詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋亜綺羅『ひよこの空想力飛行ゲーム』

2014-08-18 09:39:12 | 詩集
秋亜綺羅『ひよこの空想力飛行ゲーム』(思潮社、2014年08月12日発行)

 秋亜綺羅『ひよこの空想力飛行ゲーム』の感想を書くのは難しい。
 理由は……
(1)書いていることはわかる、そしてその「わかる」は「意味」が裏切られたということがわかるのであって、そこに書いてあることが「わかる」ということではない。そういう言い方(ことばの動かし方)は、いままで知っていた「意味」と違っているけれど、それなりに「意味」になっているということが「わかる」にすぎない。
(2)いや、「意味」が裏切られたとき、その瞬間に「詩」があらわれるのであって、「詩」はそれまで存在していなかったのだから、「わかる」というのは錯覚であって、「わからない」にならないと詩ではない。(「現代詩は難解である」とかつて言われたけれど、「難解」は「解り難い」であって「わからない」ではない。どこかに「わかる」が含まれるから、「わからない」にならないと「詩」ではない--と秋亜綺羅は言いたいのだと、私は、秋亜綺羅を「理想化」した眺めている。そうなってほしいなあ、といつも思っている。)。
 と、理由を書きつづけていこうとしたら、めんどうになる。

 具体的に読んでいこう。たとえば、

I(わたし)を0(ゼロ)にしてしまえば
LIVEはLOVEになる                     (「自傷」)

 ここに書いてあることは、「文字」の見かけと「意味」の問題である。しかし、0(ゼロ)とO(オー)は違った文字であり、L(エル」0(ゼロ)V(ヴィ)E(イー)はラブ(愛)ではない。
 そして、秋亜綺羅は「LIVE(ライブ)はLOVE(ラブ)になる」とはどこにも書いていないので「LIVE(ライブ)はLOVE(ラブ)になる」と読むのは読者の勝手、読者が勝手にそう読むことで「詩」を感じている。読者の勝手なんか、秋亜綺羅にとっては知ったことではない、ということになる。LIVE(ライブ)→LOVE(ラブ)の変化(?)なんて、「詩」とは無関係である。
 また、LIVEのIが0(ゼロ)になったからといって、LIVEがLOVEになるということは現実にはありえない。(活字はゼロとオーをきちんと区別してつくられている。手書きでも、必要があれば識別できるようにして書くのが一般的である。)ありえないのに、そういうことが起きたと一瞬思ってしまう。何かが、「文字」の操作で「意味」が変わってしまうと思ってしまう。この「思う」瞬間、「I(わたし)を0(ゼロ)にしてしまえば/LIVEはLOVEになる」というときの、「ゼロ」と「オー」の類似が秋亜綺羅と読者の間に共有され、その「共有」が「わかる」ということでもある。「LIVE(ライブ)はLOVE(ラブ)になる」ということよりも、「ゼロ」と「オー」がそっくりであるということが共有されたにすぎない。
 こんなふうに書いてくると、なぜ、秋亜綺羅が、こういうことを書かなければならないのか、書きたかったのか、書くことで何を欲望しているのか、書くことでどんなふうに秋亜綺羅自身を変えてしまいたいと欲望しているのか、それが「わからない」。(その「わからなさ」を、私はいつか探しにゆきたい。探し当てたい。その「わからない」こそが秋亜綺羅の詩だと思っているので……。)
 自分を変えてしまいたいという欲望など秋亜綺羅にはない--と秋亜綺羅は言うかもしれない。そう読んでしまった読者(私)のなかにある欲望を自分で突きつめればいいだけである。勝手に錯覚してしまう読者(私)が勝手に見つけ出した「詩」について秋亜綺羅はどんな責任もない。
 まあ、そうなんだろうね。おっしゃるとおりです、はい。

 次の2行は、どうだろう。

こんど会ったら
吻接(すき)だよといって抱っこしよう

 接吻をキスと読ませ、その文字をひっくり返して「吻接(すき)」と読ませる。あ、ここにキス(接吻)が隠れている--と思うのは読者の勝手。
 たしかにそうだけれど、そういうことを書くのは、秋亜綺羅が「接吻=キス」という意識で「文字」を読むこと、「接吻」という「文字」を読めば「キス」を思い浮かべることを知っていて書いている。「接吻=キス」という「意味」を読者が「共有」していることを知っていて、なおかつ「吻接(すき)」と書けば「接吻」をひっくり返したのではなく「キス」をひっくり返したのだと「共通認識」としてもつことを知って書いている。読者の「意識の動き」を「わかって」いて、それを裏切るというか、利用するというか、ことばをいつもとはちょっと違う形にして、その瞬間に「詩」があるんだよ、それは自分の思っていることが瞬間的に「意味」を失って、「意味」になる前の「こと(もの)」に出合っているんだよ、と告げる。「キスって好きだからするんだよ」「好きだからキスをするんだよ」「いや、違う、キスをすれば人を好きになるんだよ」。
 「わかる」けどねえ。

 「わかる」けれど、それって、あまりに「一方的」じゃない? 「ことば」の出発が、最初から「意味」でできていない?
 秋亜綺羅は勝手に「ことば」に「意味(共通認識)」を与えておいて、それを裏切ってみせているだけじゃない? その「共通認識」って、一方的な暴力じゃないかな? 「裏切り」という「想像力」よりもはるかに暴力的で、権力的じゃないだろうか。
 そういう疑問をもってしまう。
 たとえば、

オモテは裏にとってみれば
裏なのか                      (「ひとは嘘をつけない」)

 ほんとうに、そう思う? そう思って書いている?
 秋亜綺羅の「都合」で、そう思っているふりをしていない?
 言い換えると(説明すると……)、この2行を書いたとき秋亜綺羅は「オモテ(表)」と「裏」に「平面」という「意味」をあらかじめ与えていないだろうか。詩が印刷されているA4判の紙の「表/裏」のようなもの。そこでは「裏」の「裏」は「表」になる。「表/裏」は人が勝手につくりだした「概念(意味)」にすぎない、それに気づいてほしいと秋亜綺羅はいうのかもしれない。
 でも、ほんとう? 
 たとえば秋亜綺羅と私が裏/表について語るとき、私と秋亜綺羅の間に詩が印刷されているA4判の紙ではなく、人を殺してしまったひとの問題があったとする。ひとはなぜ殺人をするかがテーマとしてあったとする。つまり「こころ」の問題があったとする。
 「こころ」の「表」で思っていることの「裏(裏側)」は反対の思いが渦巻いている。で、その「裏の心」の「裏」は「表」と言い切れる? そうではなくて、「心の裏側(裏)の裏側(裏)」は、思っていた以上に混乱していて、収拾がつかなくなっている。闇よりも深い闇ということもあるかもしれない。「裏の裏」は「さらなる裏」ということがあるかもしれない。
 そう考えると、秋亜綺羅のことばの裏切り方は、自分で用意した「意味」を裏切っているだけという感じがしない?
 ことばは、人と人がいっしょにいるときにはじめて動く。その動き方は、ひとりが一方的にきめる問題ではない。

 秋亜綺羅は、どこかで「意味」を想定しておいて、それをくつがえしてみせるだけ。「意味」を想定している秋亜綺羅は、ことばがどんなふうに動いていっても少しもかわらない。立体的なことばの世界を「仕掛け」で「平面的」にしてみせ、変化を簡略化し、わかりやすく装っているだけ、という気がどうしても拭えない。
 いや「立体」としての「ことば」を仕掛けによって、さらに立体的なものとしてみせるということもあるんだろうけれど。

 ことばは、そのことばの「意味」を裏切ると詩になる。「意味」を裏切るとき、ことばのなかからまだ名づけられていないものが生まれる、それが詩である--その「主張(論理)」は論理としてとてもよくわかるけれど……。

 でも、ことばに「意味」なんて、ないんじゃないのかなあ、と秋亜綺羅の書いたものを読み終わったあと、私は反論したくなるのだ。
 秋亜綺羅は、「意味」を裏切らないと、「意味」はなくならない(あるいは新しい「意味」は生まれない)と思っていないだろうか。
 「意味」というのは、ことばが抱え込んでいるものではなく、そのことばをつかう人と、それを読む人が出会ったとき、自然に生まれてくるもの。それに、ひとはことばをつかうとき「意味」なんか伝えようとはしていない。「意味」をひっくりかえそうともしていない。「ことば」に「意味」なんか、ない。「ことば」にあるのは「肉体」そのもの。「ことば」と「肉体」は同じもの。--というのは、私の書き急ぎだけれど。

 「意味」は、人が人を動かす(支配する)ときに利用するもの。「こうした方が合理的/わかりやすい」という方便。「合理的」「わかりやすい」方向へ他者を動かしていく。いつも、私はそこにたどりついてしまう。何を書いているのか、わからなくなってきたなあ。
 あしたまた感想を書くかも。


ひよこの空想力飛行ゲーム
秋亜綺羅
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(149)

2014-08-18 09:36:16 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(149)        

 「彼は品定めをした」は小物を商う店を通ったとき、ふと店員の顔を見て、その姿にひかれて入っていく。売り物のハンカチの「品定め」をするふりをしながら、店員の「品定め」をしている。「品定め」というより、愛の交渉と言うべきか。

「このハンカチの品質はどうかね。
いくらする?」。声がのどに詰まる。
灼けつく欲望が言葉をかすれさせる。
返って来た答えの感じも似ていた。
気もすずろなるうわずった声。
口にこそ出さね、同意の色。

 男色の詩はいろいろあるが、この詩は少し変わっている。「声」がきちんと描写されている。いつものように容姿は省略されているが、「声」は書き込まれている。「のどに詰まる」と「かすれる」は似ている。「うわずった」は逆に声(のど)の抑制がうまくいかない感じだが、この微妙な変化はカヴァフィスの「嗜好」をあらわしている。詩人は「声」を生きている。ことばが声になり、相手にとどく。それが返ってくる。
 カヴァフィスの詩は登場人物の「主観」をいきいきと描いているが、それは「ことばの論理」として再現しているだけではなく、「声」そのものとして再現しているということだ。だから、「口語」が頻繁に出てくる。その「口語」の調子を、中井久夫は肉体の動きそのものとして具体化している。

商品問答を続ける二人。
その目的はただ一つ。ハンカチ越しにつと手が触れはせぬか。
ひょっとして顔が、唇が近づきはしないか。
腕や脚が一瞬ぶつからないか。

 これは、実際は、ハンカチ越しに手を触れさせ、顔を近づけ、腕や脚をぶつけ、ひょっとすると唇も触れあったのかもしれない。なぜなら、

その素早さ。人目を避ける巧みさ。
奥に座った店主には
まったく気づかれずじまいだった。

 と書いているからだ。「声」は欲望を伝えあい、ことば(意味/内容)は、そこで動いている欲望を隠し、ごまかす手段になっている。店主にはハンカチの品定めをしていると信じさせて、耳に情報を与えることで目をゆだんさせて、その隙に愛を確認している。
 「声」と「ことば」を巧みにつかいわけて動いているカヴァフィスの独特の姿が、この詩に見える。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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