなく、他人の引き起こす事件も見たのだろう。間接的な体験だ。そういうものも含めて、街のどの部分を見てもカヴァフィスは、その「とき」を思い出すことができる。
 ある意味で、カヴァフィスは男色の相手と恋をし、セックスしただけではなく、その街(安宿やカフェ)そのものともセックスをしたと言えるのかもしれない。「家々」のことを「きみたち」と人間のように呼んでいるのは、カヴァフィスにとって「街」そのものが「人間」であるということの証拠かもしれない。
 恋人は現れ、また去っていく。けれど「街」は去っては行かない。そこへ行けば「時」を超えて、あの瞬間があふれてくる。よみがえってくる。そして、また新しく「時」を刻みはじめる。そうやって「感覚」は豊かになっていく。
 こういう詩を読むと、カヴァフィスはごくごく親しい人にだけ向け詩を書いていたのかもしれないという気がする。知らない人に読ませるのではなく、会ったことがある人、顔見知り、互いの感覚を知っている相手にだけ向けて詩を書いていたのだと感じる。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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